top of page
検索
All Posts
安心しなさい(マルコ6:45-56) 20241229
私は、説教の前に神の導きとして聖霊を求める短い祈りをしています。
これから御言葉を聴くにあたって、「私たちのかたくなな心を、柔らかな心にしてください」という祈りを込めています。人間の心ほど厄介なものはありません。かたくなな心になってしまうと、何も受け入れようとしません。そんなことあるはずがない、どうせこうだろう、と決めつけて、何も受け付けない心になってしまいかねないのです。
それでも主イエスは、弟子たちのところに、動けずにうずくまっている私たちのところに来てくださいます。「安心しなさい。わたしだ(わたしはあなたとともにいる)。恐れることはない。」と仰ってくださるのです。
私たちのかたくなな心は、主イエスキリストの愛によって、やがて変えられていきます。自分の人生の受けとめ方が変わってきます。何かに強いられたような人生から脱皮するのです。そして主イエスに導かれた人生へと変わっていくのです。信仰によってそのように受けとめることができるように変えられていくのです。
abba 杵築教会
2024年12月29日読了時間: 8分
青草の原(マルコ6:30-44) 20241222
エゼキエル書34節1節から16節までで、主なる神は、「養う」という言葉を11回も用いています。そして14節には、「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。」と預言してくださっています。
良い牧場と肥沃な牧草地とは、ダビデの言った青草の原と同義です。ここでは、主なる神がわたしたちを憩わせ、良い牧場と肥沃な牧草地、『青草の原』で養ってくださると、預言されているのです。
このように、主が私たちの牧者として、私たちに食事と休息を与えて休ませてくださるという約束のキーワードが『青草の原』なのです。このことを覚えて、主に感謝しながら、本日の説教題を『青草の原』とさせていただきました。
abba 杵築教会
2024年12月22日読了時間: 8分
神の言葉はとこしえに立つ(マルコ6:14-29) 20241208
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年12月8日待降節第2主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 (聖書) イザヤ書 40章1~8節(旧1123頁) マルコによる福音書 6章14~29節(新71頁) 1.洗礼者ヨハネとヘロデ 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書6章14~29節で、冒頭の小見出しに「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。 洗礼者ヨハネは、マルコによる福音書1章の最初に登場していました。主イエスは、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられました。 洗礼者ヨハネは、イザヤ書40章(旧1123頁)の預言を引用して、神のための街道を「まっすぐにせよ」と人々に語り掛けて、悔い改めを求めていました。 主イエスの御降誕の時に登場したヘロデ大王と今日のマルコによる福音書で洗礼者ヨハネと関わったヘロデとは、違う人です。ヘロデ大王の息子の一人です。ヘロデは名ではなく姓なのです。 主イエスご降誕当時のユダヤは、ローマとの協調関係を構築しており、ヘロデ大王がユダヤの王として認められていました。ヘロデ王朝
abba 杵築教会
2024年12月8日読了時間: 7分
使命に伴うしるし(マルコ6:6b-13) 20241201
本日与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記4章(旧98頁)です。冒頭に「使命に伴うしるし」と書かれています。今日の説教題は、ここから選びました。しるしとは、英語ではsymbol、象徴ということです。
出エジプト記4章2節に、「主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると…」と書かれており、「杖」という言葉が出てきます。
モーセの手元にあったその杖一本が、使命に伴うしるし、大切な象徴symbolとして用いられているのです。
モーセは、さらに、自分は口が達者ではない、人々のリーダーに立つことなど到底不可能だと言って抵抗しました。すると主は、4章14節(旧99頁)で、兄のアロンという人物が備えられていることを示されました。
このことによっても、主は私たちに本当に必要なものは、すでに備えてくださっていることを示しているのです。
abba 杵築教会
2024年12月1日読了時間: 8分


渋柿を甘くする(マルコ6:1-6a) 20241124
本日私たちに与えられた旧約聖書は詩編22編23~32節です。 ここには、渋柿のような吐き出しそうな人間でも、渋柿を甘くする かのように、主に喜ばれる良いものに変えられる様子が書かれてい ます。
23、24 節には、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中で あなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの 子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れ よ。」と書かれています。このように、御名を語り伝えること、主を賛美すること、 主を畏れることの必要性を指し示しています。
そして、31、32節では、「子孫は神に仕え/主のことを来たるべき 代に語り伝え/成し遂げてくださった恵の御業を/民の末に告げ知ら せるでしょう。」と、主を高らかに賛美しているのです。
abba 杵築教会
2024年11月24日読了時間: 8分
死と病を支配される主(マルコ5:21-43)20241117
この物語を通じて、主イエスを恐れ、主イエスを信じる者すべての者に、終わりの日に死と病を支配される権能を働かしてくださることを知ることができます。
主イエスが、「タリタ、クム」と言われた、主の力ある言葉を私たちは聞くのです。
主の復活の業とは、再び死ぬことのない、悲しみ、嘆き、痛みのない永遠の命を与えてくださるという約束です。この物語を通じて、主がそれを指し示めしてくださっているのです。
その主イエス・キリストの言葉を聴くことができる場は、教会です。
私たちは、死、病、罪を乗り越えて、私たちを歩ませてくださる力を、主イエスから説教を通じて受け取ります。
主イエスは、皆さんそれぞれのところでも、そのために必要な主イエスの歩みの「中断」をしてくださいます。そして私たちは、「起きなさい」という主の言葉を聴かせていただくのです。その時私たちは、主イエス・キリストと真の出会いをすることになるのです。
abba 杵築教会
2024年11月17日読了時間: 12分
永遠の住まい(マルコ5:1-20) 20241103
18節で「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」と書かれています。
ところが、主イエスはこの人に対して、一緒に行くことを許しません。
その代わりに19節で、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。
主イエスは、この詩編第22編の詩人ダビデが自分の罪を悟り、「逆転人生」を歩み始めたことをご存知でした。ダビデと同じように、自分が今まで相手にされていなかった家族や周りの人たちのところへ帰って、伝道する「逆転人生」を始めるようにと言われたのです。
このようにして、人は誰でも、主イエスと出会い、主イエスに新たに造り変えていただき、新たな歩みが始まっていくのです。私もそうです。自分の思いではなく、神のご計画の中で神に従って、この大分県杵築市にやって参りました。
abba 杵築教会
2024年11月3日読了時間: 12分
向こう岸へ渡ろう(マルコ4:36-41) 20241020
悲しいかな、この嵐の中で、人間の罪が見事に暴き出されてしまったのです。弟子たちは、嵐の中で右往左往して、主イエスを起こして、罪に満ちた言葉を主イエスに投げかけてしまいました。
それでも、主イエスによってこの嵐を静めてもらえました。その後で、弟子たちは主イエスに叱らます。
40節です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、主イエスに言われています。それでは、弟子たちはいったいどうすればよかったのでしょうか。
嵐の中を慌てふためいて左右するのではなく、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたのだから、その言葉信じることが何よりも求められます。必ず主イエスの御言葉どおりになる、と信じることが必要なのです。
その上で、オールを持って漕ぎ続けたり、水の掻き出しをするなど、自分の賜物を生かした働きをすること、どんなときでも、主に祈りを捧げ続ける信仰が求められるのです。
abba 杵築教会
2024年10月20日読了時間: 9分


向こう岸へ渡ろう(マルコ4:35-41) 20241020
ここでは、主イエスが出発前に「向こう岸に渡ろう」と言われたことに注目してください。
この言葉をどう弟子たちが聴いたのかが問われるからです。
主イエスは、これまでも、そしてこれからも、聖書に記された通りに働き、その記述に従ってその歩みを進められます。聖書は、ある意味でこの全知全能の、唯一真(まこと)の神さえも従わせると感じさせられるほどの力と権威を持った、絶対的な存在だということになります。誰も、聖書を無視したり、否定したり、あるいは変更したりすることはできないのです。
ですからこの聖書に記された、すべての出来事は、神の権威をもって、必ずすべてが完全にそのとおりになるのです。今日の聖書箇所では、向こう岸に渡ろうという主イエスの言葉が発せられて、この出来事が始まっているのです。
abba 杵築教会
2024年10月20日読了時間: 9分


収穫の時(マルコ4:26-30) 20241013
マルコによる福音書4章32節において、主イエスが、「葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」と語られているというのは、すでに異邦人のことまでも含めて仰っていたのかもしれません。
勿論、ここで主イエスが、どこまで考えておられたかは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、からし種の木とかかわりを持つようになることと、自然の大きな広がりについて主イエスは仰っているのです。
最後に、マルコによる福音書4章29節(新68頁)に話を戻します。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と書かれています。ここから本日の説教題「収穫の時」を選ばせていただきました。
自然の中で、収穫の時がいつなのかは、主が決められることで、私たちの知るところではありません。しかし、その日、その時にどのようなことが起こるのか、すなわち実が熟することや大きな枝を張るということは、私たちに知らされているのです。
abba 杵築教会
2024年10月13日読了時間: 8分


収穫の時(マルコ4:26-34) 20241013
マルコによる福音書4章32節において、主イエスが、「葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」と語られているというのは、すでに異邦人のことまでも含めて仰っていたのかもしれません。
勿論、ここで主イエスが、どこまで考えておられたかは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、からし種の木とかかわりを持つようになることと、自然の大きな広がりについて主イエスは仰っているのです。
最後に、マルコによる福音書4章29節(新68頁)に話を戻します。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と書かれています。ここから本日の説教題「収穫の時」を選ばせていただきました。
自然の中で、収穫の時がいつなのかは、主が決められることで、私たちの知るところではありません。しかし、その日、その時にどのようなことが起こるのか、すなわち実が熟することや大きな枝を張るということは、私たちに知らされているのです。
abba 杵築教会
2024年10月13日読了時間: 8分


私の道の光(マルコ4:21-25) 20241006
本日、私たちに合わせて与えられている旧約聖書の箇所は、詩編119編です。
詩篇の中で最も長い詩で、8節ずつヘブライ語のアルファベット22文字でグループ分けした、合計176節(8節×22)で構成されています。
97節には、「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」と、詩人は真剣に神を尋ね求める求道心と神の御言葉に生きることの大切さを記しています。
そして、101節には「どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください」と歌い、そういった文脈の中で、105節では「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」と歌っています。
この聖書箇所から、本日の説教題を「わたしの道の光」とさせていただきました。御言葉によって道が照らされるのです。ここでは、わたしの歩みを照らす灯と言い換えていますから、自分がその灯を持って操っているというよりは、スポットライトのように灯が動いてやって来るように書かれているのです。
マルコによる福音書4章21節で、「ともし火がやって来る」と主イ
abba 杵築教会
2024年10月6日読了時間: 8分


種を蒔く人のたとえ(マルコ4:13-20)20240929
この「種を蒔く人」のたとえに出てくる、道端、石だらけの所、茨の中、良い土地といった、いろいろな土地は、いずれも私たち自身のことです。
なかなか実を結ぶことができなかったけれど、「種を蒔く人」すなわち三位一体の神は、今日も種を蒔き続けてくださっています。そして私たちはその神の御言葉を聞く時を経て、良い土地、開墾された土地に変えられていく、そして今では百倍の実を結び、今も実っていると主は仰っているのです。
abba 杵築教会
2024年9月29日読了時間: 7分
百倍の実(マルコ4:13-20) 20240929
このたとえ話で強調されているのは、百倍の実りという言葉です。
ルカによる福音書8章4節にも「種を蒔く人」のたとえが書かれています。「良い土地」に落ちた一粒の種は、「生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:8)と書かれています。
ルカは、30倍と60倍の実とは記していません。ルカは、ただ百倍の実を結んだと書いています。聖書注解書に拠れば、当時の農業の収穫効率は、せいぜい数十倍がいいところで、百倍というのは神の介在無くしては考えられない数字だと書かれています。
abba 杵築教会
2024年9月29日読了時間: 7分


神の国の秘密(マルコ4:10-12) 20240915
マルコは誰かを切り離すために、この福音書を書いたのではありません。むしろ教会の中で説教を聞いている人たちに、先ずは主イエスと同じ舟に乗っている「周りにいた人たち」であることを受けとめてもらうために、この福音書を書いたのです。
そして「種を蒔く人」のたとえを聴いて、先ず、自分たちは主イエスの「周りにいた人たち」であることを確認して、それから自分たちは「よい土地」の者たちであると受けとめたのです。
私たちも同じです。自分が優れているから今ここにいるのではありません。ただ、神の賜物として招かれただけです。舟に乗せていただいた者として、聞く耳が与えられた者として、そして、立ち帰って赦された者として、その神の国の秘密を知ることができた者として、私たちは歩んでいくことができるのです。
私たちは「よい土地」として種を蒔かれたのです。ここにおられる皆さんお一人お一人が、それぞれ多くの実を結ばせていただけるよう、お祈りさせていただきます。
abba 杵築教会
2024年9月15日読了時間: 9分
種を蒔く人のたとえ(マルコ4:1-9) 20240908
私を例としてお話すれば、東京砂漠という茨の中から、杵築という良い地に植えられた木、植え替えられた恵まれた木と言うことになります。
教会に来ておられる方は、良い地に、「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)、植え替えられた木なのです。
御言葉の種には、神の力が働くからです。主イエスが今日も御言葉の種を蒔いてくださっているのですから、私たちは主イエスのお言葉に聞き従いたいと思います。
そうすれば、私たちは、神が蒔いてくださったその種ですから、良い地に植えられた木となり、恵の太陽の光と水が降り注がれ、成長して、やがて実を結ばせることができるのです。
abba 杵築教会
2024年9月8日読了時間: 10分


神の家族(マルコ3:31-35) 20240825
主イエスは、34、35節で、周りに座っている人々を見回して、主イエスの教えに耳を傾けている者たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と、自分の周りにすわっている神の家族がいる、と言われたのです。そのように神の御心を行う人こそが自分の家族だと言われました。主イエスは、血のつながりによるのではなく、主イエスの教えを聴いているか聴いていないかということに焦点をあてて、家族であることより、家族になることが大切だと仰っているのです。
abba 杵築教会
2024年8月25日読了時間: 9分
すべて赦される(マルコ3:20-30) 20240818
わたしたちは、29節の聖霊を冒涜することを気遣うよりも、28節の「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」という言葉に注目すべきです。そもそも人間に本当にできるのか、不可能なのではないかなどと、あれこれと考えるよりも、ただ聖霊の力と導きを信じさせてくださいと祈るべきでしょう。
聖霊はわたしたちの信仰生活のすべてを導いてくださいます。聖霊に導かれることによって、主イエスの語られる言葉、そのたとえが、分かるようになります。主イエスの戦いの結果、もたらされる恵みがここにあるのです。信仰によって、感謝して、それを受け取ることができるのです。
abba 杵築教会
2024年8月18日読了時間: 8分
使徒の使命(マルコ3:13-19) 20240811
16節以降には、主イエスに任命された十二人の名前が記されています。「ペトロ」=岩という名を付けられたシモンに始まり、12人目の最後に出てくるのが「イスカリオテのユダ」です。19節には、「このユダがイエスを裏切ったのである」とわざわざ記されています。
主イエスによって実現する神様の救いのみ業は、ユダの裏切りをも包み込んで進んでいます。十二人の使徒たちもまた私たち同様、自分の弱さや偏見、罪や裏切りの一切を担って下さる全能の神様の力に依り頼んで歩むことを許されて神様のもとに呼び集められた不思議な者たちなのです。
私たちは使徒たちの後に続く者として、使徒的教会の一員として、先ずは礼拝において御言葉をしっかりと聞かせていただき、主イエスが私たち一人一人に与えようとしておられる使命を覚えて、私にもできる「お使い」をさせていただく者でありたいと祈ります。
abba 杵築教会
2024年8月11日読了時間: 9分
あなたは神の子だ(マルコ3:11,12) 20240804
汚れた霊に取り付かれると、自分の言葉ではなく悪霊の言葉を語り、そして自分の思いではなく悪霊の思いによって行動するようになります。ですから、汚れた霊どもが、ひれ伏したとか、叫んだというのは、表面的にはその汚れた霊どもに取り付かれた人がひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだのです。しかしその実は、それは悪霊の行動であり、悪霊の叫びなのです。
汚れた霊どもは、主イエスが、神の独り子であり、人々の救いのためにこの世に来られた方で、自分たち悪霊を取りついた人から追い出す権能を持っていることを知っています。
一方で、主イエスに触れようとして押し寄せて来たユダヤ人の群衆たちは誰一人として、そのことに気付いていない様子です。
汚れた霊どもがひれ伏して『あなたは神の子だ』と叫んだのは、主イエスを礼拝した言葉ではありません。信仰を告白したのでもありません。自分たちが、主イエスによってその取り付いた人から追い出されないように、つまり悪霊が自分を守るために『あなたは神の子だ』と叫んだのです。
abba 杵築教会
2024年8月4日読了時間: 7分
bottom of page