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一筋の光を(マルコ9:14-29) 20250309
7節には、「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。」と神への信頼に生きる祈りの言葉が書かれています。
そして11節では、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っています。
私たちの心はとても裂けやすい繊細なものです。
「できれば、信じたい」と私たちは思うのですが、でも、同時に駄目かな、と思ってしまいます。ところが、ここでダビデは、そんな揺れ動く心ではなく、「一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っているのです。
この聖書箇所から、今日の説教題を「一筋の心を」とさせていただきました。
abba 杵築教会
2025年3月9日読了時間: 10分
主イエスの変容(マルコ9:2-13)20250302
8節には、モーセとエリヤは消えて、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」と書かれています。
ここで、主イエスが真っ白く光り輝いたことは、イエスが本物のイスラエルの救世主、メシアであることが示された、確かな証しの出来事であることが強調されているのです。
しかもモーセとエリヤが共に現れたということですから、イエスがそれほど偉大な方である何よりの証拠となる出来事です。三人の会談を終えて、モーセもエリヤも消えていなくなりました。残されたのは主イエスだけです。モーセとエリヤが消え、これからは、主イエスお一人がすべてを担ってくださるということです。私たちの救いの完成に向けて、主イエスが必要なすべてのことをしてくださるのです。
abba 杵築教会
2025年3月2日読了時間: 10分
自分の十字架(マタイ8:31-9:1) 20250216
主イエスは、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白したことを受け止めましたが、弟子たちが周囲にその証をするのは時期早尚で、主イエスの弟子としてさらに彼らを教育しなければならないと思われたようです。
そのため31節に、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」と書かれているのです。
この中で主イエスは、自分のことを「人の子」だと言っています。「人の子」とは、イザヤ書53章で預言されていた「苦難の僕」を指しています。すなわち、ご自身が世の人々の罪を担い、多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると、ご自身の十字架の死と復活の予告をしたのです。
abba 杵築教会
2025年2月16日読了時間: 9分
ペトロの信仰告白(マルコ8:22-30) 20250209
30節で、主イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と書かれています。
主イエスは、「だれにも話さないように」という同じ言葉を、悪霊に対しても、病をいやされた人にも、さらに弟子たちにも用いられて、「沈黙」を要求されています。ところが、皆、主の言いつけを無視して、いや、黙っていられないで、盛んに主イエスのことを証ししています。
それが、教会の今日につながっているのです。私も不完全、未熟者と告白せざるを得ない者です。主イエスの愛と恵みをいただき続ける必要がある者で、キリスト者として工事中の身です。キリスト者とは、常に主に導かれながら完成を目指して工事中の人々を言うのです。
abba 杵築教会
2025年2月9日読了時間: 8分
遠くから来ている者(マルコ8:1-21) 20250202
シリア・フェニキア生まれの女性の話の後に、今日の四千人への給食物語が書かれていますので、「中には遠くから来ている者もいる」と、異邦人がいたことをわざわざ書くことになったのは、この時点では、シリア・フェニキアなどからの異邦人が加わっていたと考えても良いと思います。
ここに至って、主イエスの福音宣教が異邦人に広がり始めていたことを指し示す御言葉として、「遠くから来ている者」と書かれたのだと思います。
abba 杵築教会
2025年2月2日読了時間: 9分
この人だけを(マルコ7:31-37) 20250126
「この人だけを群衆の中から連れ出した」と書かれていることです。今日の説教題はここから選びました。
「この人だけを」とあるように、主イエスは私たちに接するときに、いつもとてもやさしい配慮を個人個人にしてくださっているということが分かります。主イエスは、私たち一人ひとりの実情をすべて知って、私たちを大切に扱ってくださる方だということなのです。
詩編145編14節に「主は倒れようとする人を一人ひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」と書かれていることを、人々が主イエスによって目の当たりにすることになるのです。
耳の聞こえない人は、話しかけられても聞こえないので、自分に接してくる人がいると、緊張とおびえでどうしたらよいか分からなくなることを主イエスはよくご存じなのです。そして、その人に温かな思いやりを示されて、その人だけを連れ出したのです。
abba 杵築教会
2025年1月26日読了時間: 7分
パンくず(マルコ7:24-30) 20250119
25節に、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と書かれています。そして、26節には、「女はギリシャ人でシリア・フェ二キアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」と書かれています。
ここで、「来て」と書かれていますが、聖書のキーワードの一つです。
神のもとに来たという意味です。私たちが今朝のこの礼拝に参加していることに例えれば、あなたがたは教会に来て、主の言葉を聞き、主を賛美した、と神が仰っているのです。教会に行って礼拝したという表現は、礼拝に出席していない外側から語る言葉です。
さらに、その後の「ひれ伏した」というのは、信仰者の謙遜な姿を表わしたものです。ギリシャ人でシリア生まれのこの女性とは、一体何者なのだろうかと思わされます。
abba 杵築教会
2025年1月19日読了時間: 9分
福音とは何か(マルコ7:14-23) 20250112
主イエス・キリストの十字架の死は、本来死ななければならない私たちの身代わりとなってくださったものなのです。まったく罪汚れのない主イエスが私たちの身代わりになってくださったことによって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去って清めて下さったのです。それが福音であり、「喜ばしい良い知らせ」という意味なのです。
そして主イエスは、罪ある私たちがキリストに結ばれて救われ、新しい信仰の生活に入ることが赦される恵みの印として、洗礼を定めて下さいました。そしてさらに、その神様からいただいた恵みを自らの身体をもって味わいながら生きるために、この後与る聖餐を備えて下さったのです。
神があなたの人生に現れてくださったその福音の原点を大切にすること、そしてあなたが人の優しさに支えられたその原点を大切にすることこそが、私たちキリスト者の交わりを深めるエネルギーになります。そして普通とは違った形で、神を愛し、人を愛する、それこそが聖なるもの、清いものにされるという意味なのです。
abba 杵築教会
2025年1月12日読了時間: 7分


神の掟と人の言い伝え(マルコ7:1-13) 20250105
当時のファリサイ派の人々は、「俗」とか「汚れ」の意味を細かく規定して、「清め」の手続きを明確にしていました。
自分たちユダヤ人は神に選ばれた選民であり、自分は清い、そして自分は清さを保てると考えていたことがその背景にあります。
自分は清いからこそ、外からの汚れによって自分の清さを損なわないようにしている、と考えているのです。 自分たちのつくった口伝律法の規定に従っていれば、神の教えに反することにはならない、という安心感を自分たちに与えていたのです。ファリサイ派の人々の自分は選民であり、すでに清いと考え、手洗いの規定は清さを保つためだと考えていることに、彼らの虚栄心の強さとうぬぼれが現れているのです。
彼らのそうした選民意識にこそ、問題があります。「清さ」とか「聖」というものは、神に属するものです。この世で聖なるものは、神だけです。だからこそ神は、人々に「死を招くことのないため」にと、「(手足を)洗い清める」ことを求めておられてことを知らなければなりません。
abba 杵築教会
2025年1月5日読了時間: 8分
安心しなさい(マルコ6:45-56) 20241229
私は、説教の前に神の導きとして聖霊を求める短い祈りをしています。
これから御言葉を聴くにあたって、「私たちのかたくなな心を、柔らかな心にしてください」という祈りを込めています。人間の心ほど厄介なものはありません。かたくなな心になってしまうと、何も受け入れようとしません。そんなことあるはずがない、どうせこうだろう、と決めつけて、何も受け付けない心になってしまいかねないのです。
それでも主イエスは、弟子たちのところに、動けずにうずくまっている私たちのところに来てくださいます。「安心しなさい。わたしだ(わたしはあなたとともにいる)。恐れることはない。」と仰ってくださるのです。
私たちのかたくなな心は、主イエスキリストの愛によって、やがて変えられていきます。自分の人生の受けとめ方が変わってきます。何かに強いられたような人生から脱皮するのです。そして主イエスに導かれた人生へと変わっていくのです。信仰によってそのように受けとめることができるように変えられていくのです。
abba 杵築教会
2024年12月29日読了時間: 8分
青草の原(マルコ6:30-44) 20241222
エゼキエル書34節1節から16節までで、主なる神は、「養う」という言葉を11回も用いています。そして14節には、「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。」と預言してくださっています。
良い牧場と肥沃な牧草地とは、ダビデの言った青草の原と同義です。ここでは、主なる神がわたしたちを憩わせ、良い牧場と肥沃な牧草地、『青草の原』で養ってくださると、預言されているのです。
このように、主が私たちの牧者として、私たちに食事と休息を与えて休ませてくださるという約束のキーワードが『青草の原』なのです。このことを覚えて、主に感謝しながら、本日の説教題を『青草の原』とさせていただきました。
abba 杵築教会
2024年12月22日読了時間: 8分
神の言葉はとこしえに立つ(マルコ6:14-29) 20241208
本稿は、日本基督教団杵築教会における2024年12月8日待降節第2主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄 (聖書) イザヤ書 40章1~8節(旧1123頁) マルコによる福音書 6章14~29節(新71頁) 1.洗礼者ヨハネとヘロデ 本日、私たちに与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書6章14~29節で、冒頭の小見出しに「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。 洗礼者ヨハネは、マルコによる福音書1章の最初に登場していました。主イエスは、ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられました。 洗礼者ヨハネは、イザヤ書40章(旧1123頁)の預言を引用して、神のための街道を「まっすぐにせよ」と人々に語り掛けて、悔い改めを求めていました。 主イエスの御降誕の時に登場したヘロデ大王と今日のマルコによる福音書で洗礼者ヨハネと関わったヘロデとは、違う人です。ヘロデ大王の息子の一人です。ヘロデは名ではなく姓なのです。 主イエスご降誕当時のユダヤは、ローマとの協調関係を構築しており、ヘロデ大王がユダヤの王として認められていました。ヘロデ王朝
abba 杵築教会
2024年12月8日読了時間: 7分
使命に伴うしるし(マルコ6:6b-13) 20241201
本日与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記4章(旧98頁)です。冒頭に「使命に伴うしるし」と書かれています。今日の説教題は、ここから選びました。しるしとは、英語ではsymbol、象徴ということです。
出エジプト記4章2節に、「主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると…」と書かれており、「杖」という言葉が出てきます。
モーセの手元にあったその杖一本が、使命に伴うしるし、大切な象徴symbolとして用いられているのです。
モーセは、さらに、自分は口が達者ではない、人々のリーダーに立つことなど到底不可能だと言って抵抗しました。すると主は、4章14節(旧99頁)で、兄のアロンという人物が備えられていることを示されました。
このことによっても、主は私たちに本当に必要なものは、すでに備えてくださっていることを示しているのです。
abba 杵築教会
2024年12月1日読了時間: 8分


渋柿を甘くする(マルコ6:1-6a) 20241124
本日私たちに与えられた旧約聖書は詩編22編23~32節です。 ここには、渋柿のような吐き出しそうな人間でも、渋柿を甘くする かのように、主に喜ばれる良いものに変えられる様子が書かれてい ます。
23、24 節には、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中で あなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの 子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れ よ。」と書かれています。このように、御名を語り伝えること、主を賛美すること、 主を畏れることの必要性を指し示しています。
そして、31、32節では、「子孫は神に仕え/主のことを来たるべき 代に語り伝え/成し遂げてくださった恵の御業を/民の末に告げ知ら せるでしょう。」と、主を高らかに賛美しているのです。
abba 杵築教会
2024年11月24日読了時間: 8分
死と病を支配される主(マルコ5:21-43)20241117
この物語を通じて、主イエスを恐れ、主イエスを信じる者すべての者に、終わりの日に死と病を支配される権能を働かしてくださることを知ることができます。
主イエスが、「タリタ、クム」と言われた、主の力ある言葉を私たちは聞くのです。
主の復活の業とは、再び死ぬことのない、悲しみ、嘆き、痛みのない永遠の命を与えてくださるという約束です。この物語を通じて、主がそれを指し示めしてくださっているのです。
その主イエス・キリストの言葉を聴くことができる場は、教会です。
私たちは、死、病、罪を乗り越えて、私たちを歩ませてくださる力を、主イエスから説教を通じて受け取ります。
主イエスは、皆さんそれぞれのところでも、そのために必要な主イエスの歩みの「中断」をしてくださいます。そして私たちは、「起きなさい」という主の言葉を聴かせていただくのです。その時私たちは、主イエス・キリストと真の出会いをすることになるのです。
abba 杵築教会
2024年11月17日読了時間: 12分
永遠の住まい(マルコ5:1-20) 20241103
18節で「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」と書かれています。
ところが、主イエスはこの人に対して、一緒に行くことを許しません。
その代わりに19節で、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。
主イエスは、この詩編第22編の詩人ダビデが自分の罪を悟り、「逆転人生」を歩み始めたことをご存知でした。ダビデと同じように、自分が今まで相手にされていなかった家族や周りの人たちのところへ帰って、伝道する「逆転人生」を始めるようにと言われたのです。
このようにして、人は誰でも、主イエスと出会い、主イエスに新たに造り変えていただき、新たな歩みが始まっていくのです。私もそうです。自分の思いではなく、神のご計画の中で神に従って、この大分県杵築市にやって参りました。
abba 杵築教会
2024年11月3日読了時間: 12分
向こう岸へ渡ろう(マルコ4:36-41) 20241020
悲しいかな、この嵐の中で、人間の罪が見事に暴き出されてしまったのです。弟子たちは、嵐の中で右往左往して、主イエスを起こして、罪に満ちた言葉を主イエスに投げかけてしまいました。
それでも、主イエスによってこの嵐を静めてもらえました。その後で、弟子たちは主イエスに叱らます。
40節です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、主イエスに言われています。それでは、弟子たちはいったいどうすればよかったのでしょうか。
嵐の中を慌てふためいて左右するのではなく、主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたのだから、その言葉信じることが何よりも求められます。必ず主イエスの御言葉どおりになる、と信じることが必要なのです。
その上で、オールを持って漕ぎ続けたり、水の掻き出しをするなど、自分の賜物を生かした働きをすること、どんなときでも、主に祈りを捧げ続ける信仰が求められるのです。
abba 杵築教会
2024年10月20日読了時間: 9分


向こう岸へ渡ろう(マルコ4:35-41) 20241020
ここでは、主イエスが出発前に「向こう岸に渡ろう」と言われたことに注目してください。
この言葉をどう弟子たちが聴いたのかが問われるからです。
主イエスは、これまでも、そしてこれからも、聖書に記された通りに働き、その記述に従ってその歩みを進められます。聖書は、ある意味でこの全知全能の、唯一真(まこと)の神さえも従わせると感じさせられるほどの力と権威を持った、絶対的な存在だということになります。誰も、聖書を無視したり、否定したり、あるいは変更したりすることはできないのです。
ですからこの聖書に記された、すべての出来事は、神の権威をもって、必ずすべてが完全にそのとおりになるのです。今日の聖書箇所では、向こう岸に渡ろうという主イエスの言葉が発せられて、この出来事が始まっているのです。
abba 杵築教会
2024年10月20日読了時間: 9分


収穫の時(マルコ4:26-30) 20241013
マルコによる福音書4章32節において、主イエスが、「葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」と語られているというのは、すでに異邦人のことまでも含めて仰っていたのかもしれません。
勿論、ここで主イエスが、どこまで考えておられたかは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、からし種の木とかかわりを持つようになることと、自然の大きな広がりについて主イエスは仰っているのです。
最後に、マルコによる福音書4章29節(新68頁)に話を戻します。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と書かれています。ここから本日の説教題「収穫の時」を選ばせていただきました。
自然の中で、収穫の時がいつなのかは、主が決められることで、私たちの知るところではありません。しかし、その日、その時にどのようなことが起こるのか、すなわち実が熟することや大きな枝を張るということは、私たちに知らされているのです。
abba 杵築教会
2024年10月13日読了時間: 8分


収穫の時(マルコ4:26-34) 20241013
マルコによる福音書4章32節において、主イエスが、「葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張る」と語られているというのは、すでに異邦人のことまでも含めて仰っていたのかもしれません。
勿論、ここで主イエスが、どこまで考えておられたかは分かりませんが、少なくとも、からし種とはまったくかかわりのなかった空の鳥まで、からし種の木とかかわりを持つようになることと、自然の大きな広がりについて主イエスは仰っているのです。
最後に、マルコによる福音書4章29節(新68頁)に話を戻します。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と書かれています。ここから本日の説教題「収穫の時」を選ばせていただきました。
自然の中で、収穫の時がいつなのかは、主が決められることで、私たちの知るところではありません。しかし、その日、その時にどのようなことが起こるのか、すなわち実が熟することや大きな枝を張るということは、私たちに知らされているのです。
abba 杵築教会
2024年10月13日読了時間: 8分
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