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幸いな二人(ルカ1:39-56) 20251130
45節でエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ってマリアを見つめています。
マリアは、神さまがお語りになった恵みのみ言葉は必ず実現する、たとえそれが人間の常識や理解を超えたものであっても、神さまの力によってそれは必ず現実のものとなると信じていましたから、このマリアの信仰を称えて言っているのです。「主がおっしゃったことは必ず実現する」という言葉は、マリアの信仰であると共にエリサベトの信仰なのです。
人間の思いを超える神さまのみ力によって子を宿すこととなった二人は、共に、主がおっしゃったことがは必ず実現することを自分の体で体験させられて、共鳴しているのです。その信仰によって、二人共、「幸いな者」となっているのです。
abba 杵築教会
21 時間前読了時間: 9分


この身に成りますように(ルカ1:26-38) 20251123
最後に天使が語った言葉が、37節の「神にできないことは何一つない」というものです。この言葉)を聞いたマリアは、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っています。マリアは、主を完全に信じて受け入れています。
そしてマリアは、神は語られたみ言葉を必ず実現することができる、自分に対して語られたみ言葉も必ずその通りに神が実現して下さる、と信じて、神のみ手に自分を委ねたのです。
abba 杵築教会
4 日前読了時間: 11分


新しい言葉を語る(マルコ16:9-20) 20251116
わたしたちは希望に生きる群れです。
誘惑や困難や罪、病や死に打ち勝つことが約束されているという、「新しい言葉」がわたしたちの口から出て来る、主イエスが今もわたしたちのなかで生きて働いておられる、とわたしたちは信じています。
神は愛なる方であり、わたしたち一人一人と共にいてくださいます。
主イエスは、十字架と復活の出来事を通じて、わたしたちにそのことを示してくださいました。
わたしたちを「神は愛なり」と言う言葉を受取って、主を信じる者とさせてください。
主なる神が、わたしたちを導き、励まし続けてくださり、わたしたちが、主の栄光を仰ぎ見て、主の道を歩み続けることができますよう導いてください、とお祈りします。
abba 杵築教会
11月16日読了時間: 10分


イエスの復活(マルコ16:1-8) 20251109
今日の説教の説教題を、「イエスの復活」としましたが、お前たち、わたしたちの復活です。
わたしたちはイエスの復活を知っている者たちです。イエスの復活によって、空っぽの墓に驚き、恐れ、復活の主イエスと出会い、復活を信じる群れが生まれました。
それは、恐れではなく、喜びに生きる群れです。
死、病、罪、あらゆる恐れを乗り越えられる道がここにあります。
わたしたちはその信仰に生きることができるのです。
abba 杵築教会
11月9日読了時間: 9分


朝ごとに新たになる(マルコ15:42-47) 20251102
聖書は、葬りということにおいて、この死の苦しみ、悲しみ、絶望を誤魔化すことなく具体的に見つめています。しかし、神の独り子主イエス・キリストが、私たちのために死んで葬られ、そして復活して下さいました。主イエスの墓は空になったのです。そのことによって、主イエスを信じ、主イエスと結び合わされて生きるわたしたちにとって、「葬られる」ことの意味は変わったのです。
全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められるという死の苦しみ、悲しみ、絶望が、神のみ力によって滅ぼされ、主イエスと共に神のもとで永遠の命を生きる喜びが与えられるのです。
主イエス・キリストが、十字架にかかって死んで下さり、葬られて下さり、そして復活して下さったことによって、この救いが、死を越える希望が、私たちに与えられたのです。
abba 杵築教会
11月2日読了時間: 10分


愛ゆえに怒る・恕す(マルコ15:33-41) 20251026
今日の説教題を『愛ゆえに怒(おこ)る・恕(ゆる)す』とさせていただきました。
「怒る」という漢字は、女という漢字の右側に又と言う字を書いて、その下に心と書きます。その「怒る」という漢字の又の部分を口に変えるだけで、「恕す」という漢字に なって、全く反対の意味になるのです。
「恕す」という漢字の由来は、孔子の『論語』にあります。簡単に説明しますと、孔子が弟子からたった一言で一生それを守っていれば間違いのない人生を送れるという大切な言葉は何ですか?と聞かれた時に、孔子が「恕す」という漢字一字で『恕』であると言われたのです。その意味は、慈しむとか赦す、憐れむという意味です。
abba 杵築教会
10月26日読了時間: 10分


聖書の言葉が実現した(マルコ15:21-32) 20251019
大切なことは、主イエスの十字架の出来事は、予期できなかった突発的な出来事ではないということです。主イエスが極限の苦しみを受けて死ぬことを、父なる神が計画し、主イエスが予告しておられました。神はわたしたちのための救いのみ業を、このようにして行なって下さったのです。
「聖書の言葉が実現した」のです。
abba 杵築教会
10月19日読了時間: 9分


復活と救い(ルカ24:13-25) 20251012
今回の聖書箇所は、イエス様の救いにあずかったのに、霊的に目が遮られた弟子たちです。これは、文字通り私たちの姿です。
エマオ途上でのイエス様の出現を、イエス様がいつも我々と共におり、永遠の命と復活に導かれることを聖書は伝えています。
二人の弟子は、目が遮られ、イエス様であるとは気づきません。これは、我々の姿です。人生を振り返ると、その節目、節目で神様の導きがあった事実に、思い当たります。人生は、後で振り返ると、イエス様の助けなしには、乗り越えることはでみませんでした。でも、苦労や苦しさの只中にある時には気がつきません。悩みを抱え、不安な心で、困難を乗り越えさせてくださり、心の不安を癒やされた後になって、イエス様に守られた事実に、気がつき、改めて感謝を捧げる人生ではなかったでしょうか。
abba 杵築教会
10月12日読了時間: 6分


沈黙の意味(マルコ15:1-5) 20251005
今日の聖書箇所では、主イエスの話された言葉はそれだけです。もし尋問の中で、主イエスが沈黙せず口を開いて、マルコによる福音書12、13章で主イエスが語られたように、祭司長、律法学者、長老たちを打ち負かすほどの答えをしたならば、ピラトはイエスに無罪の判決を下していたと思います。そうなると主イエスの十字架の出来事が起こらなかったことになります。主イエスがピラトの尋問の中で沈黙されていた理由は、ここにあるのです。
主イエスは、自分一人がわたしたちの罪を背負って身代わりとなって、ご自分が十字架に架かることを受容されていたのです。その決意をもって沈黙されたのです。すべてを父なる神にお委ねした神の独り子としての姿です。
abba 杵築教会
10月5日読了時間: 10分


キリストの光(マルコ14:66-72) 20250928
キリストの光に照らされて、その主イエスの恵みのみ手に気づかされる時、わたしたちは自分の罪に気付かされて泣くしかありません。しかし主イエスの恵みのみ手の中で泣くことができるわたしたちは幸いなのです。
その涙は、絶望ではなく赦されて新しく生きる希望をもたらすものとなるのです。
abba 杵築教会
9月28日読了時間: 8分


真理のために共に働く(ヨハネ三1-8)20250921
ヨハネは、8節で「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。」と告げます。ガイオ自身は伝道のために、巡回伝道者のように外に出掛けることはしません。しかし、巡回伝道者を助け支えるというあり方で、主の福音伝道のために共に働く者となっているのです。ガイオは、ダビデに対するバルジライのように、神様に選ばれ立てられた者を支えるというあり方で、神様の御業に仕えていた。私たちも、そのような者として召されているのだと思うのです。
abba 杵築教会
9月21日読了時間: 8分


御心に適うこと(マルコ14:32-36) 20250921
主イエスは36節bで、その苦しみのど真ん中で、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。
今日の説教題「御心に適うこと」は、ここから選ばせていただきました。
神の御心を受け入れ、それに従います、あなたの思い、あなたの最善がなるように、あなたにお任せします、神のみ旨が行われますようにという、深い恐れと敬いをもって父なる神への従順を示す祈りです。主イエスに与えられた使命は、地上に生命を受けたまことの人として十字架の苦しみと死、そして復活の道を歩むことによって、わたしたち人間の救いの道を啓示することでした。そのためには、主イエス自らがこの苦しみを経験しなければならなかったのです。そして神の独り子としてご自身の命をわたしたちの救いのためにささげる神の愛を、わたしたちに示してくださったのです。
それによってわたしたち罪人の救いが成就することになったのです。
abba 杵築教会
9月21日読了時間: 12分


天の雲に囲まれて来る(マルコ14:53-65) 20250914
主イエスは、いつかもう一度、天の雲に囲まれて来るのです。つまり神としての権威と力を帯びてこの世に来て下さるのです。その時には、主イエスが神の子、救い主であられることを、全ての人が見るのです。
その時わたしたちは、主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる者へと復活します。主イエスが栄光をもってもう一度来られる時に、わたしたちも復活の命を与えられ、永遠に主と共に生きる者とされるのです。
それがわたしたちの救いの完成です。
abba 杵築教会
9月14日読了時間: 9分


聖書の言葉が実現する(マルコ14:42-52) 20250907
この物語で、唯一の希望を見出すことができる、光が見えてくる聖書箇所が49節です。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」と、主イエス自ら仰っています。
一番身近にいた十二人の弟子の一人ユダに裏切られ、一番の弟子のペテロも恐怖に捕えられて弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、そのような中で主イエスはまるで強盗でもあるかのように捕えられる、これら全てのことが、聖書の言葉が実現するためである、つまり父である神のみ心であり、主のご計画によることなのだと、主イエスははっきりと意識しておられるのです。
この主イエスの落ち着いた歩みは、恐れや臆病に取りつかれた、主イエスを裏切り、あるいは逃げ去ってしまう周囲の人間たちの姿とは対照的です。
恐怖に捕えられて慌てふためき右往左往している人間たちと主イエスの堂々とした姿を同時に描くことによって、主の愛のご計画を遂行される主イエス・キリストの姿を指し示しているのです。
abba 杵築教会
9月7日読了時間: 9分


ゲッセマネの祈り(マルコ14:32-42) 20250831
主イエスの十字架とは、天の父なる神に従うという主イエスの自主的な判断でもありました。その生涯を通じて主イエスは、多くの苦しみを味わい、従順を学ばれて、すべての人々を救う使命を完遂されるのです。
「私たちのうちに何かがあるから立ち向かえる」というのではありません。祈りにおいて勝利して、「神が成し遂げてくださる」という約束に対する信仰だけで、主イエスは立ち上がって十字架に向かうことができたのです。
この方が、わたしたちの救い主です。この方でなければ、わたしたちのすべての罪を帳消しにしてくださることはできないのです。わたしたちは目を覚ましていなさいと言われても眠ってしまう力のない者です。皆さんの帳消しにして欲しい罪は何ですか?ご自分の心の板に書き記してください。たくさん自分の罪を書き記すことができた方ほど、主に祝福されて主の救いの恵みを沢山いただけるのです。
ハレルヤ!アーメン。
abba 杵築教会
8月31日読了時間: 10分


ガリラヤへ行く(マルコ14:27-31) 20250824
わたしたちはこの人生において多くのつまずきをすることがあります。所詮、風が吹けばすぐにどこかへ飛んで行ってしまうようなもみ殻のような者で、飛ばされると戻ってくることができない者です。
しかし主イエスはわたしたちに、「先にガリラヤへ行く」と言ってくださっています。わたしたちは、主が集めて下さる「ガリラヤ」から再び始めることができるのです。
abba 杵築教会
8月24日読了時間: 10分


新たに飲むその日(マルコ14:22-26) 20250817
25 節に、「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実 から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と書かれています。 この時の弟子たちと同じように、現代に生きるわたしたちがパンと杯に与る聖 餐を執り行うというということは、「神の国で新たに飲むその日」が来ている ということになります。そして「ぶどうの実から作ったものを飲む」というこ とをしていることになるのです。
まさに主イエスが仰った「その日」が、わた したちが杵築教会で行っている聖餐式においても到来しているのです。 聖餐にあずかることによってわたしたちは、世の終わりに約束されている救い の完成を垣間見て、その希望に支えられて、なお苦しみ悲しみの多いこの世を 主イエスの救いにあずかる新しい神の民として歩んでいくのです。
abba 杵築教会
8月17日読了時間: 9分


まさかわたしのことでは(マルコ14:10-21) 20250810
わたしたちは皆、主イエスを裏切る思いを心の中に持っており、「まさかわたしのことでは」と恐れおののいて言わざるを得ないものです。
それでも、主イエスの恵みによる招きを受取り、それに応えて洗礼を受け、み言葉を聞き、聖餐によって養われて生きて行く事によって、不幸だ、わざわいだと言われる人生ではなくて、生まれなかった方が、その者のためによかったなどと言われることなく、生れてきてよかったもの、かけがいがないものとして、幸いな、祝福をいただく、神が喜んでくださるまことの道を歩み続けることができるのです。
abba 杵築教会
8月10日読了時間: 9分


ナルドの香油(マルコ14:1-9) 20250803
最後の9節で主イエスは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃいました。
このみ言葉は、この女性の奉仕がいかに素晴らしいことだったかを語っているというよりは、主イエスが、ご自分の十字架の死による救いと結びつけられたことによって、一人の女性の自分に出来る精一杯のことをしようとした思いに対して彼女自身が思ってもみなかった大きな意味を与えてくださった出来事として、今も先ほどわたしたちも賛美したように全世界の教会において伝えられ賛美されているのです。
abba 杵築教会
8月3日読了時間: 9分
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