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岸辺の群衆(マルコ3:6-10) 20240728
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあります。ここには、主イエスが舟の上から人々に教えを語ったとは書かれていませんが、前後の記述から、舟の上から人々にたとえを用いて教えるために主イエスは舟に乗り込まれたことが分かります。
主イエスは、苦しみ悲しみを背負って押し寄せてきた人々を片っ端から病を癒し、苦しみ悲しみを取り除くのではなくて、彼らに御言葉を語ることを優先したのです。群衆を前にして舟に乗り込むというのは、確かに「群衆に押しつぶされないためである」(マルコ3:9)と記されているとおりなのですが、群衆に押しつぶされないようにして舟の上から岸辺の群衆に御言葉を語ることに、主イエスは重点を置かれていたのです。
abba 杵築教会
2024年7月28日読了時間: 9分
かたくなな心(マルコ3:1-6) 20240721
人間の「かたくなな心」が問題となります。
「かたくな」というのは、意地を張って、自分の考えや態度を変えようとしないことを意味します。よく言えば一途なのかもしれませんが、あまり良い意味で使われることはないでしょう。頑固で強情であり、どんなことによっても自分の考えを変えようとしない様子です。
ところがキリストは、「真ん中に立ちなさい」(3節)と私たちに声をかけてくださいます。そして人々の罪を怒り、悲しみ、人間のかたくなな心を憐れんでくださいます。「手を伸ばしなさい」(5節)と言って、私たちを赦し、受け入れ、愛してくださいます。かたくなな心の持ち主である私たちの罪を赦すために、その罪を私たちの代わりに背負って十字架に架かるために、十字架へと主イエスは向かわれるのです。
abba 杵築教会
2024年7月21日読了時間: 9分


安息日の主(マルコ2:23-28) 20240714
今日の聖書箇所の最後28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある。」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。
主イエスが安息日の主であるということは、主イエスが安息について、私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるということです。主は、私たちの罪を贖うために十字架上でその御身体を捧げてくださいました。そしてさらに一歩進んで、主イエスの信仰に生かされて安息日に礼拝を捧げ続ける私たちに対して、主からいただく恵としての聖なる事物の最上の使用法は、他の人々を助けるために用いることだ、ということを主が示してくださっているのです。
abba 杵築教会
2024年7月14日読了時間: 9分
安息日の主(マルコ2:23-28) 20240714
今日の聖書箇所の最後28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある。」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。主イエスが安息日の主であるということは、主イエスが安息について、私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるということです。主は、私たちの罪を贖うために十字架上でその御身体を捧げてくださいました。そしてさらに一歩進んで、主イエスの信仰に生かされて安息日に礼拝を捧げ続ける私たちに対して、主からいただく恵としての聖なる事物の最上の使用法は、他の人々を助けるために用いることだ、ということを主が示してくださっているのです。
abba 杵築教会
2024年7月14日読了時間: 9分
新しい革袋に(マルコ2:18-22) 20240707
新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていて、ガスを出しています。人間の身体と同じです。そのようなぶどう酒を、弾力を失い硬化している革袋に入れると、ガスの圧力で革袋が破裂することがあります。新しいぶどう酒は弾力性がある新しい革袋に入れなければなりません。これは、水やぶどう酒を羊の革で作った袋に入れて遊牧した遊牧民の知恵の言葉なのです。
私たちがその新しい革袋となるために神様が備えて下さっているものが、主の日の礼拝です。礼拝に集って、救い主イエス・キリストの福音を聞き、そして聖餐にあずかる時に、私たちのために十字架にかかってくださり、復活して下さった主イエスによる救いが確かに与えられ、世の終わりにもう一度来て下さる花婿主イエスによる救いの完成を待ち望む希望が新たにされるのです。
abba 杵築教会
2024年7月7日読了時間: 10分
人間の心を知り尽くす神(マルコ2:13-17) 20240630
マルコによる福音書2章17節の、主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)という聖書の言葉は、私の救いの証しとなっています。私が金融機関に勤務して、いわゆる仕事人間、ワークホリックに陥っていたときに、身体は元気だったけれど、心の病人なのだと気がついて、私への処方としてこの御言葉を受取りました。
主イエスが、ご自分を必要としている病人、つまり私のために、主治医としてこの世に来て下さったことがわかったのです。
abba 杵築教会
2024年6月30日読了時間: 10分
あなたの罪は赦される(マルコ2:1-12) 20240616
「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのみ言葉を真剣に受け止め、その時を捕えようとして私たちが動き出す時、神様の救いの御業が、私たちの周囲の人々を巻き込んで前進していきます。
そしてそこには、悔い改めて福音を信じる者たちの群れが興されていくのです。何が何でも主イエスのところへと向かう、その愛と信仰を、主イエスも喜ばれました。私たちも主イエスのところに人を運んだり、あるいは自分が運ばれたりします。それが教会の営みなのです。
abba 杵築教会
2024年6月16日読了時間: 10分


よろしい。清くなれ。(マルコ1:40-45) 20240609
主イエスはその人に触れられて、「よろしい。清くなれ」と言われました。
この「よろしい。清くなれ」を正確に翻訳しますと、「わたしの意志だ。あなたは清くなれ」となります。つまり、重い皮膚病の人が、「あなたのご意志でしたら癒してください」と言ったのに対して、主イエスは「わたしの意志だ」とお答えになられたのです。その中に、主イエスの深い感情が込められていたことは、言うまでもありません。そして、42節で、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
私たちが信じている神とはどのようなお方か。いろいろな答え方をすることができるかもしれませんが、その答えの一つが、神は人格的なお方であるということです。
abba 杵築教会
2024年6月9日読了時間: 10分
手を取って起こされる(マルコ1:29-39) 20240602
31節には、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」のです。主イエスが、しゅうとめの病気を癒して下さいました。この出来事は、マルコによる福音書だけでなく、マタイとルカによる福音書にも記されています。時間的な順序が異なるなど、その出来事の伝え方が異なるところもありますが、ペトロのしゅうとめが主イエスに癒されたこと、そして、しゅうとめが起き上がって「もてなした」という言葉は、三福音書に共通して書かれています。
31節の、この「手を取って起こされ」た後に、「もてなした」という意味は、仕える、奉仕する、という意味です。単なる食事などの世話をしたというよりも、もっと深い意味が込められています。そのしゅうとめが、あたかも主イエスの弟子であるかのように、主イエスにお仕えしたということです。
abba 杵築教会
2024年6月2日読了時間: 9分
権威ある者(マルコ1:21-28) 20240519
主イエスが「権威ある者として教えている」というのは、主なる神様ご自身が権威を持っておられる方として教えているということです。
主イエスの汚れた霊との戦いは、主イエスの十字架の死にまで至る戦いです。主イエスの神の子としての権威は、十字架の死において、そして父なる神様がその主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことにあります。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちを罪の支配から解放し、神の子として生きる新しい命を与えて下さいました。ここに主イエスの神の独り子としての権威が示されているのです。
abba 杵築教会
2024年5月19日読了時間: 9分
人間をとる漁師(マルコ1:14-20) 20240512
神様の時が満ちたというのは、神様の時が満ちたのです。それは、人間の目に見える周囲の情勢などは関係ないのです。あらゆる妨害や敵対するものを乗り越えて、神様のみ業(わざ)が実現していくのです。
15節の「神の国は近づいた」ということは、神の国は遠い、はるかかなたにあるのではなくて、もう目の前に来ているということです。神様を王とする、神様のご支配が、既にすぐ近くに来ており、あなたに及ぼうとしているのです。それを前にしてあなたはどうするのか、神様のご支配を信じて受け入れそれに服するのか、それとも神様のご支配を拒み自分が王であり続けようするのか、決断しなければならないのです。態度保留はもうできないのです。「神の国は近づいた」という宣言は、主イエスが私たちにその決断を求めているのです。
abba 杵築教会
2024年5月12日読了時間: 11分


勝利をのぞみ(マルコ1:12,13) 20240505
マルコは、新しいエリヤとしてバプテストのヨハネを描いています。
そして、荒野の誘惑物語の中で、洗礼(バプテスマ)を受けたて主イエスを新しいアダムとして登場させたのです。
主イエスは、単に神の国の到来を伝えるメッセンジャーなのではありません。イエスの言動そのものにおいて、メシヤの時代の幕開けがなされた、とマルコは記しているのです。
「荒れ野」のようなところにいるようでも、主イエスがその「荒れ野」を退けてくださったゆえに、死への勝利があり、病への勝利があり、罪への勝利があるのです。マルコは、主イエスが洗礼(バプテスマ)を受けて、ただちに起こった悪魔の誘惑という出来事は、神御自身の敵であるサタンとの戦いであったこと、そしてその勝利をはっきり示しているのです。そしてわたしたちは、「勝利をのぞみ」(讃21-471番)と賛美するのです。
abba 杵築教会
2024年5月5日読了時間: 9分
主イエスの任職式(マルコ1:9-11) 20240428
マルコによる福音書1章9節に記されているとおり、主イエスは、ガリラヤのナザレという町で育ちました。自分が救い主としての使命に召されていることはすでに明確に分かっておられたと思われます。しかし、いつその歩みを始めるのか、「神の子イエス・キリストの福音の初め」の時を待ち続けたのです。そのような中で、洗礼者ヨハネが現れ人々に洗礼を授けていました。主イエスもその洗礼を授けられたうちの一人として、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとイエスには神の声が直接的に臨みました。
ここで主イエスは救い主として任職され、神の福音を宣べ伝える歩みを開始されたのです。主イエスが受けられる洗礼は、他の人たちとは大きな違いあります。それは主イエスは、特別な使命に召されているからです。
abba 杵築教会
2024年4月28日読了時間: 9分


初め(マルコ1:1-8)20240421
マルコによる福音書は、1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記されていますが、これは表題そのものです。文章には、主語と動詞があるものですが、これには動詞がありません。レポートのタイトルのようです。しかもその中に、「福音」という言葉が入っています。マルコは、初めにまさにこれから書こうとしているのが「福音」なのだ、ということを明確に主張しているといってもよいと思います。
abba 杵築教会
2024年4月21日読了時間: 4分
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