top of page
検索
All Posts


私の道の光(マルコ4:21-25) 20241006
本日、私たちに合わせて与えられている旧約聖書の箇所は、詩編119編です。
詩篇の中で最も長い詩で、8節ずつヘブライ語のアルファベット22文字でグループ分けした、合計176節(8節×22)で構成されています。
97節には、「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」と、詩人は真剣に神を尋ね求める求道心と神の御言葉に生きることの大切さを記しています。
そして、101節には「どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください」と歌い、そういった文脈の中で、105節では「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」と歌っています。
この聖書箇所から、本日の説教題を「わたしの道の光」とさせていただきました。御言葉によって道が照らされるのです。ここでは、わたしの歩みを照らす灯と言い換えていますから、自分がその灯を持って操っているというよりは、スポットライトのように灯が動いてやって来るように書かれているのです。
マルコによる福音書4章21節で、「ともし火がやって来る」と主イ
abba 杵築教会
2024年10月6日読了時間: 8分


種を蒔く人のたとえ(マルコ4:13-20)20240929
この「種を蒔く人」のたとえに出てくる、道端、石だらけの所、茨の中、良い土地といった、いろいろな土地は、いずれも私たち自身のことです。
なかなか実を結ぶことができなかったけれど、「種を蒔く人」すなわち三位一体の神は、今日も種を蒔き続けてくださっています。そして私たちはその神の御言葉を聞く時を経て、良い土地、開墾された土地に変えられていく、そして今では百倍の実を結び、今も実っていると主は仰っているのです。
abba 杵築教会
2024年9月29日読了時間: 7分
百倍の実(マルコ4:13-20) 20240929
このたとえ話で強調されているのは、百倍の実りという言葉です。
ルカによる福音書8章4節にも「種を蒔く人」のたとえが書かれています。「良い土地」に落ちた一粒の種は、「生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:8)と書かれています。
ルカは、30倍と60倍の実とは記していません。ルカは、ただ百倍の実を結んだと書いています。聖書注解書に拠れば、当時の農業の収穫効率は、せいぜい数十倍がいいところで、百倍というのは神の介在無くしては考えられない数字だと書かれています。
abba 杵築教会
2024年9月29日読了時間: 7分


神の国の秘密(マルコ4:10-12) 20240915
マルコは誰かを切り離すために、この福音書を書いたのではありません。むしろ教会の中で説教を聞いている人たちに、先ずは主イエスと同じ舟に乗っている「周りにいた人たち」であることを受けとめてもらうために、この福音書を書いたのです。
そして「種を蒔く人」のたとえを聴いて、先ず、自分たちは主イエスの「周りにいた人たち」であることを確認して、それから自分たちは「よい土地」の者たちであると受けとめたのです。
私たちも同じです。自分が優れているから今ここにいるのではありません。ただ、神の賜物として招かれただけです。舟に乗せていただいた者として、聞く耳が与えられた者として、そして、立ち帰って赦された者として、その神の国の秘密を知ることができた者として、私たちは歩んでいくことができるのです。
私たちは「よい土地」として種を蒔かれたのです。ここにおられる皆さんお一人お一人が、それぞれ多くの実を結ばせていただけるよう、お祈りさせていただきます。
abba 杵築教会
2024年9月15日読了時間: 9分
種を蒔く人のたとえ(マルコ4:1-9) 20240908
私を例としてお話すれば、東京砂漠という茨の中から、杵築という良い地に植えられた木、植え替えられた恵まれた木と言うことになります。
教会に来ておられる方は、良い地に、「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)、植え替えられた木なのです。
御言葉の種には、神の力が働くからです。主イエスが今日も御言葉の種を蒔いてくださっているのですから、私たちは主イエスのお言葉に聞き従いたいと思います。
そうすれば、私たちは、神が蒔いてくださったその種ですから、良い地に植えられた木となり、恵の太陽の光と水が降り注がれ、成長して、やがて実を結ばせることができるのです。
abba 杵築教会
2024年9月8日読了時間: 10分


神の家族(マルコ3:31-35) 20240825
主イエスは、34、35節で、周りに座っている人々を見回して、主イエスの教えに耳を傾けている者たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と、自分の周りにすわっている神の家族がいる、と言われたのです。そのように神の御心を行う人こそが自分の家族だと言われました。主イエスは、血のつながりによるのではなく、主イエスの教えを聴いているか聴いていないかということに焦点をあてて、家族であることより、家族になることが大切だと仰っているのです。
abba 杵築教会
2024年8月25日読了時間: 9分
すべて赦される(マルコ3:20-30) 20240818
わたしたちは、29節の聖霊を冒涜することを気遣うよりも、28節の「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」という言葉に注目すべきです。そもそも人間に本当にできるのか、不可能なのではないかなどと、あれこれと考えるよりも、ただ聖霊の力と導きを信じさせてくださいと祈るべきでしょう。
聖霊はわたしたちの信仰生活のすべてを導いてくださいます。聖霊に導かれることによって、主イエスの語られる言葉、そのたとえが、分かるようになります。主イエスの戦いの結果、もたらされる恵みがここにあるのです。信仰によって、感謝して、それを受け取ることができるのです。
abba 杵築教会
2024年8月18日読了時間: 8分
使徒の使命(マルコ3:13-19) 20240811
16節以降には、主イエスに任命された十二人の名前が記されています。「ペトロ」=岩という名を付けられたシモンに始まり、12人目の最後に出てくるのが「イスカリオテのユダ」です。19節には、「このユダがイエスを裏切ったのである」とわざわざ記されています。
主イエスによって実現する神様の救いのみ業は、ユダの裏切りをも包み込んで進んでいます。十二人の使徒たちもまた私たち同様、自分の弱さや偏見、罪や裏切りの一切を担って下さる全能の神様の力に依り頼んで歩むことを許されて神様のもとに呼び集められた不思議な者たちなのです。
私たちは使徒たちの後に続く者として、使徒的教会の一員として、先ずは礼拝において御言葉をしっかりと聞かせていただき、主イエスが私たち一人一人に与えようとしておられる使命を覚えて、私にもできる「お使い」をさせていただく者でありたいと祈ります。
abba 杵築教会
2024年8月11日読了時間: 9分
あなたは神の子だ(マルコ3:11,12) 20240804
汚れた霊に取り付かれると、自分の言葉ではなく悪霊の言葉を語り、そして自分の思いではなく悪霊の思いによって行動するようになります。ですから、汚れた霊どもが、ひれ伏したとか、叫んだというのは、表面的にはその汚れた霊どもに取り付かれた人がひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだのです。しかしその実は、それは悪霊の行動であり、悪霊の叫びなのです。
汚れた霊どもは、主イエスが、神の独り子であり、人々の救いのためにこの世に来られた方で、自分たち悪霊を取りついた人から追い出す権能を持っていることを知っています。
一方で、主イエスに触れようとして押し寄せて来たユダヤ人の群衆たちは誰一人として、そのことに気付いていない様子です。
汚れた霊どもがひれ伏して『あなたは神の子だ』と叫んだのは、主イエスを礼拝した言葉ではありません。信仰を告白したのでもありません。自分たちが、主イエスによってその取り付いた人から追い出されないように、つまり悪霊が自分を守るために『あなたは神の子だ』と叫んだのです。
abba 杵築教会
2024年8月4日読了時間: 7分


岸辺の群衆(マルコ3:6-10) 20240728
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあります。ここには、主イエスが舟の上から人々に教えを語ったとは書かれていませんが、前後の記述から、舟の上から人々にたとえを用いて教えるために主イエスは舟に乗り込まれたことが分かります。
主イエスは、苦しみ悲しみを背負って押し寄せてきた人々を片っ端から病を癒し、苦しみ悲しみを取り除くのではなくて、彼らに御言葉を語ることを優先したのです。群衆を前にして舟に乗り込むというのは、確かに「群衆に押しつぶされないためである」(マルコ3:9)と記されているとおりなのですが、群衆に押しつぶされないようにして舟の上から岸辺の群衆に御言葉を語ることに、主イエスは重点を置かれていたのです。
abba 杵築教会
2024年7月28日読了時間: 9分
かたくなな心(マルコ3:1-6) 20240721
人間の「かたくなな心」が問題となります。
「かたくな」というのは、意地を張って、自分の考えや態度を変えようとしないことを意味します。よく言えば一途なのかもしれませんが、あまり良い意味で使われることはないでしょう。頑固で強情であり、どんなことによっても自分の考えを変えようとしない様子です。
ところがキリストは、「真ん中に立ちなさい」(3節)と私たちに声をかけてくださいます。そして人々の罪を怒り、悲しみ、人間のかたくなな心を憐れんでくださいます。「手を伸ばしなさい」(5節)と言って、私たちを赦し、受け入れ、愛してくださいます。かたくなな心の持ち主である私たちの罪を赦すために、その罪を私たちの代わりに背負って十字架に架かるために、十字架へと主イエスは向かわれるのです。
abba 杵築教会
2024年7月21日読了時間: 9分


安息日の主(マルコ2:23-28) 20240714
今日の聖書箇所の最後28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある。」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。
主イエスが安息日の主であるということは、主イエスが安息について、私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるということです。主は、私たちの罪を贖うために十字架上でその御身体を捧げてくださいました。そしてさらに一歩進んで、主イエスの信仰に生かされて安息日に礼拝を捧げ続ける私たちに対して、主からいただく恵としての聖なる事物の最上の使用法は、他の人々を助けるために用いることだ、ということを主が示してくださっているのです。
abba 杵築教会
2024年7月14日読了時間: 9分
安息日の主(マルコ2:23-28) 20240714
今日の聖書箇所の最後28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある。」とあります。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを指して使われる言葉です。主イエスが安息日の主であるということは、主イエスが安息について、私たちがきちんと安息することができるように、主イエスがその責任を負ってくださるということです。主は、私たちの罪を贖うために十字架上でその御身体を捧げてくださいました。そしてさらに一歩進んで、主イエスの信仰に生かされて安息日に礼拝を捧げ続ける私たちに対して、主からいただく恵としての聖なる事物の最上の使用法は、他の人々を助けるために用いることだ、ということを主が示してくださっているのです。
abba 杵築教会
2024年7月14日読了時間: 9分
新しい革袋に(マルコ2:18-22) 20240707
新しいぶどう酒はまだ発酵を続けていて、ガスを出しています。人間の身体と同じです。そのようなぶどう酒を、弾力を失い硬化している革袋に入れると、ガスの圧力で革袋が破裂することがあります。新しいぶどう酒は弾力性がある新しい革袋に入れなければなりません。これは、水やぶどう酒を羊の革で作った袋に入れて遊牧した遊牧民の知恵の言葉なのです。
私たちがその新しい革袋となるために神様が備えて下さっているものが、主の日の礼拝です。礼拝に集って、救い主イエス・キリストの福音を聞き、そして聖餐にあずかる時に、私たちのために十字架にかかってくださり、復活して下さった主イエスによる救いが確かに与えられ、世の終わりにもう一度来て下さる花婿主イエスによる救いの完成を待ち望む希望が新たにされるのです。
abba 杵築教会
2024年7月7日読了時間: 10分
人間の心を知り尽くす神(マルコ2:13-17) 20240630
マルコによる福音書2章17節の、主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)という聖書の言葉は、私の救いの証しとなっています。私が金融機関に勤務して、いわゆる仕事人間、ワークホリックに陥っていたときに、身体は元気だったけれど、心の病人なのだと気がついて、私への処方としてこの御言葉を受取りました。
主イエスが、ご自分を必要としている病人、つまり私のために、主治医としてこの世に来て下さったことがわかったのです。
abba 杵築教会
2024年6月30日読了時間: 10分
あなたの罪は赦される(マルコ2:1-12) 20240616
「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのみ言葉を真剣に受け止め、その時を捕えようとして私たちが動き出す時、神様の救いの御業が、私たちの周囲の人々を巻き込んで前進していきます。
そしてそこには、悔い改めて福音を信じる者たちの群れが興されていくのです。何が何でも主イエスのところへと向かう、その愛と信仰を、主イエスも喜ばれました。私たちも主イエスのところに人を運んだり、あるいは自分が運ばれたりします。それが教会の営みなのです。
abba 杵築教会
2024年6月16日読了時間: 10分


よろしい。清くなれ。(マルコ1:40-45) 20240609
主イエスはその人に触れられて、「よろしい。清くなれ」と言われました。
この「よろしい。清くなれ」を正確に翻訳しますと、「わたしの意志だ。あなたは清くなれ」となります。つまり、重い皮膚病の人が、「あなたのご意志でしたら癒してください」と言ったのに対して、主イエスは「わたしの意志だ」とお答えになられたのです。その中に、主イエスの深い感情が込められていたことは、言うまでもありません。そして、42節で、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなったのです。
私たちが信じている神とはどのようなお方か。いろいろな答え方をすることができるかもしれませんが、その答えの一つが、神は人格的なお方であるということです。
abba 杵築教会
2024年6月9日読了時間: 10分
手を取って起こされる(マルコ1:29-39) 20240602
31節には、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」のです。主イエスが、しゅうとめの病気を癒して下さいました。この出来事は、マルコによる福音書だけでなく、マタイとルカによる福音書にも記されています。時間的な順序が異なるなど、その出来事の伝え方が異なるところもありますが、ペトロのしゅうとめが主イエスに癒されたこと、そして、しゅうとめが起き上がって「もてなした」という言葉は、三福音書に共通して書かれています。
31節の、この「手を取って起こされ」た後に、「もてなした」という意味は、仕える、奉仕する、という意味です。単なる食事などの世話をしたというよりも、もっと深い意味が込められています。そのしゅうとめが、あたかも主イエスの弟子であるかのように、主イエスにお仕えしたということです。
abba 杵築教会
2024年6月2日読了時間: 9分
権威ある者(マルコ1:21-28) 20240519
主イエスが「権威ある者として教えている」というのは、主なる神様ご自身が権威を持っておられる方として教えているということです。
主イエスの汚れた霊との戦いは、主イエスの十字架の死にまで至る戦いです。主イエスの神の子としての権威は、十字架の死において、そして父なる神様がその主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことにあります。神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって、私たちを罪の支配から解放し、神の子として生きる新しい命を与えて下さいました。ここに主イエスの神の独り子としての権威が示されているのです。
abba 杵築教会
2024年5月19日読了時間: 9分
人間をとる漁師(マルコ1:14-20) 20240512
神様の時が満ちたというのは、神様の時が満ちたのです。それは、人間の目に見える周囲の情勢などは関係ないのです。あらゆる妨害や敵対するものを乗り越えて、神様のみ業(わざ)が実現していくのです。
15節の「神の国は近づいた」ということは、神の国は遠い、はるかかなたにあるのではなくて、もう目の前に来ているということです。神様を王とする、神様のご支配が、既にすぐ近くに来ており、あなたに及ぼうとしているのです。それを前にしてあなたはどうするのか、神様のご支配を信じて受け入れそれに服するのか、それとも神様のご支配を拒み自分が王であり続けようするのか、決断しなければならないのです。態度保留はもうできないのです。「神の国は近づいた」という宣言は、主イエスが私たちにその決断を求めているのです。
abba 杵築教会
2024年5月12日読了時間: 11分
bottom of page