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ペトロの神殿での説教(使徒3:11-26) 20260308

更新日:3月12日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年3月8日の受難節第二主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄


(聖書)

創世記13章14-17節(旧約17頁)

使徒言行録3章11-26節(新約218頁)

 

1.     ペトロの神殿での説教

 

使徒言行録3章11節からの「ペトロの神殿での説教」で、「その男がペトロとヨハネに付きまとっている」と書かれています。そう聞くと皆さんは、その男がストーカーのように思われるかもしれませんが、そうではありません。

その男とは、3章8節で、「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、(ペトロとヨハネの)二人と一緒に境内に入って行った。」と書かれていた生まれながらに足の不自由だった人のいやされた姿です。


イエスキリストの名によって、足がいやされた人感謝の気持ちが現れた行動です。それがペテロとヨハネの二人に付きまとって離れようとしないように見えたのでしょう。二人と一緒に境内に入って行った様子を見て、「皆非常に驚いた」というのです。

そしてその民衆に向かって、ペトロの神殿での説教が始まります。

 

ペトロはまず12節で、自分の力や信心によってこの男を歩かせたのではないことを伝えています。

そして13節で、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」とイエスを称えます。そして14節で、その「聖なる正しい方」を(あなたがたは)拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。」と、主イエスの十字架の出来事を語って、民衆が神を冒涜した罪を指摘しているのです。


それから15節で、イエスを「命への導き手」だと言っています。

あなたがたは「命への導き手」である主イエスを殺してしまったけれど、神は主イエスを死者の中から復活させてくださったと言っています。そして、「わたしたちは、このことの証人です。」と使徒としての証言をしているのです。


16節では、このいやされた男について、「イエスの名が強くした」と言っています。そしてこのいやしの出来事は、イエスの名を信じる信仰によるものであり、「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」と言っています。

すなわち、「イエスの名」が彼を強くし、「イエスの名を信じる信仰」によって彼はいやされたのです。

主イエスによってその男の生き方の心の向きが変えられたのです。


3節には、生まれながらの足の不自由な男は、その日の生活を満たすためのお金をペトロに求めたと書かれていました。

ところが、主イエスのみ名によって彼に与えられた恵みは、彼が立ち上がり歩けるようになることでした。それは、彼の苦しみの根本的な解決となるものです。その男は、神に立ち帰り、神の民の一員として、つまり教会の一員として歩む者、神の祝福を受ける者に一瞬にして変えられたのです。

イエスの名が彼を強くした、イエスの名を信じる信仰が彼をいやした、ということは、彼が悔い改めて神のもとに立ち帰ったことを指し示しています。まさに主イエスの十字架と復活を信じる信仰の恵みとして、究極の希望が与えられたのです。


そして18節では、「神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。」と語っています。まさに人間の罪をも含めてまるごと、すべてのことが、愛なる神のご計画の内にあるものだと言っているのです。神の救いの計画は、メシアの苦しみ、主イエスの十字架と復活において実現したのです。

そして19節で、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」とペトロは人々の悔い改めの勧め、福音説教の原点を説教してりるのです。

 

2.新しい神の民

 

それからペトロは20節で、「主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」と、メシア論を語ります。

20節bでは、「主が、メシアであるイエスを遣わしてくださる」と言っています。それは二千年前に主イエスが地上に来られたことを言っているのではありません。将来に約束されている、主イエスが再び来られる日のことを言っているのです。

悔い改めによって始まる霊的回復だけではなく、世の終わり、主イエスの再臨によって完成する回復について「慰めの時」が到来することを告げたのです。


そして21節には、「このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」と語っています。

今復活して天に昇られ、父なる神様の右に座しておられる主イエスが、「万物が新しくなるその時」、つまり世の終わりまで「天にとどまる」、裏を返せばその終わりの日には天から再びこの地上に来られると言っているのです。主イエスの再臨によって、この世は終わり、終末が到来し、万物が新しくなることが語られているのです。

 

22節からは、イスラエルの民に向けて旧約聖書を用いた歴史的検証が始まります。イスラエルの民は聖書(旧約聖書)をよく調べていましたから、ペトロは歴史の証言として用いている。わたしたちは相当気合を入れて旧約聖書を調べていかなければ見えてこないことが多く潜んでいます。

「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。』」とペトロは、申命記18章15節(旧309頁)のモーセの言葉を引用して、イエスがモーセのような預言者であることを伝えて、モーセが語った将来現れる預言者をイエス・キリストに当てはめています。

そして、十字架と復活の出来事によってその後に聖霊が降って教会が誕生したこの時に、モーセが予告し先祖の預言者たちが語っていた主イエス・キリストによる救いが、実現したということを、あなたがたが信じて受け入れるのは当然だと、言っているのです。


23節では、申命記18章19節(旧310頁)を用いて、「この預言者に耳を傾けない者は、民の中から滅ぼし絶やされる」と語っています。

イエスを拒んだことは、単に一人の教師を拒んだのではなく、神が遣わした終末的預言者を拒んだことになると語っているのです。


さらに24-25節では、「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。」と、説教を聞いているユダヤ人たちに対して、あなたがたは特別な契約の民なのだと、語っています。


ペトロは、あなたがたイスラエルの民は神の特別な恵みを受けているが、その恵みは先ずあなたがたのもとに主イエス・キリストが遣わされたことによって実現した、この主イエスによって、すべての人々が神の祝福を受けるようになるのだと語っています。


創世記13章14-17節(旧17頁)を先ほどお読みいただきましたが、契約の民の先祖であるアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と約束して下さいました。

つまりペトロはここで、あなたがたイスラエルの民は神の特別な恵みを受けている、その恵みは先ずあなたがたのもとに主イエス・キリストが遣わされたことによって実現した。それは主イエスによって、すべての人々が神の祝福を受けるようになる。と告げているのです。


そして次の26節でペトロは、「それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」と語っています。

この世を生きる限り、わたしたちの歩みは不完全なもので、欠けが多くて罪がそこにからみついています。

それゆえにこの世を生きるわたしたちの信仰の歩みは、常に悔い改めの連続となり、その都度神のもとに立ち帰り続けるという歩みとなるのです。すなわち、わたしたちはいつも悔い改めて神に立ち帰りながら、救いの完成である主イエスの再臨における慰めの時を待ち望み、忍耐と希望を持って生きているのです。


3.イエスの名を信じる信仰


旧約聖書を引用しながら伝えたかった22節以下を少しでも理解しやすくなることを願って四本の柱として要約してみました。


第一は、主イエスが モーセが預言した「来るべき預言者である」ことを言っているのです。

第二は、主イエスの言葉を聞くことは 「神に従うことになる」ということです。

第三は、主イエスは旧約の「預言と契約の成就である」ということです。

第四は、だからこそイスラエルは「 悔い改めて神に立ち返るべきである」と言うことなのです。


こうしてペトロは、愛なる神様の恵みの力の方が、人間の罪の力を上回っていると語ることによって、既にわたしたちは神の恵みの勝利の下に置かれているという福音の基本を示しているのです。


わたしたちの信仰の歩みを支え導いて下さるのが聖霊の力です。

ペンテコステに弟子たちに聖霊が降って教会を誕生させ、そして今も変わらずに働いてわたしたちを教会へと導いて下さっている聖霊のもとで、わたしたちは悔い改めて神に立ち帰りつつ、主イエスの再臨に希望を置いて生きることの大切さをペトロは説教しています。

そこにこそ、神の祝福にあずかる歩みがあるからです。


ユダヤ民族が神の民であるという時代は、彼らが主イエスを拒んだことによって終わりを告げました。

今や、神の民イスラエルは、悔い改めて神のもとに立ち帰る者たちの群れとなったのです。それが教会です。

教会の歩みにおいても、繰り返されて聖霊の力が注がれるところで、主イエスのみ名による根本的な救いが、それぞれの置かれた状況の中でわたしたち一人一人に起るのです。


それ以外の救いや恵みを求めて来ても、それはお門違いです。

教会の礼拝において起る救いの業は、主イエス・キリストとの関わりを抜きにして救いや恵みをいただくことはできないのです。

わたしたちは、悔い改めて神に立ち帰るしるしとして洗礼を受けて神の祝福を受け継ぐ者となります。そしてすべての人々にその祝福を伝える使命に生きる者となるのです。


神の祝福とは、主イエス・キリストによる祝福です。

神の民とは、主イエス・キリストによる救いの恵みにあずかる者の群れで、わたしたちは悔い改めて神のもとに立ち帰ることによって、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みにあずかるのです。




 
 
 

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