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この身に成りますように(ルカ1:26-38) 20251123

更新日:20 時間前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年11月23日降誕前第5主日礼拝の説教要旨です。


    杵築教会 伝道師 金森一雄

    (代読)責任役員 阿部章子

 

(聖書)

イザヤ書11章1−5節(旧約1078頁)

ルカによる福音書1章26-38節(新約100頁)

 

1.天使ガブリエルの働き

 

金森伝道師の散歩中の事故から二週目に入りました。

骨折した左右の顎の付け根の腫れが落ち着いて、金曜日から国立別府医療センターでのリハビリ治療がスタートしています。

金森先生はわたしに、

「神さまは、『もう少し静養しなさい』と仰っておられる。お医者さんからは、『直に説教できるようになる』と励まされた。」と、笑顔で話してくださいました。


杵築教会では、先週までにマルコによる福音書の連続講解説教を終えることができました。

2026年からは、使徒言行録の連続講解説教が始まる予定になっていますので、今年のクリスマスは、主イエスが誕生された物語からみ言葉を聞いてまいります。今日の礼拝は、「この身になりますように」という説教題です。


新約聖書の99頁をお開きください。ルカによる福音書1章3節です。 

「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と書かれています。

神さまがルカに、すべての事を初めから詳しく調べあげて、順序正しく書かせた、と仰っているのですから、わたしたちもその気になってしっかり聞かせていただきたいと思います。


神さまは、ルカによる福音書において、主イエスの誕生物語を告げるにあたり、まず最初にバプテスマのヨハネの誕生について伝えています。

1章5−7節に、祭司ザカリアとその妻エリサベトが登場します。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」、「エリサベトは不妊の女で、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた」と書かれています。

そして13節に、ザカリアの前に現れた天使から、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げられました。

ザカリアは、神さまにその願いをいつから祈っていたかは書かれていませんが、男の子を与えてくださいと祈っていたようです。


18節に、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と、天使の言葉に応答してザカリアが答えた言葉が書かれています。

すると19−20節で、「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と、天使が衝撃的なことを語っています。


ここで天使が、自分はガブリエルだと、自己紹介しています。

ガブリエルは、旧約聖書1394頁のダニエル書8章15節で「勇士のような姿」でダニエルの前に現れた天使です。ダニエルが見た、終わりの時に関する幻について、その意味を説明した天使としてユダヤ人社会でよく知れていた天使の名前です。

いきなり天使から、自分はそのガブリエルだとその名を聞かされたザカリアが驚いたのも無理がありません。

ザカリアは、ガブリエルの言葉を信じなかったことを叱責されて、口が利けなくなりました。しかし口が利けなくなった理由は、天使の言葉を信じなかったからだけではありません。

神の計画はさらに深く愛に包まれたものなのです。


24節に、「妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」と書かれています。

祭司ザカリアの年老いた妻エリサベトは、世間体もあったのでしょう、世間から身を隠していたのです。妊娠六か月目に入ると妊娠中期となります。お腹の中でポコン、ポコンと胎児に蹴られて胎動を感じることが増えます。最近の医療技術では超音波エコー検査で赤ちゃんの顔立ちや性別も分かる時です。

エリサベトはそこに至って、25節で「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と受胎したことを語ったのです。


年老いた神の目に正しい老夫婦に子供が宿ったとすれば、世間はいろいろと騒ぎ立てるに違いありません。神さまは、そうした世間の雑音から、ザカリアとエリサベトを守ってくださったのです。


1章64節には、エリサベトが男の子を産んで子供の名前を付けようとしたときに、ザカリアが天使に言われていたとおりに、ヨハネという名前を板に書きました。すると「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」と書かれています。

このことからも、ヨハネの誕生物語が神さまの深い愛に包まれた出来事だったことが分かります。まさに、口が閉ざされるのも、口が開かれるのも、試練も喜びも、神のご計画の中にある恵みとなのです。


続いて主イエスの誕生物語が書かれています。26節には、天使ガブリエルが当然のように最初から登場します。主イエスの誕生をマリアに予告するために「神から遣わされた」と書かれています。

さらにルカは、冒頭に「六ヶ月目に」と書くことによって、エリサベトの妊娠六ヶ月目の安定期に入ったことを告げて、同時に同じ天使ガブリエルが、主イエスの誕生をマリアに予告したことを書いているのです。

こうして、バプテスマのヨハネと主イエスの誕生は、神さまによって準備された二本の糸として互いに織り成された強い関係にあることが指し示されているのです。


そのルカの思いは、1章13節で、天使がザカリアにヨハネの誕生を予告した場面と、30節で、マリアに主イエスの誕生を予告した場面の二つの出来事の状況が、ぴったり一致していることからも分かります。

いずれの場合も先ず天使ガブリエルが彼らの前に現れます。

すると彼らは恐れや不安、戸惑いを覚えます。

それに対して、天使は「恐れることはない」と声をかけ、「男の子を産む」と告げています。

彼らは同様に、「どうして、そのようなことがありえるだろうか」と言ってすぐには受け入れていません。


このように、ルカは、二つの誕生予告物語を並べて書くことによって、主イエスのご降誕という神さまの救いの出来事が、用意周到な計画の中で実現していくことを示しているのです。

 

2.マリア

 

主イエスの母として選ばれ、用いられたのは、ガリラヤのナザレに住むマリアというおとめでした。27節に、彼女はヨセフという人のいいなずけであったと書かれています。

当時の結婚は、親の意志によるものでした。一般に女性の婚約は14歳前後だったと言われていますから、このとき主イエスの母となるマリアも同じような年齢だったと思われます。

今日で言えば、マリアは少女です。いろいろな体験を積んで分別を持った成熟した女性ではありません。ガリラヤという田舎の、ナザレ村に住む娘です。

このように神さまは、何の変哲もない一人の田舎娘を、救い主イエス・キリストの母として選び、用いられたのです。


こうして人間の常識を乗り越えて、特別な人間ではないわたしたち一般人をも巻き込んで神のご計画が進展していくことがわたしたちに示されているのです。と言うことは、自分は神さまの救いのご計画とは関わりがない、などと言える人は一人もいないと言うことになります。

 

3.ヨセフ 

 

27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれています。マリアのいいなずけだったヨセフは、名前も有名でない庶民ですが、血筋においてダビデ王の子孫だったのです。

旧約聖書1078頁のイザヤ書11章1節に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」と書かれています。

ダビデの家系から、ダビデ王に匹敵する平和の王、救い主が現れて、平和を与えて下さるという預言です。ダビデは、旧約聖書に出てくる、イスラエルの最も偉大な王です。


ダビデ王の子孫としてキリストが生まれることは、旧約聖書には沢山書かれていて、旧約聖書に親しんでいる人々にとって常識となっていました。そのことによって、主イエスは旧約聖書の預言の成就、実現としてこの世に来られた救い主であることが、示されているのです。


しかし面白いことにルカによる福音書はこのヨセフのことをほとんど語っていません。

ルカでは、天使の主イエスの受胎告知は、マリアに対して与えられており、ヨセフはそのマリアのいいなずけとして一度名前があがるだけです。

ルカの主イエスの誕生物語は、マリア中心に書かれているのです。


これに対して、マタイによる福音書1章20節では、主の天使によるイエスの誕生のお告げが、ヨセフの夢の中で与えられています。

主イエスの誕生後、エジプトに非難する物語でも夫のヨセフが主の天使が夢に出て来て主のお告げを聞き、それに従う出来事として書かれているのです。

 

4.マリアへの受胎告知

 

28節で、天使はマリアに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語りかけました。

29節に、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」と書かれています。この「戸惑い」という言葉は、カトリックのフランシスコ会口語訳聖書では、「胸騒ぎがし」と翻訳されています。この翻訳の方が分かり易いと思います。

マリアは、何のことかしら、と戸惑っただけではなくて、不安や恐れを感じたのです。

神さまの方から「恐れることはない」と告げて下さらなければ、わたしたちはとても神さまのみ前に立つことはできない、ということなのです。


31節でマリアに告げられたことは、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」ということです。

そして32-33節に、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と書かれています。つまりイエスこそがダビデ王の子孫として産まれる救い主であり、永遠にヤコブの家を治めるという預言です。


神がマリアに語り、約束されたみ言葉とは、単に神の力によって身ごもって男の子を産む、というだけではありません。その子がイエスと名付けられ、神の子、救い主となり、ダビデの王座を受け継ぎ、神の救いにあずかる民をとこしえに治める者となる、と神が語られたのです。


「ヤコブの家」とは神の民であるイスラエルのことです。そして、主イエスに治られるイスラエルとは、主イエスによる救いにあずかる者たちの群れであるわたしたち教会のことです。

主イエスは新しい神の民である教会を永遠に治め、その支配は終わることがない、つまり神の民に永遠の命を与えて下さるということなのです。

このような救いが、生まれてくる子によって与えられる、と天使は告げたのです。

 

5.神にできないことは何一つない

 

マリアは、34節で「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えています。

マリアは、自分はまだヨセフと一緒になっていないから、そんな自分が身ごもって子を産むことなどまだあり得ないと思ったのです。

これに対して、天使は、マリアに何が起るのかを説明しています。35節です。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。マリアにこのような説明が与えられたのは、マリアに対する神さまの慈しみと思いやりです。

聖霊による神の力があなたを包んでみ業を行うのだ、と教えて下さったのです。マリアに聖霊が降り、聖霊によって働く神の力によってマリアは身ごもり、聖なる者、神の独り子主イエスを産むというのです。


次の36節では、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と、具体的な事柄によって教え示して下さっているのです。


ここに至って、エリサベトとマリアは親戚だったことが分かります。エリサベトが子供を授からないままに年を取っていること、それでも妊娠したらしいということについては、マリアは親戚でしたから知っていたということです。ルカが、「六か月目に」と妊娠の安定期にはいるキーワードを用いた表現をしている理由もここで知らされます。

そして、六ヶ月前に不可能だと思っていたエリサベトが妊娠していました。そのことが、動かぬ証拠としてマリアに示されることによって、天使が自分に語ったみ言葉を信じて受け入れられるための準備として用意されていたのです。

 

6.神の言葉は全て実現する

 

最後に天使が語った言葉が、37節の「神にできないことは何一つない」というものです。

この言葉を聞いたマリアは、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っています。マリアは、主を完全に信じて受け入れています。

マリアは、神は語られたみ言葉を必ず実現することができる、自分に対して語られたみ言葉も必ずその通りに神が実現して下さる、と信じて、神のみ手に自分を委ねたのです。


神のみ言葉は、神の全能の力によって必ず実現します。

そのことをわたしたちは、毎週の主日礼拝において、聖書を通して示され、教えられています。神の約束は、主イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しました。

父なる神が死の力を打ち破って主エスを復活させ、わたしたちに罪の赦しと永遠の命の希望を与えて下さいました。

そこにおいてこそわたしたちは、神の全能の力を見るのです。

 

神さまの恵みのみ言葉が、今このわたしたちにも与えられています。

マリアが聞いて信じたのと同じみ言葉を、神さまは今、わたしたち一人一人にも語りかけて下さっています。

神さまの恵みの愛を信じ切って、「お言葉どおり、この身に成りますように」と、わたしたも応答することができますようにとお祈りします。


神さまは、わたしたちの体と心と人生を用いてくださり、神さまの恵みのみ言葉を実現させてくださる方なのです。


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​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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