新しい言葉を語る(マルコ16:9-20) 20251116
- abba 杵築教会
- 11月16日
- 読了時間: 10分
更新日:11月17日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年11月16日降誕前第6主日礼拝の説教要旨です。
杵築教会 伝道師 金森一雄
責任役員 山下香子(代読)
(聖書)
イザヤ書49章1-6節(旧約1142頁)
マルコによる福音書16章9-20節(新約97頁)
1.信じない者たち
不思議な縁(えにし)の中に、わたしたちは置かれてるようです。一昨日(おととい)の朝の散歩で、杵築中央病院の斜め前にあるガソリンスタンドの細い溝に、右足のつま先がピッタリはまってしまって、前にバタッと倒れ込みました。着地の姿勢が問題です。顎(あご)で全ての体重を支えた姿です。
そのため、顎の先と顎の左右の付け根の三箇所を骨折していました。口腔外科の領域だと初めて知らされました。骨折した下顎(したあご)と右手の人差し指と中指を何針も縫ったようです。
後は歯が欠けたようです。口の中は血だらけになって口が開けられませんでした。
わたしは、中学生になった時から、ずっとバレーボールの選手でしたから、とっさにフライイングレシーブの体制をとっていたようで、それ以上の身体の傷はありません。
ただ、説教者としては失格です。口が十分には開けられません。それでも、事故から3時間ぐらいして、声が出せるようになったので希望がつながりました。
神様は、杵築教会をこよなく愛してくださっているようです。司式者山下香子姉妹、奏楽者多賀野小津枝姉妹、今日の証し者として、桝田恭子姉妹を用意してくださっていました。ご一緒に主を賛美し、み言葉に耳を傾けて参りましょう。
マルコによる福音書16章9節には、「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。」と書かれています。
「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」ということは、ルカによる福音書8章2節(新117頁)に書かれていることです。
そして8章3節bでは、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」とルカは書いています。
この婦人たちが十二人の弟子たちと一緒に最初の女性の伝道者として働いていたということは、ルカによる福音書だけに書かれていることですので、それを読んだ後のマルコ教団の人たちが、女性の活躍をきちんと書いておくべきだと考えて、このマルコによる福音書の〔結び〕として追加されたものだと考えられています。
そして10節に、「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。」と書かれています。この婦人たちは、主イエスの復活を仲間たちにっk伝道者となって伝えていたのです。
ところが残念ながら、11節で、「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」と書かれているのです。
次の12-13節では、「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」と書かれています。
ここに出てくる二人とは、明らかにルカによる福音書24章13節(新160頁)に出てくる、エマオに向かう途上で復活の主イエスにお会いして一緒に歩き始めた二人の弟子のことです。
ルカは24章16節で、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と書いています。
さらに30-31節で、「一緒の食事に着いてイエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」と丁寧にその場の状況を伝えています。
マルコにはそうした記述はありませんが、ただ「彼らは二人の言うことも信じなかった。」と、一番伝えたい、「信じない」ということだけを短く書いています。それが最初に書かれたマルコによる福音書の表現の仕方としての特色です。
2.不信仰とかたくなな心
新98頁に入ります。
マルコ16章14節には、「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」と書かれています。
この記述は、ヨハネによる福音書20章(新209頁)以下で、「復活する」と言う小見出しが付けられてさらに詳細に書かれています。
ヨハネによる福音書では、イエスは必ず復活されることになっているという聖書の言葉を、未だ理解していない弟子たち(ヨハネ20:9)にも、空の墓を見せたことが書かれています。
ほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった(ヨハネ20:30)ことが書かれています。そして、イエスの手に釘の跡をを見て、自分の指をイエスの手の釘跡とわき腹に入れてみなければ信じないとトマスが言っていた(ヨハネ20:25)ことと、復活されたキリストがトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は。幸いである」と仰ったと書かれています。
しかし主イエスは、弟子たちが不信仰だからといって、出て行け、あなたがたはわたしの弟子ではない、などとは言われません。
キリストは、ただ、真(まこと)の弟子になるようにと招かれているのです。
14節に書かれている、「かたくなな心」という言葉は、文字通り心が固いこと、鈍いこと、ちっとも変わろうとしない人の心を表現しています。
一般的には、マグダラのマリアや二人の弟子たちは信仰が厚くて、心が柔らかかったようなイメージを受け取る方もおられると思いますが、ヨハネによる福音書やルカによる福音書を丁寧に読みますと、二人のマリアも、弟子たちも最初はいかに心がかたくなだったかが分かります。
そうしてみると、主イエスの十字架の死と復活の出来後によって、すべての者たちがそこから新たな歩みが始まったということが分かります。
まさにそのことをマルコ教団の人々は、いったん閉じられたマルコによる福音書に加えておきたいと思って、末尾に[結び]と言う形で追加したのです。
皆さんは、主イエスの復活を信じておられますか。もちろん洗礼を受けておられる方は、自分は信じていると言われるでしょう。
しかし単に主イエスがあの時復活しただけだ、単に主イエスが復活して今存在しておられることを信じるだけだ、と信じていると言うことでは不十分なようです
主イエスは、復活され、今も生きておられて、わたしたちに働きかけていてくださる、だからこそわたしたちは主イエスと共に生きている、ということを丸ごとすべて信じることが必要なのです。
3.使命が与えられる
15節に、「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と書かれています。
キリストは、このように、信じない者たちと出会ってくださり、そして一人一人に生きることの使命を与えてくださる方です。
続く16節には、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と、ドキッとする言葉が書かれています。
これをどう読めばよいでしょうか。弟子たちはその後、自分たちは信じているから救われる。
だけど、信じない者は滅びる、といった風に、脅(おど)すような言葉をもって伝道したでしょうか。そうはしていないはずです。
今日の聖書箇所の前半のところに書かれていたように、弟子たちは最初は復活を信じない者たちでした。
「不信仰とかたくなな心」を主イエスに咎(とが)められています。弟子たちこそが、滅びに定められていた先頭集団だったのです。
しかし主イエスが、その弟子たちのところへ来てくださって、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」という使命を与えてくださいました。
今度は、弟子たちが全世界に出かけていく番なのです。
弟子たちは、わたしたちもかつてこうだったけれども、このように救われた、さあ、あなたも・・・と言って、人々を不安や恐れに駆り立てるのではなく、「新しい言葉を語る」(17節)ことによって、人々を救いへと招いたのです。
[結び一〕の最後の19-20(新98頁)に、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」と書かれています。
「主は彼らと共に働き」と書かれていることに注目してください。信じたわたしたちがどのように抵抗しても、主イエスと自分を切り離すことはできません。主が共に働いてくださるのです。
復活を信じるとはまさにそういうことなのです。
最後のところに、短い〔結び二〕があります(新98頁)。「婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」と書かれています。
今までの9節から20節に至るまでの結びではなく、別の結びとしてまとめられたと考えるべきでしょう。主イエスと共に「福音を広める」ことの大切さが書かれているのです。
4.主の僕の使命
先ほど読まれた、イザヤ書49章1節(旧約882頁)には、「島々よ、わたしに聞け。遠い国々よ、耳を傾けよ」と、主がイザヤを召命した言葉が書かれていました。
それに続く「主は母の胎にあるわたしを呼び」以下は、イザヤの言葉です。
そのときのイスラエルへの帰還の指導者として、主の僕としてイザヤが歌ったものです。
今日の聖書箇所では、主が語られた言葉とイザヤの言葉が、交差しながら節をまたがって、書かれていますので、聖書の読み手であるわたしたち自身が、主の言葉とイザヤの言葉のどちらなのかと、意識して聞き分けないと、分かりにくい文章になっています。
2節冒頭に「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として隠して」とイザヤの言葉が続き、3節で「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れる。」と、主の言われた言葉が書かれています。そして4節以下に「いたずらに骨折り・・力を使い果たした」と主の言葉が書かれていて、「わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である」と、イザヤの言葉が書かれているのです。
それから6節で、「わたしはあなたを僕として、・・イスラエルの残りの者を連れ帰らせ、イスラエルを世界の光として神の救いを地の果てまでもたらす者とする。」と、主なる神が、イスラエルを僕として愛しておられて、イスラエルの神が世界を支配される神であることを、示されているのです。
バビロン捕囚は、50年もの長きにわたりました。しかし、残りの者を連れ帰り、主のご用に用いてくださる、という約束を主は果たしてくださいました。
人間は、人生の中でいろいろな挫折を経験する時、苦しみの中で主の力を疑う時があります。そして、苦難を忘れるために享楽的になったり悲観的になり、苦難に飲み込まれて死ぬ人が多いのです。
ところが、神を知る人は、苦難は神が与えてくださる試練であると受け止め直して、この試練を通して神が祝福される、と信じることができるのです。イスラエルの民は、バビロン捕囚の苦難を通して信仰共同体として育てられていった証人となったのです。
今日の杵築教会の礼拝で、伝道師が顎を骨折して口が開かないといういった出来事を通じても、死の中にある姉妹の出来事を通じても、今ともに、信仰を持ってみ言葉に耳を傾けているわたしたちをキリストは祝福してくださっています。
マルコによる福音書の最後の結びの部分から、今日はみ言葉を聴きました。
不安や恐れに駆られているこの世の中です。しかしこのような時だからこそ、わたしたちが神に造られた人間であることを知り、それゆえに神がわたしたちを必要とされています。
わたしたちは、神と向き合い、神を礼拝し、神に祈りを献げる者でありたいと願います。
わたしたちは希望に生きる群れです。
誘惑や困難や罪、病や死に打ち勝つことが約束されているという、「新しい言葉」がわたしたちの口から出て来る、主イエスが今もわたしたちのなかで生きて働いておられる、とわたしたちは信じています。
神は愛なる方であり、わたしたち一人一人と共にいてくださいます。
主イエスは、十字架と復活の出来事を通じて、わたしたちにそのことを示してくださいました。
わたしたちを「神は愛なり」と言う言葉を受取って、主を信じる者とさせてください。主なる神が、わたしたちを導き、励まし続けてくださり、わたしたちが、主の栄光を仰ぎ見て、主の道を歩み続けることができますよう導いてください。とお祈りします。




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