top of page
検索

幸いな二人(ルカ1:39-56) 20251130

更新日:2 時間前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年11月30日の待降節第1主日礼拝の説教要旨です。

 杵築教会 伝道師 金森一雄

 

(聖書)

創世記15:1-6 (旧約19頁)

ルカ1:39-56(新約100頁)

 

1.エリサベトを訪問する意味

 

ルカによる福音書1章39節には、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。マリアが住んでいるのはガリラヤの町ナザレでしたから、ガリラヤのナザレからユダのエルサレムまでは、直線距離でも100kmあります。ちょっとそこまでという距離ではありません。聖書には、「山里に向かい」と書かれていますので、ヨルダン川沿いの遠回りのルートではなく最短コースを急いだのでしょう。


1章28節に、天使ガブリエルがマリアのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げています。マリアは、天使のこのメッセージを聞いて、戸惑い、心を騒がせています。そして29節には、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」と書かれています。

すると30節で「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」と天使に告げられました。

マリアは臆することなく、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに」と天使に尋ねています。

マリアのこの質問は、不信仰によるものではありません。神さまから自分が招かれた理由を理解したいという心の願いからのもので、キリスト者の模範とされる姿勢です。

これらのことから、マリアはイスラエルの聖書を十分知っていて、イスラエルの神さまが、謙遜な社会的弱者に対して示してくださる忠実な方であることを理解していることが分かります。


続いて35節で、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。親類のエリサベトも身ごもり、不妊の女と言われていたのに、六か月になっている」とマリアに告げています。

この時の天使の答えは、マリアは、いいなずけのヨセフと結婚することによって母となるのではなくて、聖霊の力によって神の子を妊娠すると告げたのです。

さらに37節で、天使から「神にできないことは何一つない」と告げられます。するとマリアは、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と天使に答えました。

このマリアの言葉は、神さまから与えられた使命を承諾する従順さのお手本として、ラテン語で「フィアット」と言われて広く親しまれたものになっています。天使から伝えられたメッセージを受け入れるということは、いいなずけのヨセフに拒絶されるリスクもあります。そのようなマリアの婚約中の妊娠は、世間から罰せられるリスクがあることは誰の目にも明らかです。


それにもかかわらず、マリアは神さまへの従順と識別力の模範を示したのです。それは、神さまへの盲目的な従順ではなく、神の計画への積極的かつ勇気ある姿勢を示すものなのです。

ですからマリアは、天使に告げられた親類のエリサベトと直接会って、神さまの力あるみ業を自分の目で見て確認したい、直接会って話を聞きたいと思って急いで出かけて行ったのです。

 

2.幸いな二人

 

ユダの町についたマリアは、ザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶をしました。41節に、すると、エリサベトの胎内の子がおどった、と書かれています。

そして42節で、エリサベトが聖霊に満たされて声高らかに、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と語り始めて、「わが主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言っています。

エリサベトは、自分の胎内にいる子と、マリアの胎内に宿ったばかりの子がどのような関係にあるのか、しかもマリアの胎内の子は主であることを知っているのです。自分と同じように、マリアは聖霊の大きな力によって子を宿し、み子を産むために神さまに選ばれた人だ、ということをエリサベトのお腹の胎児から知らされたのです。


ルカによる福音書1章13節に、天使が、エリサベトの夫ザカリアに「妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と言われ、17節で、その子は、「主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」と告げられていました。

エリサベトのお腹に宿っている胎児ヨハネは、主に先立って歩み、主の到来の準備をする者となる、その後に来られる主、救い主こそが、マリアの胎内に宿っていることを知っていて、エリサベトに、そのことを示したのです。まだ胎児であったヨハネ自身が、マリアの胎内に宿っている子は、自分が後に道備えをする救い主だとエリサベトに告げたということです。


エリサベトは、エルサレム神殿の祭司の妻でありかなりの年配者です。それに対してマリアは、ガリラヤの田舎出身のおとめです。社会的立場からすれば、エリサベトの方がずっと上で、敬意を持たれるべき人です。そのエリサベトが、マリアを「あなたは女の中で祝福された方」と賛美して、「わたしの主のお母さま」と敬語で呼んでいます。それは、子であるヨハネと主イエスの関係が既に前提となっているからなのです。


45節でエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ってマリアを見つめています。

マリアは、神さまがお語りになった恵みのみ言葉は必ず実現する、たとえそれが人間の常識や理解を超えたものであっても、神さまの力によってそれは必ず現実のものとなると信じていましたから、このマリアの信仰を称えて言っているのです。「主がおっしゃったことは必ず実現する」という言葉は、マリアの信仰であると共にエリサベトの信仰なのです。


人間の思いを超える神さまのみ力によって子を宿すこととなった二人は、共に、主がおっしゃったことがは必ず実現することを自分の体で体験させられて、共鳴しているのです。その信仰によって、二人共、「幸いな者」となっているのです。


先ほどお読みした創世記15章4節で(旧19頁)、主に「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われたアブラムが、その主の約束を信じ、主はそれを彼の義と認められた出来事と同じなのです。

 

3.マリアの賛歌

 

46節以下は、いわゆる「マリアの賛歌」です。「幸いな人」と告げられたマリアが、それを受け止めて、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い出しています。

「あがめ」という言葉が冒頭に来ていますが、原文では、「マニフィカート」という言葉です。元来は、「大きくする」という意味で、それが「主をあがめ」という翻訳になりました。「主を大きくする」ということは、「自分を小さくする」、ないしは「自分の小ささを認める」ということになります。

神をあがめるためには、自分の小ささを認めてへりくだることが必要なのです。自分を大きくし、自分の大きさを主張している間は、主を大きくすることはできません。わたしたちが、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌いつつ生きる者となることのお手本となって、この賛歌が歌われたのです。


47節に、「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とあります。

信仰に生きるということは、神さまを喜ぶ喜びに生きることです。神さまを喜ぶということは、神さまを自分の好きなように利用して楽しむことではありません。自分が神さまの主人になるのではなくて、神の僕、はしためとなって、み業のために用いていただくことにこそ自分の本当の幸いが、そして喜びがあることとなるのです。


48節の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という賛美では、マリアは、神さまとの関係において自分は卑しい僕であると告白しているのです。神さまを大きくする、神さまをほめたたえるということは、自分の社会的地位の如何にかかわらず、自分に主が「目を留め」て下さったと知り、神さまは、小さく見える謙遜な者に目を留めてくださり、救いを与えてくださる方であることを証しているのです。

そして、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言っているのです。

この幸いのゆえに、マリアは神をあがめ、主を大きくしているのです。


49節には、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と書かれています。神さまのみ前で卑しいはしために過ぎない自分が、神さまに選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神さまの恵みのみ業を担う者とされたのです。マリアはこのように考えることで、自分は神さまのはしためです、と単にへりくだっているだけではなく、そこに自分の幸いを見ているのです。


50節に「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあります。取るに足りない自分を用いて下さる神さまの憐れみは代々限りなく、主を畏れる者、つまり神さまを信じ、従う人々に及んでいくのです。マリアだけではなくて、神さまを信じて生きる信仰者たちは皆、「幸いな者」となるのです。


51-53節に「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と書かれています。

「思い上がる者」を直訳しますと「心の思いにおいて高ぶっている者」ということです。つまりこれはただ社会的に高い地位や権力を握っている者のことではなくて、心がおごり高ぶっている者への警告なのです。

52節の「身分の低い者」とは、38節でマリアが、自分のことを「主のはしため」と謙遜して用いた言葉と同じニュアンスです。自分は、心がおごり高ぶっている者ではなくて、自分が小さい、取るに足りない者だと知っている者こそが神さまによって用いられる、ということこそがマリアが体験したことだったのです。主なる神さまが、憐れみ、慈しんで下さり、わたしたちに目を留めてそのみ腕で力を振るって下さるからこそ、このようなことが起るのです。権力ある者と身分の低い者との立場が逆転するのです。

 

神さまの憐れみや慈しみは、神さまの約束に基づくもので、神さまはその約束を果たすために、今や、独り子イエス・キリストをこの世に遣わそうとしておられるのです。マリアはその神さまの約束の実現のために選ばれ用いられたのです。そこにマリアの幸いがありました。

 

わたしたちも、主イエス・キリストが実現して下さった神さまの憐れみの中で生かされ、神さまの栄光を現わすために用いられていくことによって、マリアの賛美、マニフィカートを共に賛美する「幸いな者」に加えさせていただきたいと祈ります。


ree

 
 
 

コメント


〒873-0001

大分県杵築市296

☎0978-63-3300

《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

  • Facebook
  • Instagram
  • X
  • TikTok

 

© 2025 by 日本基督教団 杵築教会. Powered and secured by Wix 

 

bottom of page