まさかわたしのことでは(マルコ14:10-21) 20250810
- abba 杵築教会
- 8月10日
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更新日:8月16日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年8月10日の聖霊降臨節第10主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
サムエル記下12章1-10節(旧約496頁)
マルコによる福音書14章10-21節(新約91頁)
1.ユダの裏切り
主イエスの受難において大きな役割を果たしたのが、イスカリオテのユダです。
10節に、「十二人の弟子の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長のところへ出かけて行った。」と書かれています。ユダから主イエスを引渡す(裏切る)意志をまずもって祭司長たちのところに行った。そして後からその話を聞いた祭司長たちが喜んで金を与える約束をした。ということで、ユダは世間でよくあるような金の誘惑に負けてイエスを裏切ったのではないのです。
それではユダは金目当てではなくて、何故、主イエスを裏切ったのでしょうか。
ある神学者は、ユダは主イエスがユダヤ人の先頭に立ってローマの支配を打ち破って神の国イスラエルを再興してくれる方だと期待していた。そのため、主イエスが祭司長たちに捕えられるような切羽詰まった状況に置かれれば、イエスが腹を決めて決起されるだろうと考えた。そのためユダは、自分が主イエスを引き渡す(裏切る)ことによって、主イエスがメシアとして決起するような状況を作り出そうとした。と解釈しています。
わたしたちは、ユダが裏切ることを主イエスは見抜けなかったのだろうか、主イエスの弟子選びと弟子の育成は失敗に終わったということなのか、などといろいろな疑問を思い巡らしてしまいます。
ところが聖書は、ユダの心の動きについて全く語っていません。聖書では、ユダが何故裏切ったのかに関心を寄せていないのです。
それでは、マルコはここで何を語ろうとしているのでしょうか。
マルコは、ユダは、主イエスが自ら選んだ「十二人の一人」であって、自らの意志で主イエスを裏切ったという事実を伝えたかっただけなのです。
これまでに、8節の31節、9章31節と10章33節で、三度に亘って主イエスの受難予告について書かれていました。9章31節の二回目の予告と10章33節の三回目の受難予告で、主イエスは、ご自分が「引き渡される」ことを語られています。そして、ユダは、主イエスが予告なさったことをその通りにしたことになります。ユダは自分の意志で主イエスを裏切ったのですが、実はその全てのことが神の計画の中にあったこと、神の権能の下にあったことであり、子なる神の主イエスはその全てをご存知だった、ということに重きがあるのです。
2.過越の食事の準備
12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」と書かれています。除酵祭とは、過越祭に続いて7日間にわたって行われる祭りですが、ここでは二つの祭りが並べられて同一視されています。
過越祭の食事は決められた儀式に基づく食事です。イスラエルの民が主なる神の力強い手によって、奴隷とされていたエジプトから解放された出来事を覚え祝うものです。食事をしている間に祈りがなされ、賛美します。そして子供の質問に親が答えてこの祭りについての宗教教育がなされていたのです。
当時は、過越の食事をエルサレムでとることが重んじられていました。そのため祭りの時には多くの人々がエルサレムにやって来てごった返していました。どこに過越の食事の場を確保するかは、彼らにとっては大きな問題でした。
12節で弟子たちが主イエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と尋ねていますが、それは自然の成り行きなのです。
13-15節で、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と、主イエスが二人の弟子に言って、先に使いに出されたことが書かれています。
ここに「水がめを運んでいる男」が出てきていますが、当時は、水がめを運ぶのは女性の仕事でした。男性が水を運ぶ場合には皮袋を使っていましたので、男性が水がめを運んでいれば目立ちます。男性が水がめを運んでいたのは、使いに出た二人の弟子が主人とコンタクトするための目印だったのでしょう。
主イエスは、前もって部屋を提供してくれる人の家の主人と連絡して、この家の主人は、「わたしの部屋はどこか」と使いに出した弟子に言わせています。
ここで主イエスは、「わたしの部屋」と言っておられますので、それはこの部屋で行われる過越の食事は、主イエスが計画したもので、この主人に頼んで、主イエス自身がこの過越の食事のための手筈を整えていたことが分かります。つまりこの過越の食事のホストは主イエスなのです。
3.まさかわたしのことでは
17節に「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」とあります。ユダもこの食卓に招かれていました。18節で、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と仰いました。ユダの裏切り(引渡し)の思いと計画を主イエスはご存知でした。ユダの反応については聖書には書かれていませんが、むしろびくっとした弟子たちの様子について、10節で「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と書かれています。
これまで主イエスは受難予告の中で、人の子は人々に引き渡されると言っていました。弟子たちは、もしかすると、引き渡す(裏切る)のは、自分なのかもしれないと思っていたのです。主イエスは、ユダだけではなく、弟子たち全員に、自分の中にある主イエスを裏切る思いのあることを意識させていたのです。
弟子たち皆が、自分の中に、裏切り(引渡し)の可能性を見ていて、「まさかわたしのことでは」と思っていたということは、当時の福音宣教が厳しい状況に置かれていたこともさることながら、弟子たちの心の中に人として神の前に謙遜で健全な状態にあったことを示していると思います。
20節です。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と、主イエスが言われました。主イエスはここでも、主イエスを裏切ろう(引渡そう)とする思いが、誰の心にもあることを意識させ、弟子たち一人一人に自分の弱い心をさらに深く自己点検させようとしているのです。
4. その男はあなただ
本日の旧約聖書サムエル記下12章1節の小見出しには、ナタンの叱責と書かれています。
預言者ナタンがダビデ王を叱責した話です。その前の11節に、ダビデ王が、水浴びをしていた自分の部下ウリヤの妻バト・シェバに目を注ぎ、ダビデとバト・シェバが床を共にしたことが書かれています。バト・シェバが子を宿したので、ダビデはバト・シェバの夫である部下のウリヤを激しい戦いの最前線に出して戦死させていました。
そして12章1節に、「主は(預言者)ナタンをダビデのもとに遣わされた」と書かれています。そこでナタンはダビデに一つのたとえ話を語ります。
登場人物は、豊かな男と貧しい男の二人です。豊かな男が、客人にご馳走するにあたって、自分の羊を惜しみ、貧しい男が持っていたたった一匹の雌の小羊を取り上げて自分の客に振る舞ったというたとえ話です。
そのたとえ話を聞いたダビデは激怒しています。5節で、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と言いました。すると7節で、ナタンはダビデに、「その男はあなただ」と言ったのです。
ナタンは、貧しい者や弱い者から大切な人を奪うという罪を犯しているのは、他の誰でもない。部下の妻を奪ってその夫であるウリヤを戦死させるようなことをしたあなた自身なのだ、とダビデに言ったのです。こうして主はダビデに、預言者ナタンを用いて、ダビデが自ら犯した罪とその大きさに気付きを与えられたのです。
マルコによる福音書12章18節で、主イエスが弟子たち全員に対して、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と言った言葉と、20節で、「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と言った言葉は、ダビデに対してナタンが「その男はあなただ」と語ったことと同じ気付きの働きをした言葉としての機能を発揮するものです。
ここから学ぶことは、わたしたちも主の言葉を自分自身に気付きを与えようとする言葉として受け取るように心掛け、弟子たちやダビデと同じように自分自身を振り返って気付きを得ることができる感度の高い生活習慣を身に着ける必要があるということなのです。
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」とそれぞれが言っています。「裏切り者はおまえだろう」「いやおまえこそ裏切るのではないか」と互いに言い合ってはいません。わたしたちが主イエスのみ前に本当に立つ時には、裏切者は誰だなどという思いは持ち得ないのです。厳しい見方をすれば、自分こそ、主イエスに従うことを拒んだイスカリオテのユダと同じような者で、主イエスを引き渡した(裏切った)者だということを認めざるを得ないのです。
21節で主イエスは、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその人は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と仰いました。人の子とは主イエスのことです。主イエスは聖書に書いてある通りに去っていく。それは、主イエスが引き渡され十字架につけられて殺される、それら全てのことが、聖書に書いてあること、予告されていること、つまり神のご計画によることだ、ということです。
その世界のあらゆることを通して、わたしたち罪人を救ってくださる神の計画が前進していくのです。
だからと言って、主イエスを裏切ったユダに責任がないとは言えません。ユダは自分の意志で主イエスを引き渡したのです。神の独り子、主イエス・キリストの教えを信じて受け入れ、主イエスが歩んでおられる道に従っていくことを拒み、主イエスを抹殺しようとしたのです。
主イエスを裏切る罪のこの深刻さがより深く分かってくることによって、このイスカリオテのユダが「十二人の一人」とされていること、また主イエスが過越の食事を備えて下さり、そこにもユダを含めた十二人を招いて下さっていることの大きな驚くべき恵みが見えてきます。
主イエスの招きは、十字架の死と復活を通してわたしたちすべての人にも与えられています。その招きに応えてわたしたちは洗礼を受けました。そして主は、わたしたちを聖餐の食卓にあずからせ、ご自分の体と血とによって養い、力付けてくださっています。
わたしたちは皆、主イエスを裏切る思いを心の中に持っており、「まさかわたしのことでは」と恐れおののいて言わざるを得ないものです。
それでも、主イエスの恵みによる招きを受取り、それに応えて洗礼を受け、み言葉を聞き、聖餐によって養われて生きて行く事によって、不幸だ、わざわいだと言われる人生ではなくて、生まれなかった方が、その者のためによかったなどと言われることなく、生れてきてよかったもの、かけがいがないものとして、幸いな、祝福をいただく、神が喜んでくださるまことの道を歩み続けることができるのです。

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