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イエスの復活(マルコ16:1-8) 20251109

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年11月9日誕前第7主日礼拝の説教要旨です。 

杵築教会 伝道師 金森一雄


(聖書)

エゼキエル書37章7-14節(旧約1357頁) 

マルコによる福音書16章1-8節(新約97頁)

 

1. 主イエスの復活

 

マルコによる福音書16章1-2節に、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」と、まず女性たちがイエスが葬られた墓に向かった様子が書かれています。当時は、安息日は土曜日ですから日曜日になったと言うことです。そして二人のマリアとサロメの三人が、主イエスの遺体に香油を買って、週の初めの日曜日の朝早く日の出とともにすぐ主イエスが葬られた墓に向かったのです。

 

すぐ前の15章43節には、ひそかに「神の国を待ち望んでいた」議員のヨセフが、総督ピラトにイエスの遺体引き渡しを願い出たこと、そして46節には、ヨセフが亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布を巻き、自分のために用意した「墓の中に(イエスを)納めて、墓の入り口には石をころがしておいた」と書かれていましたから、墓の入り口の石を転がさないと墓に納められたイエスの体に香油を塗ることはできないと思っていたことが分かります。

3節には、この三人の女性が、「だれか墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたと書かれています。

4節には、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」と書かれています。15章の最後47節に、「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれていましたから、「見つめていた」ところから16章4節の「目を上げて見ると」と書かれている間まで、ずっと二人のマリアがイエスとわたしたちを隔てる墓の入り口の大きな石を見つめてたたずんでいたかのような錯覚に陥ります。少なくとも二人のマリアの心の内はそのような寂しさに包まれた状態だったのでしょう。

 

2.空っぽの墓

 

そして5節です。「墓に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」と書かれています。昔から自分の願っていることを成すためには大きな危険を冒さなければならないと言うたとえとして、「虎穴に入らざれば虎児を得ず」ということわざが用いられていますが、この時の虎穴とは、イエスの葬られた墓の中でした。墓の中で彼女たちが出合った若者とは天使です。6-7節でその若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」、驚くべきことを彼女たちに告げています。

天使からイエスの復活宣言を聞いたのです。

安息日は土曜日ですから、土曜日が終わって日曜日になって彼女たちは動き出しました。キリストがお甦りになられたのは、週の初めの日曜日の出来事だったのです。このため、当時の初代教会では、日曜日という日を選んで、日曜日の夕方、教会に集まり始めました。その後もキリスト教会は、様々な困難がありながらも、日曜日の礼拝を大事にしてきました。迫害されようが、ペストが猛威を振るおうが、日曜日に集まって礼拝をすることを大事にしてきました。

 

キリストの復活の出来事に関して、聖書は二通りの伝え方をしていることに気が付きます。

一つ目が、復活の主イエスにお会いしたという伝え方です。

この時の女性たちの前に、そして弟子たちの前に復活の主イエスが現れるわけですから、これほど分かりやすいことはないと言えます。

もう一つの伝え方が、墓が空だったという伝え方です。

今日の聖書箇所でもそうですが、イエスを慕ってイエスの遺体がが葬られた墓へ出掛けていく。そうすると想定外のこと、主イエスの遺体がない出来ごとに出会うという、伝え方です。

普通であれば、復活の主イエスにお会いしたと語る方が、分かりやすくて大事なことだと思われると思います。しかし、聖書の四福音書すべてが、墓が空だったという伝え方をしているのです。

 

イエスの復活の出来事の時間的な流れとしては、まず墓が空っぽだったという出来事があって、その後で復活の主イエスにお会いする出来事が続いていくのです。墓が空っぽだったときは、人々にとって驚きであり、恐れでありました。しかし復活の主イエスにお会いする際には、その恐れが喜びに変わっていくのです。そういう変化が起こったということが、復活の出来事なのです。

 

3.驚きから恐れへ

 

聖書のギリシア語原典の言葉では、16章8節の最後の、「恐ろしかったからである。」と言う言葉の後に、γάρ「なぜなら」という言葉が書かれています。「なぜなら…」とか、「と言うのは」という意味の言葉が書かれているのです。その後には何も書かれていなくて終わっています。

「なぜなら…」で終わるのは、終わり方としてはかなり奇妙です。本当は何らかの形で話が続いていて、何らかの記述があったのかもしれません。婦人たちは、何故恐ろしさを覚えたのかについて書かれていた、あるいは書こうとしていたのかも知れません。

新共同訳のマルコによる福音書は、9節以降も続いていますが、「結び」という見出しがあって、〔 〕括弧が付けられています。これは、元々のマルコによる福音書にはなかったのではないかと考えられているからです。

写本によっては、9節以降がありますよ、ということなのです。

 

次週の説教箇所になりますが、復活をきちんと受けとめることができなかった人間たちの姿が描かれています。主イエスの復活は、人間の感情としてはマイナスから始まっていったのです。そんなことあるはずがない、驚くべきことが起こった、恐ろしいことが起こった、そう受けとめられたのです。

 

4.枯れた骨の復活

 

今日わたしたちに与えられた旧約聖書、エゼキエル書37章(旧1357頁)には、「枯れた骨の復活」という小見出しが付けられています。

聖書を開いてください。この不思議な出来事を読み進めてみましょう。

 

1節には、「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。」と書かれています。「主の霊によって連れ出され」たところは、枯れた骨で一杯になっていたと言うのです。イスラエルは、この時、バビロン捕囚を経験していました。ここでは、イスラエルの国が滅ぼされて、主だった人たちが異国の地、バビロンに連れ去られたことが描写されているのです。

 

続いて4節に「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」と書かれています。

主が自分たちを見捨てたと言っています。そして続けて書かれていることは、単なる復活の話ではありません。そこに共同体が生まれるという復活の出来事が書かれているのです。苦難の後に希望が語られます。

 

8-9節に、「わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」と、書かれていて、骨と体だけがまず復活し、そして霊が吹き入れられて生き返ると言うのです。

それから10節で、「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」と言うのです。

 

そして12-14節には、「わたしはお前たちの墓を開く。わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、我が民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生き返る。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と預言されているのです。

 

神が、「お前たち」という言葉を何と8回も繰り返しています。「お前」、「あなた」と言ってもよいのですが、あなた一人だけの問題ではない。あなた一人だけがかかわることではない。そうではなくて、あなたたち、「お前たち」のことだというのです。そのことが、エゼキエル書のこの箇所で強調されているのです。単なる復活ではなく、滅ぼされてしまった共同体が、再び復活するという出来事なのです。

すべては主が語っておられたことで、わたしたちは主がすべて行われたことだということを知るようになると、主が仰っているのです。

 

5.復活を信じる群れが生まれた

 

主イエスが復活され、墓が空っぽだった際に、マルコによる福音書16章7節で天使が告げたこともまさにこのことを表しています。

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」書かれていました。

主イエスが恐れを抱いている女性たちに先立って歩んでくださいます。恐れをなして逃げてしまった弟子たちに先立って、ガリラヤへ行かれます。ガリラヤは、多くの弟子たちにとって、自分たちが主イエスの弟子としての歩みを始めた場です。婦人たちにとってもエルサレムはもとよりガリラヤが出発の原点なのです。彼らの原点であるガリラヤで、「お前たち」と言われた人々が復活のイエスが再び出会ってくださるのです。このようにして初代教会が生まれていきました。

 

わたしたちの杵築教会も主イエスの復活に生かされる群れとして生まれ、育まれてきたのです。これがマルコによる福音書の終わり方です。

終わったけれども、決して終わらない福音書です。

マルコによる福音書では、弟子たちも恐れ、逃げてしまいました。女性たちも恐れ、何も言うことができませんでした。男性の弟子たちも、墓に行った女性たちも、誰もが失敗をしてしまった集団です。

でも変えられたのです。復活の主イエスにお会いし、恐れが喜びになりました。

その群れの中で、喜びが生まれたのです。

 

今日の説教の説教題を、「イエスの復活」としましたが、お前たちと主が呼びかけてくださるわたしたちの復活の出来事なのです。

わたしたちはイエスの復活を知っている者たちなのです。

イエスの復活によって、空っぽの墓に驚き、恐れ、復活の主イエスと出会い、復活を信じる群れが生まれました。それは、恐れではなく、喜びに生きる群れです。死、病、罪、あらゆる恐れを乗り越えられる道がここにあります。

わたしたちはその信仰に、生きることができるのです。



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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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