愛ゆえに怒る・恕す(マルコ15:33-41) 20251026
- abba 杵築教会
- 10月26日
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更新日:10月26日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年10月26日降誕前第9主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)イザヤ書54章5-10節(旧約1151頁)
マルコによる福音書15章33-41節(新約96頁)
1.愛ゆえに怒る・恕す
マルコによる福音書15章33節には、「それから昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」と書かれています。
マルコは、昼の12時に全地が暗くなったと書くことによって、主イエスの神性がその力を現さなくなったことを意味しているのです。すなわち正午に、イエス・キリストが十字架上で神であることを、しばらくの間」止(や)めたということになりますので、イエスは、人間イエスとしてまさに窮地に立たれたということです。
34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」と書かれています。このイエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたという言葉は、詩篇22編の冒頭2節(旧約852頁)で預言されていた言葉なのです。ここでも聖書の言葉が実現していることになるのです。
35-36節に、「そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。そして、ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付けて、「「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。」と書かれているのです。
主イエスの大声で叫んだ言葉を聞いていた人たちは、主イエスが「エロイ=わが神」と言ったのを偉大なる預言者「エリヤ」の名前を呼んでいると受取ったのです。
このときイエスは、「神がお見捨てになった」と、一回限りの出来事として表現するために過去形を用いて語られています。この時神は、イエスを見捨てられ、神の独り子イエスは神の怒りを受けられた、ということを表現しています。
そして37節には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」と書かれているのです。
先ほど司式者が読んでくださった、イザヤ書54章7、8節(1151頁)に次のように書かれています。
「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。」と言うのです。
神の怒りは一時(いっとき)であり、神慈しみとあわれみが永遠であることをイザヤ書は語っているのです。
そして9、10節には、「これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」と書かれているのです。
今日の説教題を『愛ゆえに怒(おこ)る・恕(ゆる)す』とさせていただきました。
「怒る」という漢字は、女という漢字の右側に又と言う字を書いて、その下に心と書きます。その「怒る」という漢字の又の部分を口に変えるだけで、「恕す」という漢字に なって、全く反対の意味になるのです。
「恕す」という漢字の由来は、孔子の『論語』にあります。簡単に説明しますと、孔子が弟子からたった一言で一生それを守っていれば間違いのない人生を送れるという大切な言葉は何ですか?と聞かれた時に、孔子が「恕す」という漢字一字で『恕』であると言われたのです。その意味は、慈しむとか赦す、憐れむという意味です。
イザヤは、「わたしにとってはノアの洪水に等しい」と言っています。神は愛ゆえに怒(おこ)るが、それは一時であり、愛ゆえに恕(ゆる)す、すなわち慈しみをもって憐れんで赦すと仰っているのです。神の怒りは続くことはないのです。神は人間を愛するゆえに、神の怒りには限りがあって、神の責任において、世界を善い方向に変え、人間を慈しむという永遠の約束をされたのです。それは、ノアの洪水物語で箱舟の中にいた残りの者に虹を示してくださったことと、重なることだというのです。
イザヤが神の言葉を語っていた時は、イスラエルがバビロン捕囚されているときでした。イスラエルの民は、神の怒りをかって国を失い、土地が奪われ、遠い外国のバビロンの地に多くの人が連れて行かれたのです。
神の怒りをかったイスラエルの民は、国を失っただけでなく、外国に強制連行され、絶望の淵に投げ込まれました。イザヤはそのイスラエルの人々に向かって、諦めるな、神は生きて働いておられる、神の怒りは一時である、むしろ永遠なのは神の赦しであり慈しみの方だ、と神の言葉を告げたのです。そして50年のバビロン捕囚の期間を経て、イザヤが預言した通りに、イスラエルの人々は、神によって道が拓かれて故郷に帰還できることになるのです。神は愛ゆえに怒り、そして愛ゆえに恕す方なのです。
2.百人隊長の信仰告白
今日の聖書箇所に話を戻しましょう。
38節で「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と書かれています。神殿の垂れ幕とは、神と人とを隔てていたものです。その垂れ幕が、主イエスが息を引き取られると同時に上から下まで真っ二つに裂けたのです。神と人との間を隔てていた垂れ幕が、主イエスの十字架の死によって隔てが取り除かれたのです。
イエスが十字架に架かられたその場に居合わせた人々は、神と人間が一つに結び合わされたという不思議な出来事を目の当たりにしたのです。
そして39節には、「このように息を引き取られたのを見て」いた百人隊長の信仰告白の言葉が書かれています。
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」と言うのです。
ローマの百人隊長のこの言葉は、異邦人の信仰告白のクライマックスとなるものです。
この百人隊長は、どこの国の出身なのかは分かりませんが、神の民であるユダヤ人からすれば、異邦人であり外国人です。そんな外国人の口から、なぜこの信仰告白が行われたのかについて考えてみたいと思います。
この百人隊長は、ピラトが決めた主イエスの十字架刑執行の責任者です。主イエスが生きているかどうか、息絶えたか、を注意深く見守り確認することが百人隊長の責任です。
主イエスが十字架につけられた朝の9時から十字架上で息を引き取られた午後3時まで、6時間にわたる緊張が連続する任務でした。もしかしたら、祭司長たちがイエスをピラトに引渡した早朝から勤務していたかも知れません。とすれば、9時間にわたって主イエスのそばにずっと立ち会っていたのです。
主イエスの最後の叫び、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの言葉に心を打たれたに違いありません。
十字架につけられた囚人の中には、神を呪って死んでいく囚人がいくらでもいたと思います。
しかし主イエスは、神に見捨てられて絶望の中にあっても、「わが神…」と、神に呼びかけています。それを目の当たりにした百人隊長は、囚人イエスと神との固い結びつきに心を打たれてこの信仰告白の言葉が出てきたのでしょう。
なぜこの百人隊長がこのような信仰告白をすることができたかについて、聖書には合理的な説明は何も書かれていません。「このように息を引き取られたのを見て」、ただそれだけです。具体的にどういう手順を踏んで、どういうことをきっかけにして、この信仰告白の言葉が生まれたのか、といった合理的な説明はないのです。
しかしよくよく考えてみると、理由がないのももっともです。信じて洗礼を受けた人に、なぜあなたは信じて洗礼を受けたのかと説明を求めても、納得するような合理的な答えは返って来ないでしょう。
自分が信仰を持ったことについて、合理的な説明はできないのが普通です。信仰告白に至る法則があるわけではありません。法則や手順はないのです。もしそんな法則があれば、その手順通りに進めていけば、ロボットを製造するように何人でも信仰告白者を生み出せることになってしまいます。
しかし大事なことがあります。それは、神の御業(みわざ)がまずあって、信仰告白が生まれるということです。何らかの見えざる神の御業がなされて、それが終わってから人の信仰告白が生まれているのです。
3.婦人たちの証言
そして40-41節には、「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。」と書かれています。そして47節に「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」と書かれています。
この婦人たちが主イエスの復活の最初の証言者となったのです。
さらに41節に、婦人たちが「世話をしていた」と書かれています。教会で奉仕をして仕えていたという方がよいと思います。教会には、最初期の頃から女性たちが多かったようです。
このように奉仕をして仕えるということは、神の愛に応答することなのです。この三人の女性たちは、ずっと教会生活をしてきたのでしょう。教会を支えてきた人たちとしてその名前が書かれているのです。
わたしたち人間は、応答する生き物として神に造られています。ところが応答しない、応答し損なってしまうというのでは、そこで神との関係性が崩れて、人間の罪が生み出されてしまいます。神の愛に正しく応答して神のしてくださったことを証して神を賛美することこそが人間らしい生き方なのです。
今日の聖書箇所には、まずすべてを成し遂げてくださる神に対して信仰を告白し、それからその信仰に基づいて神の愛と慈しみに応えて生きることこそが大切であると示されています。
神の独り子イエスが、十字架において神の怒りを一身に背負ってくださって息を引き取られたことによって、神の怒りは、孔子が大切なものと語られた『恕(じょ)』、慈しみと赦しと憐れみに変わりました。
孔子は、弟子の質問に対して、『恕(じょ)』tという言葉を示してこの言葉を一生守っておけば間違いない人生が送れると語ったのですが、それに続けて、「あなたが人にされたくないことは人にするな」という有名な格言を語っています。べからず集の格言に聞こえますが、日本人社会でよく使われている言葉です。聖書の黄金律では、マタイ7章12節で、主イエスが、「人にしてもらいたいとおもうことは何でもあなたがたも人にしなさい。」と仰っており、この孔子の言葉を肯定形で言っていることになります。孔子は、しないことを勧奨し、イエスは、することを勧奨している表現をしているのです。
主イエスの十字架の上に神の怒りが臨みました。強い憤りです。このように神の独り子である主イエスが全世界・全人類に対する神の怒りを背負ってくださり、苦しまれたのです。これほどまでに神の独り子イエスが苦しむほど、神の怒りは大きいものなのです。しかしこの怒りは永遠に続くものではありません。永遠に続くものは神の愛であり、怒りではありません。恕しです。慈しみと憐みなのです。
主イエスが私たちの罪を背負って十字架にお架かりになり、わたしたちの罪を赦してくださいました。ですからわたしたちは、イエス・キリストの苦しみの十字架を神の憐みと愛と神の光のもとで受けとめているのです。わたしたちは、神への信仰を表し、神の愛に応えて生きる者でありたいと願います。
そして、主イエスから与えられている黄金律(人にしてもらいたいとおもうことは何でもあなたがたも人にしなさい。)を、実践させていただきましょう。




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