恐れることなく主に仕える(ルカ1:57-88) 20251207
- abba 杵築教会
- 12月7日
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更新日:12月10日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年12月7日の待降節第2主日礼拝の説教要旨です。
杵築教会 伝道師金森一雄
責任役員 麻生幸代(代読)
(聖書)
詩編105編1-45節(旧約943頁)
ルカによる福音書1章57-80節(新約101頁)
1. ヨハネの誕生
本日与えられているルカによる福音書1章57、58節には、「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」と書かれています。
一見すると、ユダの町で洗礼者ヨハネが誕生したことを喜んでいる様子がさらっと書かれているように見えますが、エリサベトを「主が大いに慈しまれたと聞いて」喜んだと書かれていることに着目する必要があります。
確かに幼子の誕生については、主なる神さまの慈しみがなければ適わないことですが、そのように主の慈しみについて、ことさら周囲の人々が話題としていたということですからそれには意味があるのです。
6節に、祭司ザカリアと母エリサベトは、「神の前に正しい人で、非のうちどころがなかった。」と書かれています。しかし、7節には、「彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」ことが書かれていました。そして、ザカリアが当番で祭司の務めをしていたとき、13節に、主の使いが現れて、「妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げたことから洗礼者ヨハネの誕生物語は始まっています。
18節には、ザカリアは、そのお告げをすぐに信じることができなかった様子が書かれていました。「私は何によってそれを信じることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と御使いに答えています。それはそうだろうと、わたしたち読者も常識を働かせます。
すると20節で、御使に「あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私の言葉を信じなかったからです。」と言われて、ザカリアは口が効けなくなっています。長年の男の子が欲しいという願いが叶わされるような話を聞いたと思ったら、喜んで奥さんのエリサベトに伝える間もなく、話すことができなくなったのです。
24節には、懐妊してから安定期に入るまでの五か月間は、エリサベトは引きこもっていたと書かれています。そして25節には、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」とエリサベトが言っています。
エリサベトは主なる神のなさることを信じ、待ち望んでいたのでしょうが、何と言っても高齢出産です。周囲の目も気になるでしょう。このような状況の中で、ヨハネが誕生したのです。まさに主なる神がエリサベトを慈しんでくださったと言わざるを得ません。主を賛美するユダの町の喜びに溢れた様子が伝わってくるような気がします。
ところで、当時のユダヤ人社会では、新生児が与えられると、女の子の場合は、生誕後30日以内に名をつけることになっていたようですが、男の子の場合は、誕生後八日目に、割礼を施して命名しなければなりませんでした。62節に、人々がザカリアに、「「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。」と、書かれていますから、どうやら、ザカリアは、口が利けなくなっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたようです。エリサベトがヨハネを生むまでの間ずっと、口が利けず、耳も聞こえない状態だったのです。
2.ザカリアの信仰告白
63節に、「父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。」と書かれています。そして64節には、「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美して始めた。」というのです。祭司ザカリアが、「この子の名はヨハネ」と書いたということは、天使が告げた全てのことをザカリアが信じて受け入れた、ことを意味します。
洗礼者ヨハネの誕生が予告されたとき、15−17節で、天使から、「この子は、エリサベトのお腹の中にいる時から聖霊に満たされて、神さまの救いのみ業の実現のための備えをする者となる、つまり神さまに用いられて神さまのご用に用いられる者となる」と、告げられていました。ということは、この子を神さまから与えられた務めに就くまでザカリアが育てるが、その後、神さまのご用に用いられる者としてお返ししなければならない、ということです。
このことまで含めて、ザカリアは信仰告白をする必要がありました。
信仰告白に備えて、ザカリアは言葉を語ることも聞くこともできなくなることによって、周囲の雑音を気にせず、ひたすら神様のみ言葉に耳を傾けていく大切な時間が主のご計画の中で与えられた、ということです。このときのザカリアの姿は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えたマリアの信仰の姿と重なり合う、真実に重たいものだったのです。
3.ザカリアの賛歌
ザカリアは、それから新しい言葉を語る者とされました。新しい言葉とは、神さまを信じて賛美する言葉です。以前のザカリアは、天使の言葉を聞いても、それを自分の常識によって判断し、どうしてそんなことが分かるのか自分には理解できない、と言っていました。
しかしここに至って、神さまのみ言葉を信じて受け入れ、恵みのみ業を行なって下さる神さまを賛美する人に変えられたのです。
67節以下は、「ほめたたえよ」と神さまを賛美する歌です。世界中でラテン語で「ベネディクトゥス」と呼ばれています。
68b節から69節で、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と書かれ、75節まで、主イエスのことが書かれています。そして76、77節はヨハネについて書かれています。
それから78節で、「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、」と書かれています。68b節の「民を訪れ」と78b節の「我らを訪れ」の「訪れ」という言葉が、「鍵の言葉」として用いられて、その中に、主がわたしたちのところへ訪れ、イエスとダビデを起こされてわたしたちに救いを与えてくださるという重要なメッセージが記され、賛美されているのです。
4.聖なる契約
69節で、「救いの角」がダビデの家から起こされたと、ダビデ王の子孫として救い主が生まれ、遣わされる、という旧約聖書の預言の成就を語っています。ダビデの子孫として生まれる救い主とは主イエス・キリストのことですから、ここでは、イエス・キリストが既に到来したものとして語られているのです。
そして70節には、「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」と書かれています。すべては神さまのみ心においては、ご計画によることであり約束の実現に他なりません。
主イエス・キリストによる救いは、神さまの約束の実現なのです。
このことの持つ意味をザカリアは72節で「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」と語っています。
聖なる契約を守ることができずに罪に陥っている民に対してすら、神さまは常にご自分の契約に忠実であり続けて下さいます。
それこそが神さまの憐れみなのだ、ということを言い表しているのです。
神さまがわたしたちをご自分の民として下さり、わたしたちの神となって下さることによって、「神さまの民」が生まれるのです。
先ほど読まれた旧約聖書の詩編105編45節に、「それゆえ彼らは主の掟を守り、主の教えに従わなければならない。」と書かれています。
神さまの民とされた者は、救いのみ業に感謝し、神さまのみ言葉に聞き従わなければならないと言うことです。
旧約聖書に書かれているイスラエルの民の歴史は、失敗の繰り返しです。神さまが与えて下さった契約を無視する罪の繰り返しでした。
しかし主なる神さまは、ご自分の民としたわたしたちを常に覚えて慈しんで下さり、救いの約束を必ず果して下さる方なのです。
ルカによる福音書のザカリアの賛美に戻りましょう。
73節の後半から、「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と、書かれています。
神さまにそっぽを向くわたしたちを方向転換させるために洗礼者ヨハネを遣わし、道備えをして、悔い改める者に罪の赦しによる救いを与えるために独り子イエス・キリストを遣わして下さるのです。まさに神さまの契約による恵みであり、旧約の預言者たちが語っていたのも、この契約の恵みに基づく救いの約束なのです。わたしたちは、神さまの恵みから引き離そうとする敵から救われ、「恐れなく主に仕える者」となるのです。
「生涯、主の御前に清く正しく」ということは、わたしたちが自分の清さ正しさを自己採点するという話ではありません。ヨハネが告げ知らせ、主イエスによって実現した罪の赦しによる救いの恵みを信じて生きる時に、わたしたちの生涯の歩みは、神さまのみ前に清く正しいものとなっていくのです。
神さまが、恵みに満ちたまなざしで、わたしたちの日々の歩みを見つめていて下さることが分かるようになることで、その時わたしたちは、恐れることなく神さまのみ前で生きることができるようになるのです。
76節から、ザカリアは、自分の子ヨハネが、「いと高き方の預言者と呼ばれる」と言っています。32節で天使がマリアに、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言っていました。ここでは、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれる」のですが、イエスは「いと高き方の子と言われる」と言われていました。「呼ばれる」と「言われる」は原文では同じ言葉ですから、ヨハネは「預言者」で、主イエスは「子」であるということだけが異なるのです。このように同じような表現をすることによって、ヨハネと主イエスとは切り離すことのできない関係にあることを示しているのです。
77節に、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と書かれています。
ヨハネは、人々の罪を厳しく断罪し、それに対する神さまの怒りを語る預言者でした。神さまに罪を赦していただかなければ救いはない、とヘロデ・アンティパスに告げ、殺害されましたが、人々の罪を厳しく断罪し、それに対する神さまの怒りを語る預言者でした。神さまによる罪の赦しこそが救いであり、それがなければ、この世でどんな地位や豊かさを得てもそこには本当の救いはない、ということを躊躇することなく誰彼となく伝えたのです。そのことによって、人々の罪の赦しを十字架の死と復活によって成し遂げて下さる、救い主イエス・キリストの道備えをしたのです。そのヨハネの働きによって、イエス・キリストによる救いの中心が、罪の赦しであることが明らかにされているのです。
そして78、79節で、「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と、ザカリアは語っています。神さまの怒りを受けて滅びるしかないわたしたち一人一人の生まれつきの姿を見つめ、そのわたしたちの上に、神さまの憐れみによって、あけぼのの光が訪れ、わたしたちを照らして下さるのです。
わたしたちは、この光に照らされて、「平和の道」へと導かれるのです。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神さまの救いを信じて受け入れることによって、人間の罪の現実の背後に、それを背負い、十字架の苦しみと死によってそれを赦して下さっている神さまの憐れみのまことを見ることができるのです。
そこにこそ、このザカリアの賛美を共に歌って歩む道が用意されているのです。




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