主の名を呼び求める者(使徒2:14-21) 20260201
- abba 杵築教会
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更新日:21 時間前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年2月1日の降誕節第6主日礼拝説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
ヨエル書3章1-5節(旧約1425頁)
使徒言行録2章14-21節(新約215頁)
1.声を張り上げ is
今日与えられた使徒言行録2章14-15節には、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。』」と、書かれています。
先週の28日(水)から高市総理の衆議院電撃解散選挙が始まり、期日前投票も始まっています。
候補者がマイクを握って大声をあげている様子をテレビで見聞きしていますが、人間はどうしても知って欲しいという思いが先行すると、自然に声を張り上げてしまうようです。
今日の聖書個所でもペトロが声を張り上げて、宣教への情熱がほとばしり出ている様子が書かれています。
すぐ前の聖書箇所の13節で、「しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」と書かれていましたから、ペトロはそれをスルーすることをせず、最初に、自分たちは、酒に酔っているのではありません。聖霊に満たされているので聖霊に酔っているのだ。と、自分たちをあざけっている人々の批判に、丁寧に答えたのです。
当時のユダヤ人は、一日三度祈っていました。「朝の九時」と言えば、祈りの時間です。
ですから、今は朝の九時と言うだけで、酒を飲んでいないことを立証する力があったのです。
それからペトロは、旧約聖書のヨエル書3章(1425頁)を引用して、説教の聞き手のユダヤ人の気を引き付けようとしたのでしょう。ヨエルの終末の預言の言葉を用いて、声を張り上げて神の業としての主イエス・キリストのことを話し出したのです。
ペトロが声を張り上げた姿は、「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」という、イザヤ書40章9節の預言の言葉と重なります。
イザヤがこの預言を語った時は、ユダヤの国が滅び、国土が荒廃し、ユダヤ人の主だった人はバビロンに連れ去られたときです。バビロン捕囚の真只中で、神が自分たちを見捨ててしまわれたと嘆くような厳しい状況にありました。人々が希望を失い、預言者も声を失っている中、荒廃とした静けさの中で福音を伝えるために、「高い山」に登って声を張り上げよと、山の下の町にいる人たちに向けて主の大きな声が響いて来た状況です。
わたしたちが信じる神は、まず約束をなさる神ですが、いきなりその約束が実現するわけではありません。神の約束から実現までの間、わたしたちは神と向き合い、神を信じて約束の実現を待つ必要があります。
そして神の約束が実現したならば、喜び、感謝するのです。ペトロは、そのような気持ちだったのでしょう。
2.神は約束なさり、実現される方
わたしたちは神を信じています。なぜ信じているのでしょう。それは、神がどのようなお方なのかということにかかってくるはずです。こういうお方だから信頼するに足る、だから信じるというのが信仰です。
このペテロの説教では、旧約聖書の言葉を多く引用することによって、わたしたちの信じる神は約束をなさる方であり、またその約束を実現してくださる方であると主張しているのです。
聖書の中で神が約束をしてくださる場面は多々あります。
ユダヤ人の誰もが知っていた創世記37章(旧約65頁)のヨセフ物語もその一つです。創世記37章9節bで「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」と書かれていたことを思い起こします。この夢を見たヨセフは、そのことで兄弟たちのいじめに合ってエジプトに売られましたが、のちにその見た夢が実現した歴史的に有名な出来事です。
46章8節bには、「神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」と、ヨセフが自分の生涯を振り返っています。そして46章27節には、父ヤコブの腰から出た家族総数70名がエジプトに行くことになったと、書かれているのです。
まさにエジプトで神に用いられたヨセフの前で、イスラエルの残りの11部族がひれ伏している出来事が起こったのです。
まさにヨセフが夢で見た主の約束が、後に成就しています。
今日の説教箇所では、主イエスから待っていなさいと言われて使徒たちは一つになって祈っています。そして聖書をよく読んで、聖書の言葉に基づく行動をしようとしてひたすら待っていたのでしょう。
神が約束をされたのだから、その約束は神が必ず実現してくださると信じて、神との信頼関係を築きながら歩んでいるペトロの姿が今日の聖書箇所には書かれているのです。
今日の説教箇所の大半は、旧約聖書の言葉です。
ペトロは説教の冒頭の使徒言行録2章17節から21節で、旧約聖書ヨエル書の3章1-5節を引用することによって、ヨエル書に預言されている通り、神がかつてこんな約束をしてくださった。その約束が今、このように実現した。と語って説教の説得力を増しています。
ここからペトロの説教は36節まで続いていきますが、その中で旧約聖書の引用が次々に行われて、神がかつてこんな約束をしてくださっていたけれども、イエス・キリストによって神の約束が実現した、とつながっていくのです。
3.主の名を呼び求める者
前置きはこの辺までとして、17節からのヨエル書の引用の言葉を読んで参りましょう。
17節「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」
18節「わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
19節「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。」
20節「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。」
そして21節で「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と、書かれています。
ここで言っている、若者の見る「夢」と老人の見る「幻」は、見ているものは同じもので、英語ならvisionですが、日本語では使い分けています。息子と娘は「預言」し、若者と老人が同じ「夢と幻」を見ているということですから、皆が預言を得て、共通の夢、共通の幻を抱いていてバラバラではないということです。
男女の違いは勿論、年齢のギャップも超え、すべての違いを超えて、どんな人にとっても救われる道が拓かれていく言っているのです。だとすれば、老人が夢を語り、若者がそれを実現することだってあるでしょうし、逆に、若者が幻を語り、老人がそれを応援することだってあるでしょう。
箴言29章18節(1029頁)には、「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」と書かれています。幻がなければ、民は自分勝手にふるまうでしょう。幻がなかったら、民はみな滅びます。夢や幻、ビジョンがあるからこそ、どんな障害があっても乗り越えていくことができるのです。
その夢や幻は、神から与えられるものでなければ、妄想になりかねません。み言葉を神の言葉として受け止めることができると、夢や幻が与えられるのです。それは、聖霊に満たされることによってもたらされるのです。
しかし、それだけではありません。
19‐20節では、終末、主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗く、月は血のようになると、天変地異が預言されています。
そのことは、すでにルカによる福音書21章7節(新約151頁)で語られていたことです。終末の主の再臨の時に起こる超自然的な出来事を指していると思われますが、終わりのときには聖霊が注がれ、息子や娘は預言するだけでなく、そのような恐ろしいしるしが天でも地でも起こるのです。それは、天地万物がその根底から揺り動かされるような時があっても、主イエス・キリストを信じて神により頼む者には、救いがあるという約束なのです。
今の時代は、本当に何が起こるかわからない時代です。しかし、どんなことが起こっても、わたしたちは何も恐れる必要がありません。イエスを主と告白して救われているわたしたちには、その恐ろしいさばきから逃れる恵みが与えられているからです。
実はヨエル書には、もう少し続きがあるのですが、ペトロのヨエル書の引用はここまでで、21節の「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる。」 という預言の言葉の引用で終えているのです。
わたしたちが個人的に願っている救いというのは、小さなものかもしれません。わたしたちは、教会で聖書朗読と説教でみ言葉を聞いています。
そして、主は、わたしたちの祈りと賛美をお聞きくださると信じているのです。
わたしたち杵築教会においても、皆が一致した同じ幻を見ることができます。
主は、わがままなわたしたちの願い通りに約束を実現してくださるのではありません。わたしたちにとって最もよい形で、またわたしたちにとって一番良い時に約束を実現してくださる方なのです。
その約束を実現していただくために必要なことは、主にすべての権限をお委ねして、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と声を張り上げて叫んで生きることなのです。
それは、わたしの今回の転倒事故で顎の骨を骨折して口が開けられなくなっても、腹話術で出来るということを口腔外科の医者に教えていただて、今わたしが実践していることなのです。




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