ガリラヤへ行く(マルコ14:27-31) 20250824
- abba 杵築教会
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年8月24日聖霊降臨節第12主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
ゼカリヤ書13章7節~9節(旧約1493頁)
マルコによる福音書14章27-31節(新約92頁)
1.つまずく
前回読んだマルコによる福音書14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」と書かれています。賛美の歌が歌われて、過越の食事「最後の晩餐」が終わりました。主イエスと弟子たちは、エルサレムの東門から出てキドロンの谷を周回する下り坂をオリーブ山に向かったのです。
夜も更けてあたりは月明かりだけですから、足もとに注意しないとつまずいて転んでしまいそうな道です。27節で主イエスが、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と仰っています。その意味は、主イエスは、暗い道だから足もとの石につまずかないように注意しなさいと言っておられるのではありません。「つまずく」と言う言葉の原語の意味は、バランスを失うとか去っていくと言う意味です。
ここで主イエスは、旧約聖書ゼカリヤ書13章7節bを引用して、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだと言っておられます。羊は群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受けます。また、先導者である羊飼いに従う性質がとても強いので、羊飼いが打たれていなくなると、散らばされれて死活問題に直面することになります。
ゼカリヤ書では、主が羊飼いを打ち、羊が散らされるのですが、それは民の罪に対する主の怒りによることでした。しかし、主の怒りによって民を滅ぼし尽くしてしまうことが神のみ心なのではありません。その試練を通して、もう一度、まことの神の民が再結集させることが神の目的でした。
そのことに重ね合わせて主イエスが弟子たちに、これから十字架に架かられる自分を羊飼いにたとえて、羊である弟子たちが離散することを憂いてこのように語られているのです。
羊飼いである主イエスは、これから十字架に架かられて死にます。すると弟子たちが羊のように散ってしまう、弟子たちが主につまずく、離れていくことを案じているのです。そうした心配は、わたしたちの信仰の歩みの中にあっても、主イエスが見えなくなって信仰から離れて行く、教会から散ってしまうということはよくあることです。このたとえは、現代を生きるわたしたちへの警鐘なのかも知れません。
2.ガリラヤへ行く
28節で、主イエスは、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と仰っています。主イエスはここでご自身の復活についてはじめて話されたのです。羊飼いのいなくなった羊のように主イエスの十字架の死につまづいて去って行った弟子たちです。しかし主イエスは、弟子たちが再結集できるように弟子たちより先にガリラヤへ行くと告げられたのです。
主イエスは、先行する愛を示される方です。ここにおいても弟子たちを愛して導いてくださっているのです。ご自分が十字架に架かられた後に、弟子たちが主イエスにつまずいて去って行くことをご存じで、それでもなお御自身が復活されることをここで語られ、弟子たちの再結集を望まれていたのです。
「ガリラヤ」は、多くの弟子たちの出身地でした。主イエスに弟子として召され、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と神の福音を宣べ伝え始めた弟子たちの信仰のルーツとも言うべき所です。主イエスはガリラヤから、十字架に架けられるためにエルサレムに上ってきたのです。ですからここで、「ガリラヤへ行く」というのは、出発点に戻ることを意味する約束の言葉となるのです。これから主イエスの逮捕と十字架の死に遭遇する弟子たちが、つまずき、散らされてしまうけれど、主イエスは復活されてもう一度弟子たちと出会って下さることを約束されているのです。
29節には、「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。」と書かれています。それに対してイエスは30節で、『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』と言われています。主イエスは、すべてをご存じなのです。
31節には、それでもペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と、力を込めて言い張ったと書かれています。さらに弟子たちも皆、自分は主イエスにつまずくようなことはない、と断言したと書かれています。
勇ましい宣言をしたペトロや弟子たちは、この時本当に、死に至るまで主イエスに従って行くつもりだったのだと思います。しかし、いざという時になると、それができなかったのです。主イエスが捕えられる時には、彼らは皆、散り散りになって逃げ出しています。2頁後の94頁、14章66節には、「ペトロ、イエスを知らないと言う」小見出しが付けられていて、「三度わたしのことを知らないと言うだろう。」という主イエスの預言がすぐに実現したことが書かれています。
3.失敗から学ぶこと
この物語には、人間の弱さが表れています。心では決意していても、実際に命の危険に直面する中でそれを実行することはなかなか出来ないものです。わたしたちは、ペトロのつまずきを、人間の弱さによるものと受け止めがちです。確かにその通りですが、ペトロは主イエスの前で力を込めて語った言葉を実行する力や勇気が足りなかったからとか、もっと勇気や力を真に身に着けていればつまずきを乗り越えることができるとは、聖書は語っていません。
29節でペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言って言葉の背景には、ペトロの信仰における自分の勇気や力を誇っているように聞こますが、実は「わたしだけは他の連中とは違う」という思いでこの言葉を語っているに過ぎないのです。わたしたちだれにも、よくあることです。人と自分とを比べることによって、自分の力や勇気を確かめ、自分に何が出来るかを確認しようとするのです。確かに、わたしたちは、自分の力や勇気に依り頼んで、それによって生きていこうとすることによって大きな力を発揮することがあります。しかし、わたしたちの力や勇気には限界があります。自分の力を圧倒的に越える事態に直面したら、持ちこたえることができないのです。木の枝が突然ポキンと折れるように、私たちの勇気や力は折れて粉々に砕け散ってしまい疲れ果てるのです。
信仰をもって生きていく中でも、わたしたちはいろいろなことにつまずきます。何らかの苦しみや悲しみが襲って来てつまずくこともありますし、他の教会員と自分の考えが違うことや教会の方針にもつまずきを覚えることもあります。誰かの一つの言葉につまずくこともあります。つまり教会のなかにあっても人間関係につまずくのです。自分の勇気や力に依り頼み、自分にはこれが出来る、とこだわっているところからつまずきが生じるのです。
その原因は、往々にして自分の思いや力、自分に出来ることに依り頼み、それにこだわってしまうことにあるのです。神の恵みが自分の思う通りに与えられずに苦しみや悲しみが生じてつまずきます。
教会において自分の思いが通らないことでつまずき、人間関係において自分が傷つけられたと思う時につまずくのです。その原因は、良きにつけ悪しきにつけ自分へのこだわりにあるということです。
ペトロは、自分の信仰における勇気や力にこだわり、自分は他の連中とは違い最後まで主イエスに従うことができる、信仰者として自分の足で立ち続けることができる、と思い込んでいたので、つまずいたのです。つまり、自分の足でしっかり立っているし、立ち続けることが出来ると思っている人の方が、熱心さのゆえにつまずき倒れてしまうのです。わたしたちは誰でも、自分に対するこだわりを捨てることができません。自分を無にすることはわたしたちには出来ないのです。
人間の心というのは複雑なもので、「自分を無にして神のために、あるいは隣人のために尽くす」と決心した中にあっても、自分の力を誇り、自分の名誉を求め、つまり自分にこだわっているということが自然に生じるのです。謙遜であろうとすることによって実はその謙遜な自分を誇っている、それほど人間の心とはやっかいなものなのです。
人が本当に自分を無にしているのか、あるいは本当に謙遜に生きているのかは、その人の働きを見ても分かりません。その人が他の人のことを「あの人は自分を無にしていない」とか、「あの人は謙遜でない」と批判していたら、それはその人自身が自分にこだわっていて、人と自分を比べて誇ろうとしていることの現れです。本当に自分を無にしている人、本当に謙遜な人、つまり本当に自分へのこだわりから解放されている人は、実は自分は自分を無にすることが出来ず本当の謙遜からほど遠い者であることを知っているのです。そうすると、人のことを批判するのではなくて、多くの点で欠けのある人の働きを受け入れて、「ありがとうございますと」という感謝の言葉が出てくるのです。
主イエスが「皆わたしにつまずく」と言われ、ペトロが「わたしはつまずきません」と強い意志を込めて言いました。しかしこの意志は長く続きませんでした。鶏の鳴く時刻は明け方です。過越の祭が始まった金曜日の夜にはそういう決意を持っていたけれど、夜明け前までしかその決意は持たないのです。ペトロが、主イエスのことを知らないと言うと鶏が鳴き、別の場面で主イエスのことを再び知らないと言うと鶏が鳴きました。鶏が二度鳴く間に、主イエスのことを知らないと三度言ってしまうのです。
このように信仰に挫折した弟子たちは、自分の弱さを思い知らされて失意の中をすごすごと帰って行く所が、彼らの故郷であるガリラヤなのです。
そして復活した主イエスが、ガリラヤに先回りして弟子たちを迎えて下さるのです。
そのことは、彼らのつまずきを主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、彼らの罪を赦され、そして復活して永遠の命を生きておられるキリストとして彼らに再び出会って弟子たちを信仰者として新しく立てて下さるということを意味しているのです。
ペトロは、三度、主イエスを否定してしまうというつまずきを経て、それでも自分をガリラヤで待ち受けてくださっている主イエスの恵みに触れた時に、もはや自分の足で立ち、自分の勇気や力によって歩む者であることをやめました。主イエス・キリストに背負われて生きる者となったのです。
主イエス・キリストを宣べ伝えて殉教の死を遂げる使徒とされていったのです。
使徒たちの新しい歩みを支えているものは、自分の勇気や力ではなくて、ひとえに、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いの恵みなのです。
キリストの教会は、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって支えられているのです。
わたしたちは、主イエスによって支えられ、背負われているのです。そのことをはっきりと知ることによって、わたしたちはつまずきを乗り越えて歩んで行くことができるのです。
皆が、失敗をします。しかし再びガリラヤからやり直すことができる。これがキリスト者に与えられている大きな恵みであり希望です。キリスト者は失敗をしない人ではありません。失敗をします。罪があります。罪があることを認めている人です。常に悔い改めをしてやり直している。それがキリスト者です。
わたしたちはこの人生において多くのつまずきをするこがあります。所詮、風が吹けばすぐにどこかへ飛んで行ってしまうようなもみ殻のような者で、飛ばされると戻ってくることができない者です。
しかし主イエスはわたしたちに、「先にガリラヤへ行く」と言ってくださっています。わたしたちは、主が集めて下さる「ガリラヤ」から再び始めることができるのです。
そして今日も、この礼拝においてわたしたち一人一人と出会ってくださるのです。この地、この礼拝はわたしたちにとっての故郷ガリラヤなのです。
わたしたちの原点、この礼拝から新たな信仰者としての歩みを始めていくのです。


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