top of page
検索

キリストの光(マルコ14:66-72) 20250928

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年9月28日聖霊降臨節第17主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄


(聖書)

創世記4章1節~16節(旧約5頁)

マルコによる福音書 14章66節~72節(新約94頁) 

 

1.焚火(たきび)の「光」に照らされたペトロ

 

本日わたしたちに与えられたマルコによる福音書14章66節からの聖書箇所は、冒頭に「ペトロ、イエスを知らないと言う」と小見出しが付けられた、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と、主イエスによって予告されていたことが、主イエスが十字架にかけられるこの金曜日の明け方に実現した物語です。

 

主イエスがゲッセマネの暗闇の中で捕えられた時に、ペトロを始めとする弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。主イエスと一緒に捕えられた人は一人もいません。ところが、マルコによる福音書14章54節には、「ペトロ は遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」と書かれています。ペトロだけは、主イエスと少し距離を置きながら、祭司、律法学者、ファリサイ派など71人で構成されていたユダ人のサンヘドリンでイエスが尋問された後も、大祭司の屋敷までこっそりついて行きました。他の弟子たちのように、完全に逃げ去ることはしなかったのです。

 

 ペトロは大祭司の中庭に入り、下役たちと一緒に座って暖をとっていました。ペトロが中庭にまで入って、人々と一緒に焚火に当らずに一人で暗闇の中にいたらかえって周囲から不審に思われます。54節で「火にあたっていた」と書かれていましたが、マルコはギリシャ語原典で、「キリストの光」と同じφῶς(光)という言葉を用いて、「光にあたっていた」と書いています。他の弟子たちが完全に姿を消してしまったのに比べれば、ペトロは主イエスのことを慕って心配していたことになります。

ペトロは、自分が逃げてしまったことを後ろめたく思いながらも、キリストの光に従っていたことをマルコが表現しているのではないかと思います。

 

66、67節に、「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あ なたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』」と書かれています。

ペトロは、人々の間に紛れようとして焚火にあたっていたのですが、皮肉なことに、その焚火の「光」が「キリストの光」となってペトロの顔を照らし出して、彼が何者であるかが暴露されていくのです。

 

ここでは、一人の女中が「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた」と言っているだけです。「確かあなたもあの人と一緒にいたんじゃない?」といった軽い口調であり、ペトロをイエスの弟子の一人だと断定した言葉ではありません。ペトロを捕まえてつき出してやろうなどとは考えていなかったと思います。

ところが、女中のこのちょっとした言葉がペトロを動揺させたようです。

 

68節で、ペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言っています。「そうだ」とも「違う」とも答えず、「あなたが何を言っているのか分からない」と言ってはぐらかそうとしたのは、いかにも過剰反応です。

それから、庭の出口の方にペテロが出ていくと、鶏が鳴いたのです。鶏が鳴く夜明けになっていたのです。

 

2.否定し呪うペトロ

 

ペトロの態度に、この女中は疑いを深めました。ペトロを追って来て、69節で、「この人は、あの人たちの仲間です」と、周りの人々に言いました。その女中が「あの人たちの仲間だ」 と言ったことを、ペトロは明確に打ち消しました。つまり主イエスと自分の関係を否定したのです。

 

70節で、今度は居合わせた人々が、「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言っています。するとペトロは71節で、「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」と言うのです。呪いの言葉を口にしたというペトロは、いったい誰を呪ったのでしょうか。誰を呪ったとか、何を呪ったといったことは書かれていません。

 

 

より強い否定をしなければならない状況に陥っていますから、主イエスのことを呪って、周りの人たちにそのことを示すというのも、あり得そうな選択肢です。いずれにしても、こんな人は自分と関係がないと呪ったのです。

相手との関係を否定するということは、その相手を殺すことと等しいことです。ペトロは神を引き合いに出して、イエスなど知らないと宣言したのです。ペトロは、自分の身を守るためについ嘘をついてしまった、ということに止まらず、主イエスと自分との関係を、女中と居合わせた人々の前で、三度、完全に否定してしまったのです。

 

そして72節に、「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。」と書かれています。

主イエスが、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告されていたとおりのことが起こったのです。

 

3.「知りません」という言葉の罪

 

創世記4章のカインとアベルの物語を調べてみましょう。旧約聖書の5頁です。

聖書に書かれている人類の最初の殺人事件です。

3-5節で、「土の実り」を主のもとに捧げたカインは、が「羊の群れの中から超えた初子」を持ってきた弟のアベルとその捧げ物に目を留められ、カインとその捧げ物には目を留められなかったたことを「激しく怒って顔を伏せた」、と書かれています。そして8節で、「アベルを襲って殺し」ています。

 

9節で、主なる神が、「お前の弟アベルはどこにいるのか」とカインに尋ねると、カインは「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えています。

 

このカインの言葉は、ペトロの「そんな人は知らない」と言った言葉と相通じるものがあります。弟のアベルのことなど知らない、自分とは関係ない、と言っているカインは、すでに弟を殺しているのです。

 

ペトロも「イエスなんて知らない、関係ない」と言ったことと重なります。

主イエスを自分の世界から抹殺したことになると言っても過言ではありません。

この二つの物語から、わたしが学ばされたことは、「知らない」と言って、その場を逃れたとしても、主イエスと自分との関係を全否定せざるを得ないところに行き着くことになるということです。

 

勿論、ペトロが他の弟子たちと違って、すぐ主イエスのもとから逃げ出さなかったことにはペトロのせめてもの誠意が見られます。

しかし、そのペトロの行きついた先は、「そんな人は知らない」と、神かけての誓い始めた、というところなのです。せめてもの誠意を示そうという中途半端な気持ちで、主を自分の心の中にお迎えする信仰では、かえって危ないよ、と神が教えてくださっているのです。

  

4.ペトロの涙

 

ペトロが71節で、三度目に「そんな人は知らない」と誓い始めた時、すぐに再び鶏が鳴きました。すると、ペトロははっと我に帰ります。

「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と仰っていた主イエスの言葉を思い出して「いきなり泣き出した」のです。ペトロは、鶏の声によって、自分が三度主イエスを知らないと言ってしまったこと、主イエスとの関係を徹底的に否定してしまったことに気付かされたのです。

 

ペトロのこの涙には、とりかえしのつかないことをしてしまった後悔の思い、自分の弱さ、ふがいなさへの嘆き、挫折の悲しみなどが凝縮されています。ペトロの涙する心は、主の愛に包まれたのです。

 

ペトロは、それまで自分のことは自分が一番よく知っていると思っていたけれども、主イエスの方がよほど深く、正しく、ありのままの自分のことを見ておられたことをここに至って知ったのです。ペトロが自信満々の時にキリストと出会ったのではなく、むしろペトロが心底、自分のことが嫌になってしまう、絶望の涙を流すところで、真のキリストとの出会があったのです。

ペトロのことを、本人よりも深く知っておられる主イエスは、強がりを言いながら結局知らないと言ってしまう彼の弱さをも御存じで、 人々の裏切りの罪をも、全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。

 

 キリストの光は、単に私たちの罪を照らし出すだけの光ではありません。お前は駄目だ、呪われよという光ではなく、お前を赦す、もう一度主のまなざしの中でやってごらんなさい、と言ってくださる愛の光なのです。

 

ペトロが「知らない」と言って否定してしまった関係を、主イエスが新たに築いて下さり、彼を、主イエスを知っている者、愛している者、 主イエスのみ名を宣べ伝える者として立てて下さったのです。ペトロが後悔して泣いたから救われたのではありません。主イエスの十字架と復活によって、ペトロの涙は救いの喜びへと変えられたのです。

 

私たちも同じです。キリストはわたしたちを赦す「光」として、来てくださったからです。わたしたちもまた、信仰の試練に直面する時にペトロのように 神を呪い、主イエスを呪い、信仰者になった自分を呪い、共に生きている人を呪ってしまうことがあるでしょう。しかしそのようなわたしたちをも十字架と復活による救いの恵みのみ手の中に生きるようにと、主イエスはわたしたちを捉えて下さっているのです。

 

キリストの光に照らされて、その主イエスの恵みのみ手に気づかされる時、わたしたちは自分の罪に気付かされて泣くしかありません。

主イエスの恵みのみ手の中で、泣くことができるわたしたちは幸いなのです。その涙は、絶望ではなく赦されて新しく生きる希望をもたらすものとなるのです。


ree

 
 
 

コメント


〒873-0001

大分県杵築市296

☎0978-63-3300

《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

  • Facebook
  • Instagram
  • X
  • TikTok

 

© 2025 by 日本基督教団 杵築教会. Powered and secured by Wix 

 

bottom of page