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ゲッセマネの祈り(マルコ14:32-42) 20250831

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年8月31日の聖霊降臨節第13主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄

 

(聖書)

イザヤ書53章11節~12節(旧約1150頁)

マルコによる福音書14章27-42節(新約92頁) 

 

1.ゲッセマネの祈り

 

今日の説教では、主イエスが、イスカリオテのユダの裏切りによって捕らえられたゲッセマネの園にやってきたところになります。ゲッセマネという地名はアラム語で「オリーブの油搾り」を意味しています。当時は、エルサレム巡礼者たちが野宿をする場所となっていて、主イエスと弟子たちも度々集まっていた場所(ヨハネ18:2)です。現在も観光名所となっていて、樹齢2000年を超えるオリーブの木が残っています。

 

今日は、ドイツ人の画家ホフマンが描いた『ゲッセマネの園のキリスト』という絵と、現地にある主イエスの祈る姿の石のモニュメントの写真をお配りさせていただきました。

ホフマンの絵はゲッセマネの園のキリスト(メシア)が祈る姿を描いています。世界中の教会などに飾れられています。杵築教会でもずっと以前から礼拝堂に飾られていて、現在は故吉新治夫牧師コレクションの一つとして1階「すみれ」の部屋にあります。


ところで、2004年に公開されたメルギブソンの『バッション』という映画は、ゲッセマネでの主イエスの祈りの場面から始まっています。メルギブソンは、サタンを表現する大蛇と月の光の中で地面に平伏して祈る主イエスの姿を表現して、多くの人に感動と興奮を与えた作品です。教会にDVDがありますので「ばら」の部屋で鑑賞いただくこともできます。

今日の説教から、皆さんもわたしたちを愛してくださる神の愛にふれていただくために、まことの人イエスが十字架に架かられる直前のゲッセマネの園で苦闘された姿と神の独り子しての従順性を貫かれた姿を思い描いてくださるようお勧めしたいと思います。

 

マルコによる福音書14章27節をご覧ください。最後の晩餐を終えて、エルサレムの東門を出ると、ゲッセマネまでは1km弱の下り坂です。最後の過越の晩餐を終えて深夜になっていました。ゲツセマネに一同が到着すると、32節で主イエスは、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」と弟子たちに仰いました。それからペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、その奥の方へ入って行かれました。

この三人を選んで主イエスが行動されることはこれまでにも何度かありました。

 

マルコによる福音書5章40節で、主イエスが、会堂長ヤイロの娘に「タリタ・クム」(娘よ、起きあがりなさい)と言われて、その娘を死から復活させた時、その場には両親の他に、この三人の弟子だけが主イエスのそばにいました。

また、9章2節では、この三人だけを連れて主イエスが高い山に登られています。

この時、主イエスの服が真っ白に輝き、エリヤとモーセが共に現れて主イエスと語り合ったという出来事を目撃したのもこの三人の弟子でした。

こうしてみると主イエスは、重要な出来事の証人としてペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を用いているのです。


2.人間イエスの苦しみ

 

この晩主イエスと共にゲッセマネの園の奥の方に進んだこの三人の弟子が目にしたものは、人間イエスの苦しみの様子が色濃く出ているものでした。

33節に、「ひどく恐れてもだえ始めた」と書かれています。聞き慣れない言葉ですが、人間の魂が経験する最大の深い苦悩を表す言葉であると言われています。真の人として、イエスは、自分の十字架の死を前にしてひどく恐れてもだえ始めたのです。

 

メルギブソンも、映画の中でそうした姿を表現しましたが、聖書でも、ルカによる福音書22章44節(新約155頁)で、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と表現されています。血の滴るという表現は比喩的な言い方です。汗が滝のように流れたと考えれば良いと思いますが、それにしてもすごい表現です。

 

そして34節で、主イエスは、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と仰っています。精神的にも物理的にも自分の元から離れないで目を覚ましていることを弟子たちに求められたのです。

35節には、主イエスは一人で、少し先に進まれて、地面にひれ伏した、と書かれています。「ひれ伏した」という言葉は、ここのギリシャ語の原典では、ἔπιπτεν(倒れ込んだ)という言葉が用いられています。現在のゲッセマネの園にある石のモニュメントの姿です。

 

3.イエスの祈りの言葉

 

そしてまことの人、イエスの祈りの言葉が36節に書かれています。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」というものです。

 

「アッバ」は、当時のユダヤ人の家庭で、幼子が自分の父に向けて、深い信頼を込めて呼ぶ時に使う言葉で、「父ちゃん」といったニュアンスです。

ユダヤ人の唯一の神は、「在りて在るもの」と言われ、まさに大いなる神で、近づき難くて、見ることの出来ない偉大な方でしたから、当時のユダヤ人の祈りの冒頭では、神の偉大さを称える言葉を何重にも重ねて用いていました。

ここで主イエスが「アッバ」父よ、と祈ったことについて、ユダヤ人からすれば、神を冒涜していると揶揄されても仕方のないことでした。当時のユダヤ人社会の宗教的な慣習をひっくり返すような言葉だったのです。

 

取りのけてくださいと言った、「この杯」とは、文脈からすれば過越の食事、最後の晩餐の杯を指していると考えるのが自然です。神の裁きを意味する杯です。

本来、神に背いてきたわたしたちが受けなければならないものです。その裁きの杯を、主イエスは父なる神の御心に従って、わたしたちに代って飲んでくださるのです。

父なる神から主イエスに与えられていた使命は、神の裁きの中で、わたしたち人間が味合わなければならない悲しみや苦しみを、主イエスが代って背負ってくださることでした。

主イエスは、この苦しみの時が過ぎ去るように、この杯を取りのけてもらいたい、と父なる神に願っています。神の怒りの杯を飲むことは、この上なくつらくて苦しく、恐れもだえることなのです。この杯、つまり主イエスが直面している十字架の死の苦しみは、何でもできる力を持つ、父なる神だけが、取りのけることができるものなのです。

 

実際に過越の食事における「この杯」を主イエスが飲み干されたのは、イエスが十字架の上で息を引き取られた時となります。その時は、屠られた小羊、キリストによって杯の意味する「新しい契約」が神の側で整えられて御心に適うことが実現するのです。

弟子たちは、誰ひとりとしてこの杯を飲んではいません。

 

主イエスが十字架に架けられる直前のこのゲッセマネの祈りの言葉が、まことの人、イエスが死闘の中で祈られたこととし、今もなお多くの人に覚えられています。

心の整理がついたわけでも、心の底から主に従がう決心がついたわけではありません。苦しみを取り除いてもらいたい気持ちでいっぱいなのです。

しかし、あなたの思い、あなたの最善がなるように、あなたにお任せしますと祈るのです。そしてその戦いのど真ん中で、それでも神のみ旨が行われますようにと祈られたのです。


 この苦しみの杯を取りのけてもらいたいと父なる神に願い、それが苦しみの極限に至るものであっても、神の御心を受け入れ、それに従いますという、深い恐れと敬いをもって父なる神への従順を示す祈りなのです。自分の願うことではなく、父なる神の御心に適うことを行うことこそが、主イエスに与えられた使命でした。

地上に生命を受けたまことの人としてのイエスに与えられた使命は、十字架の苦しみと死、そして復活の道を歩んで、わたしたち人間の救いを啓示することにありました。そのためには、主イエス自らがこのような苦しみを経験しなければならなかったのです。それによってご自身の命をわたしたちの救いのためにささげる愛であることを、わたしたちに示してくださっているのです。それによってわたしたち罪人の救いが実現するのです。

 

4.目を覚ましていなさい

 

主イエスは、すこし離れた所にいた三人の弟子たちとの間を三度行ったり来たりします。主イエスはペトロに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と仰っています。この主イエスの言葉は、眠ってしまったペトロへの叱責の言葉ではありません。主イエスが祈るためにいなくなると、弟子たちは目を覚ましていることができずに眠っています。主イエスは、わたしたち人間の弱さをよくご存じなのです。


主は、聖霊の働きを私たちの体を用いて行われます。

 「心は燃えても、肉体は弱い。」とイエスさまが仰っているのは、聖霊が働こう、先に行こうとしても、わたしたち人間は、どうしようもない肉体の弱さを持っていることをご存知だからです。自分の肉体の弱さを覚えながら、聖霊の働きが我が身に降り注がれますようにと目を覚まして祈っていなさい、と言っているのです。主イエスは弟子たちに、共に神に祈り、主の御心に従おうとすることを共感することによってこそ、弟子たちは苦しみの中にある主イエスを支えることができると思っておられるのです。主イエスの悲しみ、苦しみとは、まさに弟子たちやわたしたちのための悲しみであり苦しみでしたから、弟子たちに傍にいっしょにいて欲しかったのです。


ところが37節に、主イエスが一人で少し先で祈って三人の弟子たちのところに戻ると、弟子たちは眠っていました。都合三度にわたり主イエスはお一人になって祈られますが、三度とも、弟子たちは眠っていたと書かれています。

そして40節には、弟子たちはひどく眠かった、瞼が重たくなった。弟子たちはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。と書かれています。

弟子たちは返す言葉が見当たらず、何も言い訳ができなかったのです。

これが弱い肉体を持つわたしたちの現実です。肉体はもとより、わたしたちにはどうしようもない弱さがあるのです。神さまは、わたしたちに語るべき言葉を語り、与えるべき賜物を与えてくださいますが、わたしたちは何を言うべきかを知らない、分からない、祈り続けていることができない者なのです。

 

5.立て、行こう

 

41節で主イエスが、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」と仰いました。そして42節で、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者(ユダのこと)が来た」と、まさに主イエスが、ご自身が自ら選ばれた12人の弟子のひとり、ユダの裏切りによって捕らえられて十字架に架かられる時が来たのです。

 

このときの主イエスの姿には、36節で「杯を取り除いていただきたい」と願われたときのようなものは微塵も感じられません。

その場から逃げ出すのではなく、ご自分から十字架に向かって行かれるのです。

それは、主イエスが神のみ旨を納得したからでも、理解したからでもありません。

ゲッセマネの祈りの中で、主イエスは信仰の確信を得たのです。

すべては父なる神が成し遂げてくださると、確信して、立ち上がられたのです。


主イエスの十字架とは、天の父なる神に従うという主イエスの自主的な判断でもありました。その生涯を通じて主イエスは、多くの苦しみを味わい、従順を学ばれて、すべての人々を救う使命を完遂されるのです。

「私たちのうちに何かあるから立ち向かえる」というのではありません。

祈りにおいて勝利して、「神が成し遂げてくださる」という約束に対する信仰だけで、主イエスは立ち上がって十字架に向かうことができたのです。



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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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