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ナルドの香油(マルコ14:1-9) 20250803 

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年8月3日聖霊降臨節第9主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄


 

(聖書)

出エジプト記12章21-36節(旧約112頁)

マルコによる福音書14章1―9節(新約90頁)  

 

1.過越祭と除酵祭の意味

 

マルコによる福音書14節からは。主イエス・キリストが、ユダの裏切りによって捕えられ、十字架につけられて殺される苦しみと死を語る受難物語となっています。1節に、「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。過越祭と除酵祭と二つの祭りが並べられていますので、出エジプト記からそれらはどういう祭りなのか、そして主イエスの受難とどのような関係があるのかを確認していきます。

 

出エジプト記2章23節b(旧96頁)に、「(過酷な)労働の故に助けを求める彼ら(イスラエルの人々)の叫び声は神に届いた」と書かれています。

人々の苦しみの嘆きを慈愛に富む主なる神が聞かれ、イスラエルの人々を顧み、御心に留められた(出エジプト2:25)のです。

そして3章10節で、主はモーセに、「今、行きなさい。わたしはファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命じられました。ファラオは、エジプト語で古代エジプト王を指す称号ですが、その語源は「大きな家」という意味です。

 

4章12節で、イスラエルの民に対する慰めと慈愛に富んだ主は、モーセに「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」と励まし、7章7節には、モーセがファラオに主の言葉を語ったときは80才であったと書かれています。

 

7章の14節から、主がナイル川の水を血に変えるという最初の災いをくだされたことが書かれています。しかしファラオの心はかたくなで、イスラエルの民のエジプトからの解放を拒みます。その後、次々と主は災いをくだされます。その都度、ファラオはイスラエルの民を解放を拒みます。

10番目の災いがくだされ、とうとうファラオがイスラエルの人々の解放を認めるに至ります。


出エジプト記12章29節に、「初子の死」と小見出しが付けられていますのでご覧ください。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。」と書かれています。そして「ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。」と言うのです。

すべてのエジプト人の長男と家畜の初子が殺されたというのですから、エジプト人の将来の夢も希望も何もあったものではありません。これまでの九つの災いとは別次元の災いです。

 

そのときモーセは、イスラエルの民に、小羊を犠牲として自分たちの手で殺し、その小羊の血を自分の家の戸口に塗るよう命じました。

22節に、「鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。」と書かれています。そして23節には、「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」と書かれています。その時の状況を目をつぶって頭の中で再現してみましょう。イスラエルの家の入り口には、鴨居と二本の柱に贖いの羊の血が塗られました。家の入り口には二本の柱が立っています。頭のすぐ上の鴨居と日本の柱は血の色で塗られています。まるで赤い二つの十字架がイスラエルの民の家の戸口に立っているように見えます。

 

このように小羊の犠牲の血が目印となって、イスラエルの人々は「初子の死」という10番目の災いから守られたのです。そのことを記念して、戸口に羊の血を塗り、その羊の肉を食べる祭りが「過越祭」なのです。すなわち、奴隷とされていたイスラエルの民を主なる神がエジプトから救い出してくださったことを記念する祭なのです。

26節には、この祭りの食事の席で子供たちが「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねるときには、親は「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と答えなさいとまで書かれています。こうして過越祭において、イスラエルの民の主なる神の救いの恵みの出来事として、親から子へと語り継がれていったのです。

 

過越祭に続いて七日間の除酵祭があります。パン種を入れない、つまり酵母を入れずに焼いたパンを食べるのですが、33、34節には、「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。」と書かれています。

酵母を入れてパンを発酵させる暇がないほど急いでエジプトを脱出したことを記念するのが除酵祭なのです。過越祭とセットでずっと続けられました。

 

2.祭りの中で

 

過越の小羊が犠牲となり、羊の血が戸口に塗られてイスラエルの民が災いから守られました。それと同じことが、いや出エジプトの出来事よりももっと決定的なことがこれから起こります。主イエス・キリストの十字架の犠牲です。

主イエスが、過越祭の日に十字架につけられたということは、主イエスこそがわたしたちのための過越の小羊となってくださったということを主なる神が強調されたのです。わたしたちの救いのために、主イエス・キリストが十字架に架けられて殺されます。主イエスの血がわたしたちの犠牲となって、罪人であるわたしたちの救いが行われたのです。

しかも主イエスの十字架刑を計画したのは、これらの過越祭、除酵祭を司る祭司長たちと、出エジプトによる解放の恵みに基づいてイスラエルの民に与えられた律法を研究して、それを人々に教えている律法学者たちでした。

神のみ心について最もよく理解し、それを人々に教えるべき人々が、神が遣わしてくださった独り子イエス・キリストを十字架につけることになるのです。

しかも民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう、と言っていた彼らを用いて、まさにその祭りの中で行われるようにされたのです。そして主イエスの選ばれた十二人の弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを引き渡す(裏切る)ことまで加わっているのです。


聖書のアイロニー(皮肉)に富んだ出来事のオンパレードです。すべては父なる神のみ心によることで、主イエスの十字架の死が、この祭りで記念されている過越の小羊としての死と同じ、いやそれ以上のすべての人々の救いであることを明らかにするためなのです。

 

3.ナルドの香油

 

14章3節には、一人の女性がやって来て、主イエスの頭にナルドの香油を注ぎかけたことが書かれています。ナルドの香油は、インドや東アジア原産の香油で、大変高価なものです。この女性はここで、主イエスの頭にその壷から高価なナルドの香油をいつものように数滴注いだのではありません。石膏の壷を壊してと書かれていますから、残った香油を他のことにも使おうなどという小じっかりした気持ちは全くありません。彼女の思いや願いの言葉はここには全く書かれていませんが、彼女が持っていた高価な純粋なナルドの香油全てを主イエスの頭に注ぎかけた、そのことに意味があるのです。

 

5節には、「これを売れば三百デナリオン以上になったはずだ」と、そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言ったことが書かれています。一デナリオンが当時の普通の労働者の一日の賃金ですから、一年分の収入に相当するものを一気にささげたこの女性の経済観念の無さを指摘したのです。

誰もがもったいないと考えたということです。それはある意味で正論です。

一年分の収入が一瞬で消えるのです。それだけのお金があれば、それを有効に使っていろいろなことが出来る。貧しい人々を支えるという善いことをすることができる。そんなふうに使うなんて無駄遣いだ、というのは、誰もが考えることです。そのような正論によってこの女性の行為を厳しくとがめたのです。

 

しかし主イエスは6節で、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました。

人々は、この女性のしたことにケチをつけているものでしかありません。

そのことを主イエスは7節で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と、言われました。8節には、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」という言葉で説明されています。

これは、主イエスがまもなく十字架につけられて殺されることによって彼らのもとから引き離されることを意識した言葉です。そう語ることによって主イエスは、彼女の愛と献身を、ご自分の十字架の死と結びつけ、そのご自分のための奉仕として受け止めてくださっていることを示されたのです。

 

人のしている神への献身的な奉仕にケチをつけて批判をすることは、残念ながら教会においてもよく起ることです。

あの人のあの奉仕はこういうところがなっていない、こういう配慮が欠けている、やりすぎだ、もったいないなどと欠点探しのこじつけが行われるのです。

確かに、そういう批判は正論で大抵当っています。何故かと言いますと、完全で全く欠点のない奉仕などあり得ないからです。人の奉仕のあら探しをしようとすればいくらでも出来るのです。この女性の純粋な心からの献身でさえも、見方を変えればこのような批判にさらされるのです。

 

ところが主イエスは、こうした批判に対して、「そんな批判は間違っている。この人の奉仕は正しい」と仰ったりはしません。「なぜこの人を困らせるのか」と仰っています。優しい言葉ですよね。ここが大事なところなのです。

主イエスは、「この人のしていることも、見方によってはいろいろな欠けもあるだろう、しかし、この人が心を込めて精一杯している奉仕を受け入れてほしい、そしてそれを共に喜んでほしい」と言われているのです。

 

主イエスの十字架の死は、神の独り子が、わたしたち罪人を愛し、わたしたちの救いのためにご自身を徹底的に低くして、仕えてくださった出来事です。

主イエスご自身が、わたしたちへの愛と献身と奉仕に生き抜いてくださったのです。神の独り子の命を犠牲にするアガペーの愛を示す出来事なのです。

 

わたしたちは、主イエスのこの愛と献身と奉仕に応えて、主イエスを愛し、この身を献げ、主イエスに仕えていくのです。それがわたしたちの信仰生活なのです。主イエスは、わたしたちの奉仕がどれほどつたない、欠けの多い、不十分なものであっても、十字架にかかって死んでくださることによってわたしたちに救いを与えてくださったのです。

ご自分の救いのみ業と結びつけてくださり、その救いへのわたしたちの応答としてすべてを喜んで受け止めてくださるのです。

 

最後の9節で主イエスは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃいました。

このみ言葉は、この女性の奉仕がいかに素晴らしいことだったかを語っているというよりは、主イエスが、ご自分の十字架の死による救いと結びつけられたことによって、一人の女性の自分に出来る精一杯のことをしようとした思いに対して彼女自身が思ってもみなかった大きな意味を与えてくださった出来事として取り上げられました。そして、今も全世界の教会においてこのナルドの香油の出来事として伝えられ賛美されているのです。


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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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