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ヨセフの使命(マタイ2:13-23) 20251228

更新日:1月15日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年12月28日の降誕節第1主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄


(聖書) 

ホセア書11章1節(旧約1416頁) 

マタイによる福音書2章13-23節(新約95頁) 



1.聖書の世界と現実の世界 

 

今日の聖書箇所には、主が「預言者を通して言われていたことが実現した。」という言葉を用いて、聖書の言葉が現実の中で実現したことが強調されて書かれています。聖書を調べながらご一緒に確認していきましょう。 

 

15節で「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」、17節で「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」、そして23節で「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と実に三回にわたって「預言者を通して言われていたことが実現した」と書かれています。

 

このことによって、マタイは、この現実の世界で過去に起こったこと、あるいは今起こっていること、あるいはこれから起こることは、聖書の中に預言の言葉として書かれていることを示しているのです。 まさに、聖書はどこか遠い世界の話ではなく、むしろ、聖書の世界という大きな円の中に、現実の世界がすっぽりと包み込まれてしまっていることを伝えているのです。 


今日の聖書個所では、一方で悲劇を語りながら、他方ではその悲劇のただ中に、救い主がお生まれになって成長されたことを語っています。

ヨセフとマリアは、幼子イエスを抱えて故郷を追われて、夜逃げのようにしてエジプトへ逃げなければならなくなりました。ヘロデ王が二歳以下の子どもたちを虐殺しています。権力のトップにあるものが、自分の権力維持に執着して、冷静さを失って自分の立場を危うくしかねない可能性のあるものを抹殺しようとする権力者の暴走が露呈している出来事です。


この後、ヘロデ王が亡くなると、イエスの家族はエジプトからイスラエルにもどりますが、そこは主が導いてくださった安全なナザレの田舎町でした。 これはすべて過去の出来事です。


その出来事の背後にあることは現在の出来事に通じるものでもあり、未来の出来事とも重なるものです。聖書は、こういう現実の悲劇的な出来事が起こる中で、悲劇の後に何が本当に実現したのかが書かれています。 

すべてのことが、神の壮大なシナリオの中で起こっていることを、神は教えてくださるのです。


2.新しい出エジプト

 

マタイは、2章1a節で、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」と書いています。エルサレムからイエスの生まれたベツレヘムまでは10kmほどの近そうで遠い距離です 


8節で、主イエスを拝みに東方から来た学者たちは、ヘロデから幼子イエスが「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」と、言われて送り出されました。 


共和制ローマの末期からローマ帝国の初期にかけてユダヤ王国を統治したヘロデ王ですが、権力者のおごりがあったようです。当然、ヘロデの求めに従って学者たちが、誕生した幼子主イエスの居場所を知らせてくれると思っていたのでしょう。


ところが、学者たちはそうはしていません。 

12節に、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」と書かれています。学者たちは、王の権威に従うことをせず、夢で告げられた神の言葉に従ったのです。 

 

ヘロデ王は、何よりも自分の権威と立場を守ることに固執していた人物です。ひそかに自分の地位を脅かしかねないこの幼子を殺してしまおうとたくらんでいたので、その目論見が外れて怒り心頭に達したようです。


13節で、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」と、言っています。

そして14節では、「ヨセフは起きて、夜のうちにすぐに従って、エジプトへ去ってヘロデが死ぬまでそこにいた。」と書かれていますから、ヘロデ王の存命中に主イエスは出会うことがなかったのです。 


さて、この出来事をどのように受けとめるのかということです。

15節には、「それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」と書かれていて、神のご計画にあったことだと言うのです。


「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言は、旧約聖書のホセア書11章1節(旧約1416頁)の、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」と書かれている箇所からの引用です。

エジプトでイスラエルの人たちは苦しい奴隷生活をしていました。その叫び声を神が聞いてくださり、奴隷生活を抜け出して自分たちの故郷に戻る、という出エジプトの出来事が背景となっているのです。


ヨセフが夢で示された逃げる先が、エジプトだったというのは、ユダヤ人にとって忘れることのできない出エジプトの救いの出来事がもう一度起こるということが示唆されているのです。主イエスもエジプトからイスラエルの道をたどられることになるという、イエス・キリストによる「新しい出エジプト」の救いが、まさにこれから起ころうとしているのです。 

 

それではイスラエルの人々は、その後、神の子らしく歩むことができたのか、というと、残念ながらそうではありません。神から離れ、罪を犯してしまうのです。それでも神は、もうお前は子ではないと突き放してユダヤ人を見捨てることはされません。 

ホセア書11節8b節で「わたしは憐れみに胸が焼かれる」、9節bで「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」と、愛なる神は言われるのです。 

 

2.ヘロデの男の子皆殺し事件 

 

マタイ2章16節には、学者たちに裏切られたことを知ったヘロデが激怒したと書かれています。 

ヘロデは、「ベツレヘムとその地域一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。」というのです。二歳以下の男の子を殺戮の対象にしたということは、ヘロデの地位を脅かす可能性のある者を確実に、念には念を入れて葬っておこうというヘロデの残虐性そのものが現れた、とんでもない悪魔のような命令を下したのです。

そしてこのことについても、17節で「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現するためであった。」と、神の御計画の中にあったこととして強調されているのです。 

 

そして18節には、「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから。」という、旧約聖書のエレミヤ書31章15節(1235頁)が引用されています。 

 

ラケルという女性を尋ねて、創世記29章9節(旧47頁)以降の聖書個所を抜粋しながら、説教を続けます。

アブラハムの息子がイサク、イサクの息子がヤコブ、そしてヤコブには十二人の息子がいました。ヤコブの十二人の息子は一人の女性から生まれたわけではありません。

 

当時は、一夫多妻が慣行でした。ラケルは、ヤコブがもっとも愛した夫人です。ヤコブは、ラケルと結婚させてもらうために、ラケルの父親であるラバンという人のもとで7年働きます。ヤコブは、ラケルが好きでしょうがなかったのです。7年働いてラケルと結婚できるのかと思っていたところ、父親のラバンから、先ず姉のレアと結婚してもらわなければならない、と言われました。 そのためヤコブは、ラケルと結婚するためは、さらに7年働かなければなりませんでした。 父親のラバンの計略によって、ヤコブは、姉のレアと結婚するまで7年、そしてさらに7年、足掛け14年ラバンの下で働かされたのです。


ヤコブと最初に結婚した姉のレアは次から次へと、ヤコブの男の子6人を生み、そして7人目には女の子を産みました。

ところが、妹のラケルからは、長いこと子が生まれません。それでも、ヤコブの十一番目の子としてヨセフ、そして十二番目の子としてベニヤミンが、ラケルの胎から授かりました。 こうしてイスラエルの12部族が誕生しました。ところが、ラケルは、ベニヤミンの出産の時に難産となって死去してしまいます。これが神のご計画なのです。


そのラケルの名が、エレミヤ書に出て来て、息子を失って嘆いている母親として登場しているのです。ラケルはベニヤミン出産の時に死んでいますので、実際には子を失う経験をしていませんが、確かにようやく授かった待望の子が、もし失われたとしたのなら、ラケルの嘆き悲しみというのは想像に難くありません。エレミヤはそのような気持ちから、嘆きのラケルとしてその名前を残したのでしょう。


このように、聖書には、ラケルの悲しみ、バビロン捕囚の母親たちの悲しみ、そしてヘロデによって息子を奪われてしまった母親の悲しみと、絶えることなく悲しみが続いて書かれています。 

 

3.ヨセフの使命 

 

今日の聖書箇所で主体的に動くのは主イエスの養父となることを受け入れたヨセフです。

しかしヨセフの言葉は、ひと言も聖書に残されていません。ヨセフは、聖書の中で、夢で五度も神からの言葉を聴き、ただ黙ってそれに従っています。 今日の箇所でも、幼子主イエスはヨセフに抱かれ、難を逃れました。19-21節が大切なメッセージとなっていますので、少し長くなりますがお読みします。


「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」「そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母親を連れて、イスラエルの地に帰って来た。」というのです。主に従うヨセフのリーダーシップが如何なく発揮されているのです。


そして、」22節b-23節では、「夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と書かれています。

 

神のご計画の中で、主イエスは、他の人の手を借りなければ生きていけない幼子として、わたしたちのところに来てくださいました。

そして、夢で告げられたことに従順に従う養父ヨセフのもとで命が守られて成長していきます。大工としての仕事もヨセフに習って始めたのでしょう。ヨセフが自分に与えられた使命をしっかり果たしている姿には頭が下がります。


主イエスは「ナザレのイエス」として、実際に人々の間に、わたしたちの間に宿られたのです。聖書には、その主イエスの生い立ちが、死と隣り合わせの中におかれていたことが書かれています。 しかし主イエスはここで殺されるわけにはいきませんでした。


すべての人々の嘆き悲しみ、罪、重荷を背負って、十字架で死ななければならなかったからです。このような嘆き悲しみを通り抜けて、主イエスはわたしたちの重荷を担ってくださったのです。


主イエスの歩む道は、明るい華やかな道ではなく、むしろ、いばらの道であり、悲劇の中でした。その中を主イエスは歩まれました。わたしたちの重荷のすべてが主イエスによって背負われています。 


神の言葉を聴くために、わたしたちに聖書が与えられていますが、聖書がわたしたちに伝えているのは、このことなのです。

主イエスに背負われていないわたしたちの現実は何一つありません。 神がご存じでないわたしたちの現実は何一つないのです。


わたしたちが様々な重荷を背負わなければならず、苦しみや労苦の中で、嘆き悲しみに置かれていると思う時には、わたしたち自身が主イエスによって背負われているのです。わたしたちの一番重い重荷を主イエスが背負ってくださっているのです。


そのことを覚えて、わたしたちが、兄弟姉妹の重荷を互いに少しでも担い合うことができますようにと祈ります。 


罪深い現実の中に生きているわたしたちが、聖書からみ言葉を聴き、どのように歩むべきなのかを聴き取り、この現実を歩む道を定めることができますようにと祈ります。  


 



 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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