主がなさったこと(マルコ12:1-12) 20250608
- abba 杵築教会
- 6月8日
- 読了時間: 8分
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年6月8日の聖霊降臨節第1主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編118編22-29節(旧約958頁)
マルコによる福音書12章1-12節(新約85頁)
1.たとえ話
主イエスのたとえ話は、目の前にある自然や人間の生活を題材に素朴な教えを話されているものです。たとえ話では、その場面の設定が行われ、登場人物も少数にして、主イエスの教えを聞き手に分かり易くする工夫がなされています。本日与えられたマルコによる福音書12章1~12節は、ぶどう園と農夫のたとえです。登場人物の「ある人」とは、ぶどう園の主人であり神のことです。「ぶどう園」は、わたしたちのこの地上、農夫は、この世界の管理者であるわたしたち人間のことです。
1節に、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」と、その場の状況が詳しく語られています。垣や見張りのやぐらがあって、盗賊や動物たちからぶどう園を守るための施設が整っています。酒ぶねがあって、ぶどうを足で踏みつける酒搾りがあり、その下にはしぼられた汁が流れ込む酒ぶねがあったというのですから、ぶどう園はすべてが整えられていたと書かれています。
当時は、主人不在で貸与するそのようなぶどう園が多かったようですので、このたとえを聞いた当時のイスラエルの人々は、しっかり整えられたぶどう園を神が農夫に貸し与えてくださったというこのたとえの設定状況がよく分かったと思われます。
2.主人と農夫たち
このぶどう園の主人は、全てが整えられたぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけました。レビ記19章25節には、五年目の果樹の実は、神の民が食べることができると書かれています。ぶどう園から、実際の収穫があって、ぶどう酒が造られ、利益をあげることができるようになるまでには五年の歳月が必要だと考えられていました。当時は律法に従って、小作料は5年目以降の果実の実から現物支払いをしていたようです。
2節の「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受取るために、僕を農夫たちのところへ送った」というのは、そのことが書かれているのです。いよいよこのぶどう園から収穫、利益が見込まれるようになった時に、主人は、小作料として自分の取り分を収穫の中から受け取るために僕を遣わしたのです。
ところが、農夫たちはその僕を、3節で、袋だたきにしています。4節では、頭を殴り、侮辱し、5節では、殴り、殺してしまいます。ここに書かれている主人によって農夫たちのところに送られた僕とは、神が送った預言者たちのことです。モーセもヨシュアもダビデも、預言書の中で僕と書かれています。農夫たちは、神から遣わされた預言者を受け入れず、送られた預言者を迫害して殺しました。当時の社会は、神の言葉が殺されてしまう状況でした。
そして6節には「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」と書かれています。愛する息子とは、主イエスのことです。ところが、農夫たちは、跡取りの息子を殺してしまえばぶどう園は自分たちのものになるとまで言って、息子を殺したというのです。このたとえ話では、神の愛する独り子までも農夫のところに遣わすという寛大さが語られています。ところが農夫たちは、自分たちに対する主人の愛を受け止めず、主人との正しい関係を建てあげることを拒絶しました。農夫たちは、主人の収穫からの正当な取り分をお返しすることを拒んだばかりでなく、ぶどう園を整えてくださり収穫の時まで待ってくださった主人に対する恩を忘れて、主人への恩を逆なですることをしたというのです。
3.主がなさったこと
9節には、「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」と、書かれています。農夫たちは、主人の愛する息子をも殺して、恵みと愛による主人の語りかけを拒否しました。主人と農夫の関係を回復する道は閉ざされました。
それから30年を経た紀元70年に、ユダヤ人の反乱を鎮圧するためにローマ帝国軍が投入されて、エルサレム神殿が崩壊されます。ユダヤ人の指導者たちは殺され、ユダヤの人々はエルサレムを追われ、各地に散らされました。このたとえにおける主の裁きは、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えることでした。エルサレム神殿崩壊後、イスラエルの地は、ほかの民族のものとなっていますから、この9節の言葉は、その歴史を踏まえて書かれたと、多くの学者たちが考えています。
10、11節では、旧約聖書詩編118編22、23節の「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」という言葉が引用されています。隅の親石とは、建物全体を支える土台の石、あるいはアーチの頂点に置かれて全体を安定させる石のことです。建築家がいらないと退けた石が一番大事な石になった、というように神の救いとはそのようなものであり、まさに人間の目には不思議な、驚くべき仕方で与えられる、というのです。
このぶどう園と農夫のたとえ話は、神がこの地を創造され、わたしたち人間を管理者としてくださり、独り子イエスをこの地に遣わされ、主イエスはわたしたち人間に裏切られて十字架にかけられて死に、三日目によみがえられて天に戻られたと言う聖書の記述と重なります。
わたしたちは、神の独り子主イエスを裏切って十字架につけて殺しました。
神がわたしたちに命を与えてくださり、神によって人生の場として整えてくださった地にわたしたちを導かれていることをわたしたちは感謝して受け取っていないのです。
神との良い関係に生きることを拒み、さらには自分の人生は自分のものだと主張して、自分が自分の人生の主人になって生きようとしているのです。
そうであるならば、神との関係を回復する道を閉ざされ、神の怒りによって滅ぼされたとしても仕方がないということになってしまいます。このたとえ話は、人ごとではではありません。わたしたちもそれと同じことをしてはいないでしょうか。
エルサレム神殿は、紀元70年に破壊されて石の山になってしまいました。
ところが、こんな石は要らないと捨てられた石が土台となり、隅の親石になって建てられたのが教会です。神がこのようにしてわたしたちに教会を与えてくださったのです。教会だけではありません、わたしたちの人生も、私たちが手にしている一つ一つも、神から与えられたものです。わたしたちもまた、彼らと同じ罪を犯している者です。しかしまさにその人間の罪を贖う主イエスの十字架の死によって、神はわたしたちのための救いの道を開いて下さったのです。
まさに、11節最後の「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」ことなのです。教会の歴史はこのような主がなさったことから始まったのです。わたしたちの目には不思議なことに見えるのです。
4.わたしたちの捧げ物
最後の12節に、彼らは、イエスが自分たちに対してこのたとえを話されたと気づいた、と書かれています。主イエスがこのたとえ話を話した相手は、主イエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と言った祭司長、律法学者、長老たちです。まさに、このたとえ話は、人々を救いに導くためではなくて、祭司長、律法学者、長老たちとの論争の中で、祭司長、律法学者、長老たちに向けて語られたものです。
神は、神の決められた時(カイロス)に、農夫に貸し与えたぶどう園からの実りの収穫を求められます。わたしたちは、ぶどう園の農夫と同じ立場にあります。神は、わたしたちを地球の管理者とされました。それでは、わたしたちはどのような地球の実りを神にお渡しすることができるでしょうか。自分のぶどう園には何の実りもないなどと考えてはいけません。
神が実りを付けさせてくださったものがあります。わたしたちは、その中から献げ物をすることが求められているのです。
わたしたちがぶどう園の農夫であったら、どのような実りを、主人である神にお渡しすることができるのでしょうか。神が実りを付けさせてくださったものの中から、わたしたちは感謝の献げ物をすることができます。実りが得られていなければその旨神にお話しください。実りをもたらしてくださる神に実りをもたらしてくださるよう神にお願いするのです。
わたしたちの祈りの中で、神の語りかけに耳を傾け、神の声にお応えてしていけば、必ず実を結ぶ信仰生活に導かれます。そうしてわたしたちは、神が備え与えて下さったぶどう園を、主が望まれる実を結ぶ畑にすることができるのです。自分が神から与えられている人生の中で、神の栄光を表す良い実を結ばせる主に礼拝する者へと変えられていくのです。
わたしたちの罪を赦すために、主イエスはわたしたちの罪を肩代わりして十字架に架かってくださいました。それが神のアガペーの先行する愛であり、今なお変わりません。
神に遣わされた独り子主イエスは、神から与えられた使命を果たされるために、エルサレムに来られたのです。そしてわたしたちの罪を贖うために、この後十字架に架かられます。
その信仰に従って、今日もわたしたちはこうして礼拝を捧げているのです。
わたしたちのくだかれた心が、神が最も喜んでくださるわたしたちの実りの捧げものなのです。

ものになるのです。
Comments