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祈り、聖書、くじ(使徒1:12-26)20260118

更新日:1月24日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年1月18日降誕節第4主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄


(聖書)

詩編16章5-6節(旧約845頁)

使徒言行録1章12-26節(新約213頁)


1.待ちなさい


新年に入り、使徒言行録の連続講解説教を皆さんと共に聞いていますが、1章4節に主イエスが、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と命じられたことが書かれていました。「前にわたしから聞いた」と主イエスが言われたのは、ルカによる福音書24章49節(新約162頁)で、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と弟子たちに約束されていたことを指しています。復活後の主イエスが、使徒たちと食事を共にしていたときに、「父の約束されたもの」と言って聖霊が送られることを待ちなさいと同じことを改めて命じられたのです。

待つことの大切さを学ぶべき聖書個所と言えるでしょう。


わたしはせっかちな性格で、何事につけて待つことは好きではありません。また、長く続いた社会人生活のモットーは、何事もスケジュール通り、いや計画した予定を少しでも早くクリアーすることでした。

ところが、キリスト教会の教師としての働きは、待つことが一番大切です。社会生活においては、これまでの計画P、実行D、点検Cというサイクルを重んじて効率的に物事を進めてきましたが、教会形成においては効率性を第一に求めるべきではないのです。


教会は、わたしたち神から招かれた者が神の声に聞き従って集う群れです。教会員のお一人お一人に、神さまが与えてくださった賜物と指名があります。それらを最大限尊重しながら教会形成をしていく必要があります。

一人一人を大切にしながら主にある一致を求めます。共にみ言葉を聞き、祈りながら、教会全体が聖霊に包まれて神に栄光をお返しするのです。

ですから(聖霊に覆われるまでは)「待ちなさい」というみ言葉は、杵築教会にとって教会訓となるべきものなのです。


蕉門十哲(しょうもんじってつの筆頭とも言える宝井其角(たからい・きかく)が、カッコーに似た美しい鳴き声をするホトトギスについて、『あの声で蜥蜴(トカげ)食らうか時鳥』と詠んでいます。宝井其角は、時鳥がトカゲのようなゲテモノを食べて、美しい声で鳴くことを例えに用いて、人や物事は見かけによらないことを表現しているのです。

時鳥(ホトトギス)について、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」と詠んでいます。天下統一した家康の性格がよく表れている句です。

そこから、戦国武将の織田信長なら「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」と詠むだろう。豊臣秀吉なら「鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥」となる、などと言われていますが、皆さんなら、どのように詠まれますか。


以前のわたしは、秀吉のように自分が鳴いて欲しいと思ったときにこそ、時鳥を「鳴かせてみよう」とする者でした。自分の力を過信して時鳥を鳴かせようとしていました。鳴かない時鳥を仲間外れにするのは、信長のように殺すことと変わらないかもしれません。特に伝道となると余計な力が入って、自分の力で周囲の人をクリスチャンにしようとしていました。そして、学生時代の友人や職場の仲間の大半の人からはスルーされました。


こんなわたしですが、教師になると、伝道にも時があることを知って、ようやく家康のような「鳴くまで待とう」と言うことを第一にしながら、さらにその先にたどり着いた気がしています。不思議です。それは、「鳴かぬならそのままでよい時鳥」というものです。それが、主が創造された善きものとして、時鳥をありのまま受け取り、まるごと愛してくださるキリストの心境です。


2.一つになって祈り、聖書を確認した


使徒たちが聖霊に覆われる出来事に遭遇するのは、この先、使徒言行録2章の「聖霊降臨」の出来事です。使徒たちは主イエスの言葉に従って待っていましたが、その間何もせずにいたわけではありません。


一つ目にしたことは、一つになって祈っていたことです。

13節14節には、エルサレムの「泊まっていた家の上の部屋に上がった。」、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」と書かれています。使徒たちは、主イエスに言われていた通りにエルサレムに戻って来て共に祈っていたのです。

マタイによる福音書27節5節で、「ユダは(血の代金だからと言われた)銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」と書かれていますから、この中には、ユダはもういません。


そして15節で、ペトロが、一つになっていた120人ほどの人々の中に立って、「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」と語りかけています。

ユダのことをわたしたちが評価するのは、とても難しいと思います。

いろいろな評価の仕方があります。

とんでもない裏切り者であり、まるで悪魔の手先のような人物であるという評価もあります。しかし他方でペトロが言ったように、ユダの裏切りがなければ、主イエスがあのような形で十字架に架かることがなかったわけですから、ユダもまた神によって与えられた人々を贖う、救済する役割を引き受けただけだ、と言った同情的な評価もできるのです。


わたしたちは、主イエスに従おうと思いながらも、他方で自分の中にユダ的なところがあることをきちんと認める必要があります。裏切るとまではいかなくても、他の弟子たちと同じように、主イエスを見捨てて逃げてしまう、主イエスを忘れてしまう、そんな思いが潜んでいるのです。


しかしペトロがここで言っていることは、ユダの評価ではありません。

ユダの裏切りという出来事を、前向き肯定的にどう受けとめるかです。

ペトロはここで、16節で、「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」と言っています。


ダビデの口を通して預言していた聖書の言葉が20節に書かれています。

前半の「その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。」は、詩編69編26節(旧約903頁)の「彼らの宿営は荒れ果て、天幕には住む者もなくなりますように。」という、ダビデが自分自身の敵に対して、神に助けを祈り求めた言葉です。

後半の「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」は、詩編109編8節(旧約951頁)の、「彼の生涯は短くされ、地位は他人に取りあげられ」からの引用です。

このように、ペトロたちは一つに集まって祈りつつ、現実に起こった出来事を聖書の言葉を用いて調べていたのです。


3.くじ引き(神の摂理)


その間に使徒たちがしていた行動が、21節-26節に書かれています。

ユダの後任を選出する、使徒の補充選挙です。

イスラエルは元来、十二部族でした。主イエスの弟子の人数も十二です。イスラエルの人たちにとって、十二という数字はかなりこだわりのあるものでした。ユダの裏切りによって、ユダが欠けて使徒が一人足りなくなって11人になっていましたので、使徒の欠員を補充する選挙をしたのです。


1章15節に書かれているように、「百二十人ほどの人々が一つになっていた。」というのですから、すでに教会が形成されていたのです。

そのうちどの範囲までが被選挙人の対象になったのかは分かりませんが、先ずは候補者を立てています。ペトロは、21-22節で「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」と言っていますから、ユダの後任の候補者選定条件は、a.イエスと共にいた人、b.残っている11人の使徒に加わって主の復活の証人となること、であることが告示されたことになります。


そこで人々は、23節で、(候補者として)ヨセフとマティアの「二人を立てて」います。それから、24-25節に、「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」と、祈った後に、二人のことでくじを引いて決めています。すなわち、先ず候補者を選ぶ基準と目的を明確にしたうえで、推薦候補者を二人に絞ったうえで、最後の決定にあたっては、くじを引いたのです。


ヘブライ語の「くじを引く」という言葉は、旧約聖書でよく用いられています。詩編16編5節(旧約845頁)のダビデの詩では、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」と書かれてます。


ここで「運命」と翻訳されている言葉=מְנָת(mə-nāṯは、「運命」とも「くじ」とも訳すことができる言葉です。くじの結果、運命が決まるという意味です。

嗣業の土地を決める場合、「くじ」が行われて「運命」が支えると考えて、「割り当ての地、受ける分」を決めたのです。


聖書の文脈に合わせて、そのように翻訳しているのですが、聖書の中で「くじを引く」とか、「運命」という言葉の意味は、「改めて神が定められた運命を人間が引く」ことによって神の摂理を知ろうとする行為のことなのです。日本語で「くじ」とか「運命」と聞くと、星占いに代表されるような神さまとは無関係なもので、神さまとは別の何らかの力を求めている行為を思い浮かべてしまうかも知れませんが、「くじを引く」ということは、可能な限りの準備を万端にした上で神の摂理を求めるということなのです。 

使徒たちが聖霊降臨を待っている間にした、祈り、聖書、くじという三つのことは、切っても切り離せない関係にあるもので、一つに結びついているのです。このように、わたしたちの行動は、祈りと聖書に結びついて、最後はくじを引くように、すべては神の節理の中にあることと受け止めて行うことが、大切なことだと示されているのです。


初代教会の使徒たちは、主イエスから「待っていなさい」と言われた中にあって、一つになって祈りをし、聖書を調べていました。そして神が必要とされた十二人の使徒のうちの一人の欠員を選ぶために、くじを引くことによって神の節理に従おうとしたのです。


わたしたちの信仰者としての歩みも、そこに重ねていきたいと祈ります。

まだまだ小さな群れですから、今は満足できる十分な行動をすることができないかもしれません。それでも一つに集まり、祈りと聖書を読むことは続けなければなりません。


くじを引くのは早計なのでしょうか。くじを引いて主の節理を求めるべき時なのでしょうか。わたしたちは、その準備はできているのでしょうか。


 


 
 
 

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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