
主の恵みを受け入れよう(マタイ1:18-25) 20251214
- abba 杵築教会
- 4 日前
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年12月14日待降節第3主日礼拝の黒田恭介牧師(由布院教会)による説教要旨です。
(聖書)
イザヤ書7章10-14節(旧約943頁)
マタイによる福音書1章18-25節(新約1頁)
(説教)
今年も、このクリスマスのときに、杵築教会にお邪魔させていただいて、ほんとうにありがとうございます。
去年も来させていただきましたが、それから考えると、あっという間に今年もクリスマスになった感じがいたしますが、今年は家族連れで、しかも今年は家族が一人増えましてですね、里子を連れてきましてですね、ちょっと由布院教会の礼拝のときには、礼拝の邪魔ばっかりしている里子ですが、今日もみなさんにご迷惑をおかけすると思いますが、あと、今日はうちの教会では創立記念礼拝でありまして、山本克己先生に、御言葉の解き明かしをしていていただいておりまして、山本先生も奥さんの智恵も元気でやっておられます。
ということで、今日の礼拝ではクリスマスについてのお話ということで、クリスマスの御言葉の中にもいろんな聖句がありますが、そして、そのいろんな聖句のそれぞれが、クリスマスというのがどういう意味をもった、記念の日であるか、ということを示しているように思いますが、今日は、マタイによる福音書1章の出来事から選ばせていただきましたが、この聖句は、あまり、クリスマスの聖句としては、それほど用いられる頻度が少ないかなあ、と思わされます。
一昨日が、うちの教会の敷地内に建っている聖愛こども園のクリスマス会で、例年、年長児が聖話劇ページェントを披露するんですが、その脚本の中には、今日の御言葉のシーンがないんですね。それは、まあしかし、当然といえるかもしれません、ちょっと子どもには、意味が分かりにくいところがあるかな、という気がいたしますが、しかしだからといって、今日の聖書箇所が、クリスマスの御言葉として、重要でないとか、意味がないとか、そういうことではありません。
今日の聖句の御言葉の重要な意味、神様の恵みを勇気を出して受け入れる、それは、聖書の中で重要な意味があるというだけでなく、クリスマスという記念の日の重要な精神の部分になっていると思います。
アガサ・クリスティーっていう、名探偵ポアロとか、マープルで有名な推理小説の作家の方がいらっしゃるんですがね、その方の短編作品で、こんなのがあるんですね。幼子イエス様が生まれた直後に、一人の天使がやってきて、その幼子の生涯の、ゲッセマネの祈りのところと、十字架のところを母マリアに見せて、ほら、この子はこんなにも厳しい人生を送ることになるよ、もし今、わたしにこの子を委ねることにしたら、この子は今すぐに天国にかえって、厳しい人生を歩むこともなくなるよ、といったのでした。
マリアは、本当に思い悩んだ末、この子に命を与えてくださったのは神様なのに、自分が勝手にそれを奪うことはできない、そういって、その天使の申し出を断ったのでした。その天使は、マリアのもとを去るや、怒りの表情で、ちくしょう、あんな馬鹿な女一人だませないとは、しかし、あの子が大きくなったらもう一度、罪に堕ちるように誘惑してやろう、と言ったというお話なんですね。まあつまり、この天使というのは、後々悪魔と言われている堕天使ルシファーだった、というオチなんですがね、しかし、母マリアが、こんなにも厳しい人生を送るとわかっている自分の息子の生涯を、自分の判断でやめさせるのではなくて、これも神様が与えてくださった命であると、受け入れるところは、クリスマスの精神である、受け入れる、というところに響くところがあるのかな、と思います。
人には、なかなか、自分が受け入れなければならないと思っても、受け入れることが難しいことも、たくさんあります。
それは、身近な苦手な人とかというばかりでなく、自分の身の上に起こる出来事とか、あるいは、自分の中にも、自分が受け入れたくないと思う一面があるかもしれません。しかし、そういうものも、実は、神様が恵みをもって与えてくださっているものかもしれません。
ちょうど、さっきのアガサ・クリスティの短編みたいに、自分がどうしても受け入れられないと思うようなものも、改めて、受け入れる心をもつ、それがクリスマスの精神であるかもしれませんですね。
ところで、今日の聖書の御言葉の中には、旧約聖書の預言の引用があるんですが、それは、1章23節のところで、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という御言葉ですね。
これは、旧約聖書に、こういう言葉があるんですね。救い主の誕生を預言した御言葉で、こういうのがあるんですが、その預言の実現が、今ここに起きているんだ。それはつまり、今も聖書で読みましたように、マリアが聖霊によって身ごもったということが、それだということなのですが、ちょっとその話をする前に、その引用のもとになった、旧約聖書の出来事を先にお話してみたいと思います。
その個所は、イザヤ書7章で、さっきちょっと一部だけを読んでいただきましたが、このお話の中心人物は、アハズ王です。
この時代は、すごく政治的に複雑で、いろんな事情が絡み合って、アハズ王は、2つの国から、攻撃されようとしていた、ということなんですね。
そのときの聖書の記述で「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」そういうように記されているんですが、そういうように言われる、アハズ王の心は、恐怖でどうにもならないような状況であったということができるでしょう。
ところがそこで、神様は預言者イザヤに、アハズに会うように言いました。
アハズ王には、上貯水池の近くで会うだろう、と言われました。
戦争では、水の準備が不可欠です。水がなくなったら、いくら強くてもそこで終わりですから、アハズ王が、貯水池にいって水の確認をしているのは当然でしょう。
つまり、預言者イザヤは、戦争の準備にいそがしいアハズ王をつかまえて、神様からのメッセージを伝えよ、と命じられたことになります。
神様は、預言者イザヤに、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」と言います。
神様を信じて動じないでいなさい、ということでしょう。
そして、このようにも言いました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」ということだったんですが、それに対してアハズ王は言いました。
「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」そういうように言ったんですね。
これを聞くと、アハズ王はずいぶん敬虔な王様なんだなと、思われたかもしれませんが、実はそうじゃないんですね。この人は、神様に頼ることをしないので、しるしを求めることを拒否したんですね。
それを、ただ単に「いやだ」というのもなんだから、しるしを求めることをしないという体裁を取り繕って断ったということなんですね。
実際、このアハズ王は、神様でなくて当時の大国アッシリアに助けを求めているんですね。
神さまよりも、地上の大国の方を信頼したということで、ところが、そのために、それからのちユダヤの国は、アッシリアに服属して貢ぎ物を強制されることになるんですが、結局そうやって、神様の恵みを、神様の守りを、受け入れなかった。このアハズという王様は、結局、この厳しい状況の中にある神様の恵みを、受け入れなかったんですね。そういう人だったのです。
イザヤ書7章14節で預言者イザヤは言いました。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
そういうように、君たちがそんなにしるしを求めないなら、神様が御自身がしるしを与えてくださる。若い女の人がみごもって、男の子を産むでしょう。その人は、インマヌエル・つまり、神様が共にいてくださる、という意味の言葉なんですが、そういうことを実現してくれる人だ、ということなんですね。
そして、それから、700年以上もあと、ある夫婦が、困った状況に直面していた。ヨセフという人は、まだいいなずけだった、マリアさんが妊娠してしまって、困っていたんですね。結婚する前に、妊娠してしまうということは、この当時では、絶対にあってはいけないことだったのでした。
まちがえば、姦淫の罪を問われて、石討ちの刑に遭ってしまうかもしれませんでした。
夫のヨセフは、そこで、ひそかに離縁しようと思いました。それは、マリアさんが嫌いになったからというよりは、むしろ、ひそかに離縁しておけば、マリアさんが恥をかかずに済む、罪を問われずに済む、と考えたからなのでした。ところが、そんなことを考えていたある夜、天使がヨセフさんの夢に現れて言いました。
マタイ1章11節で、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」そういうように言われました。
その夢から覚めて、ヨセフさんは、マリアさんを受け入れる決心をしました。大変な決断だったと思いますが、これらはすべて、神様が与えてくださった恵みなんだろうと思って、それに従うことにした、ということですね。
そして、聖書ではそのあとに、実はこの出来事は、旧約聖書の預言の実現だということの説明を、加えているのですが、22節で、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
マタイ1章13節 で、 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」ということで、これは先ほどから話しているように、もともとは、アハブ王のときに語られた預言です。
しかし、アハブ王は、困難な状況に際して、神様の恵みを受け入れませんでした。大国アッシリアの方を信頼しました。
そして、それは神の民に良くない結果をもたらしました。
一方で、ヨセフさんは、マリアさんのすべてを、神様の恵みと信じて受け入れたのでした。もちろん、受け入れがたい思いが大きかったでしょう。神様の恵みはいつも、当事者にとって、うれしく感じられることばかりではありません。それを受け入れるのに、忍耐や勇気を必要とするときがあると思います。ヨセフさんは、その部分を乗り越えて、インマヌエル、神様が共にいてくださることを信じて、マリアさんとお腹の中の子どもを、受け入れたのでした。
そのことは、まさに、今のわたしたちにも、クリスマスが、神様の恵みを受け入れる時だということを告げているのです。
わたしたちもこのとき、困難な中にあっても、その中にある神様の恵みを受け入れる心を持ちたいと思います。
れは、神様が我々と共におられるからです。
この我々のところに、自分自身の名前を入れてもいいし、自分が気にかけている誰かの名前を入れて言い直してもいいと思います。
わたしたちにも、神様は共にいてくださる。
神様がともにいて、わたしたちに、恵みを受け入れるように導いてくださいます。
今年のクリスマスは、そのことを心に留めたいと思います。
祈ります。




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