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信じた人々の群れ(使徒4:32-5:11) 20260329

更新日:7 日前

本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年3月29日受難節第6主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄               


(聖書)

詩編23編 1節-6節(旧約1099頁)

使徒言行録4章32-5章11節(新約220頁)

 

1.復活を証しする

 

使徒言行録には、生まれたばかりの教会の様子が生き生きと語られています。本日の使徒言行録4章33節には、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」と書かれています。主イエスの復活を証しすることこそが、使徒たちが聖霊によって大いなる力を与えられたことだったのです。

 

イエスの復活については、使徒言行録1章21,22節で、イスカリオテのユダの後任となる使徒を選ぶところで、「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって主の復活の証人になるべきです」とペトロが120人ほどの人々の前で「復活の証人」と言う言葉で語っています。また、2章32節のペトロのペンテコステの説教では、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」と同じように復活と証人という言葉を用いています、さらに3章15節のペトロが神殿での説教で「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」と、やはりここでも復活という言葉を語っています。

 

皆さんは、「教会は何を宣べ伝えているのですか」と訊ねられた時に躊躇なく、「主イエスの復活です」と答えられますか。もしそうでないとしたら、現在の教会の信仰が、ペンテコステに誕生した最初の教会の状況とは違ってきていることになってしまいます。わたしたちも自己点検してみましょう。

 

2.新しい命を生きる

 

教会は、主イエスの復活を宣べ伝えてきました。それは、主イエスが復活した奇跡が起ったことだけを語ったわけではありません。復活の前提には、主イエスの十字架の死がなければなりません。

ペトロは、主イエスの復活を語る前に、主イエスは神が遣わされたメシア、救い主であったのに、あなたがたはその主イエスを十字架につけて殺してしまった、と人間の罪を指摘しています。


主イエスの十字架の死は、一見、神に敵対する人間の罪が神に勝利したように見えてしまうものです。ところがペトロは、十字架の死は神の深い救いの計画が実現したもので、実は十字架の死は神の敗北ではなくて勝利だった、その勝利の現れとして神は主イエスを死者の中から復活させられたのだ、と語っているのです。

 

復活を語ることは、このように主イエスの十字架の死を語ること、すなわち神の救いのご計画の実現を語ることと結びついているのです。

つまり本当に復活を語るということは、復活だけを語るだけではすまないのです。

使徒たちが「主イエスの復活の証人」と自らを呼び、教会が主イエスの復活を宣べ伝えたと語られているのは、主イエスの復活によって、彼らの信仰が、生かされ、導かれ、力を与えられていたからにほかなりません。

 

復活された主イエス・キリストとの交わりこそが教会の信仰であり、その信仰がわたしたちの生き方を規定し、わたしたちの生活の指針になっているのです。わたしたち信仰者は、復活された主イエス・キリストと出会い、その主イエスと共に生きる者とされたのです。そしてそのことによって、それまでとは全く違う新しい生活、新しい人生、新しい命に生かされることを体験しているのです。

 

別の言い方をすれば、使徒たちもわたしたちも自分の復活を体験したのです。復活された主イエスと結ばれて自分自身も復活して新しく生かされた者たちの群れが教会なのです。聖霊が降って教会が生まれたということは、聖霊によって、わたしたちが復活された主イエスと結び合わされ、それによって新しい命を生き始めた人々の群れが誕生していく出来事なのです。

 

4章33節の後半に、「人々から非常に好意を持たれていた」とあります。同じようなことは2章46,47節に、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」と書かれています。

教会の人々が、復活された主イエスと結ばれることによって与えられた新しい命に生きる新しい生活は、周囲の人々から驚きと好意を持って見られる、新しい生き方だったのです。

 

3.心も思いも一つに

 

4章32節に、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と書かれています。

「心も思いも一つにし」ということが、全ての前提です。持ち物を共有する前に、まず心と思いが共有されていたのです。

神の独り子主イエスが、わたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、わたしたちの罪を贖い、赦しの恵みを与えて下さった、神の救いの恵みに共にあずかる信仰を共有したのです。すなわち、そのことを信じた人は、主イエスの十字架によって赦されなければならない罪人であることを受け入れたということです。お互いが罪人で、神に赦していただかなければ生きられないということにおいて、心と思いが一つになったのです。

 

そして34,35節に、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」と書かれています。これは、規則として義務化されていた、というのではなくて、信仰者の自発的な意志によることです。自分のものを、自分のものだと主張しないということは、自分の権利に固執せず、そういう権利の主張や損得にこだわる思いから解放されて、人のために、兄弟姉妹のために喜んで用いる用意があるということが書かれているのです。復活された主イエスと結び合わされて新しい命を生きる信仰者の新しさなのです。

 

「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」というのは、申命記15章4節(旧約305頁)の「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが」を意識した言葉です。教会には貧しい人もいたのです。しかし物やお金の分かち合いによって皆が支えられ、神の救いの恵みの実現を意味しているのです。みんなが経済的に裕福だった、ということではありません。

 

「それを売っては代金を持ち寄り」とあり、その説明として、財産のある者がそれを売って、その代金が献げられ、それが必要な人に分配されていたからだ、と語られています。「必要」の意味は、欠乏、欠け、乏しさです。つまり、財産を売って献金することは、教会の仲間たちの間に貧しい人、支えや助けを必要とする人がいるので、都度、皆が自発的に行なったということです。

ここには最初の教会の人々が、自分のものを自分のものだと主張する思いから解放されて、全く自発的に、仲間たち、兄弟姉妹のために喜んで自分の財産をささげ、分かち合って生きている、そういう姿が描かれています。そこに、復活された主イエスと結び合わされて与えられた新しい命を生きる、全く新しい生き方が現れ出ているのです。聖霊がわたしたちを生まれ変わらせるのです。

そのことが、最初の教会において起ったと使徒言行録は語っているのです。

主イエスを信じ、復活の恵みにあずかった信者たちが、新しくされ、自分の権利の主張から解放されて、自分に与えられているものを他の人のためにささげ、分かち合い、共有していく、という新しい生き方をしていったことによって実現したのです。

 

詩編23編には、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と書かれています。神が羊飼いとして、わたしたちを養い、守って下さるから、何も欠けることがない、乏しいことがない、という恵みの内に生かされるのです。

この神の恵みはどのようにして実現するのかということが、本日の聖書箇所に示されているのです。欠けることがない、乏しいことがない、貧しい者がいない、という神の恵みは、わたしたちの分かち合いによって実現していきます。復活された主イエスによって新しい命を与えられ、自分のものを他者のために献げ、分かち合っていくという具体的な新しい生活を生きていくことによって、詩編23編に書かれている恵みが実現していくのです。

 

4.アナニアとサフィラ

 

5章のアナニアとサフィラの物語は、土地を打った代金の全部だと偽って献金した話です。土地を売った代金の一部を、一部です、と言って献金することもできたのですが、一部を全部だと言ってささげました。それは、人間を欺くことではなく、神を欺くことでした。あの人はいくらしたから自分もこれくらい…、という思いがそこには働いているのです。それは、心から喜んで他の人と分かち合おうという思いではありません。自分の名誉や評判を得ることが目的になっているのです。そこでは、主イエス・キリストの十字架と復活による神様の恵みが共有されていません。復活された主イエスから与えられる新しい命がそこにはないし、その命を生きる新しい生活もないのです。わたしたちは、このアナニアとサフィラのような古い生き方から、主イエスの復活の命によって新しく生かされる、神の恵みに満たされた本当に魅力ある生き方へと、招かれているのです。

 
 
 

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