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呼び集める(マルコ13:14-27) 20250720

更新日:7月26日

本稿は、2025年7月20日の日本基督教団杵築教会での聖霊降臨節第7主日礼拝での説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄

 (聖書)

ダニエル書 12章 1節~13節(旧約1401頁)

マルコによる福音書 13章 14節~27節(新約89頁)

 

1.立ってはならない所

 

本日のマルコによる福音書13章14節では、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」と、いきなり物騒な言葉が出てきます。

旧約聖書のダニエル書は、終末を掲示している小黙示録と言われています。

12章11節に、「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日(三年半+30日)が定められている。」と、憎むべき者のことが書かれていて、それは、ユダヤのマカベヤ王朝が成立した紀元前167年の歴史的出来事のことを指しています。

 

ユダヤは、シリアの支配下にありましたが、シリアのアンティオコス4世エピファネスという王が、事もあろうにエルサレム神殿にギリシャの神ゼウスの像を立てました。異邦人の神の偶像がエルサレム神殿に置かれること自体が、主なる神への冒瀆行為であり、また、イスラエルの民への侮辱でした。そのためユダヤ人たちは反乱を起しました。そしてシリアを打ち破り、ユダヤの独立を獲得してマカベヤ王朝が成立したのです。

 

ダニエルが預言したことは、この出来事を指し示しており、神の民の苦しみが頂点に達する世の終わりにはそういうことがまた起ると預言したのです。続けてダニエル書12章12節では、「待ち望んで千三百三十五日(三年半と+75日)に至る者は、まことに幸いである。」そして13節には、「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」という希望の預言をしています。さらに75日間の苦難の日々を味合わなければならないけれども、その苦難の日々を通り抜けて必ずよき終わりが待ち受けている、と書かれているのです。

 

そして主イエスは、このダニエル書のエピファネスを「憎むべき荒廃をもたらすもの」と捉えて、この終末の「憎むべき破壊者」に対する警鐘を語られたのです。主イエスが仰った「立ってはならない所」とは、神のみが立つことができる場所です。そこに、神の支配を否定したものが立って、神であるかのように振る舞ってこの世を支配しようとするものを見るということは、尋常なことではありません。そのものとは、現代においては必ずしも個人の独裁者だとは限りません。ある思想や政策だったり、人々の意識だったりもするかもしれません。この社会を改革・改善し、より良い社会を構築して人々に幸福をもたらそうというのかもしれません。

 

ところが、そうしたことすべてが、人間の支配による思いから出た計画に立つもので、人間が神の支配の下にあることを忘れるならば破壊と荒廃を生み出します。人間は幸福になるどころか、苦しみが頂点に達することになるのです。そういう意味で、わたしたちが今味わっている苦しみは、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という、世の終わりの苦しみの先取りということになるのです。

 

2.逃げなさい

 

14節で主イエスは、「逃げなさい」と言われています。15-18節には、「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」と、逃げる時の細かな具体的なことまで語られています。

主イエスは、世の終わりの大きな苦しみに際して、とにかく「逃げる」ことが大切だと教えられています。何かを取り出そうとしたり、上着でさえ取りに戻ってはいけないというのです。

 

皆さんの中には、「逃げる」というのは、先週の「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節)という教えと矛盾しているのではないかと感じる方がおられるかも知れません。

「苦しみを耐え忍べという教えと苦しみに背を向けて逃げろという教えは、相入れないのではないか」、「苦しみを耐え忍ぶということは、希望を失わずに逃げずに踏み止まって苦しみと戦っていくことではないのか」、と思われるからでしょう。実は、ここに私たちの信仰の生活への大切な示唆があるのです。

 

聖書に書かれている歴史から学びましょう。主イエスの十字架の後、40年足らずして紀元七十年にローマ軍によってユダヤ人の反乱が鎮圧され、エルサレム神殿は破壊されました。その際、過激なユダヤ人たちは大要塞マサダで最後まで戦って命を落としましたが、一方で、ユダヤ人キリスト者たちは、主イエスのお言葉通りに逃げました。

大きな苦難というものは、人間の力ではどうしようもないのです。人間の力では立ち向かえないのです。キリスト者への迫害もそうです。しかし、むしろそこにわたしたちへの神の大きな恵みが示されることになるのです。逃げたキリスト者たちは、逃げた先でも忍耐をすることが求められますが、残りの者として神に用いていただくのです。

 

新約聖書コリント人への手紙第一10章13節には、

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と書かれています。皆さんもこのみ言葉を座右の銘にしてください。わたしはこのみ言葉に、何度も励まされましたし助けられました。

 

信仰を持って生きる人生には様々な苦しみが伴います。信仰の歩みは苦しみとの戦いの連続であり、そこには忍耐が必要です。耐え忍ぶことなしに信仰者であり続けることはできません。けれども、そのわたしたちが忍耐することによって救いがもたらされるというものではないのです。苦しみの頂点においては、わたしたちは逃げるしかないのです。

逃げなさいというのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということです。逃げる以外にないし、逃げてまた忍耐して残りのものとして、神に栄光をお返しするのです。

そして、18節の最後で「祈りなさい」という言葉で終わっています。

とても意味あることです。主イエスが、祈るように求めておられるのです。

 

3.神の助け

 

19節には、「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」と書かれています。

そして20節には、 「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」と、主なる神が、わたしたちのために苦しみの期間を縮めて下さり、神の恵みによってわたしたちは救われるというのです。終わりの時の苦しみが一年続くはずだったのを神が半年に縮めて下さった、ということに目を向けないようにしてください。ここで注目すべことは、神が苦しみの期間を縮めて下さったのは、神がご自分のものとして選んだ人たちのためにしてくださったことです。この神の選びの教えが語っていることはただ一つです。自分の力や努力や忍耐によって救いを獲得するのではなくて、わたしたちは、ただ神の恵みによって救われるのだ、ということです。

 

神の救いにあずかった人について、自分の中に救われるべき理由は何も見出せません。自分が他の人よりも立派だったり信仰が深かったりすることはないし、忍耐強いわけでもありません。神が自分を恵みによって選んで下さったからとしか言いようがない、と感じているのです。 自分は逃げることしか出来ない者だということを知っています。それが神の選びの教えです。わたしたちの救いは、「選び」という言葉で言い表すしかない神の恵みによって与えられるということが、世の終りの、誰も耐えられないような苦しみの中で明らかになるのです。

 

わたしたちは、救いの恵みをこの地上の人生において先取りして味わうことができます。世の終わりに明らかになることが約束されているその印として与えられているのが聖餐です。聖餐によってわたしたちは、主イエスの十字架の死によって既に成し遂げられている罪の赦しの恵みにあずかると共に、 世の終りに明らかになる完成する救いを先取りして味わうことができるのです。

 

大きな苦難は、聖書に記されている時代に起こったことですし、その後も歴史の中で繰り返されてきました。そして今の時代にも続いているのです。何も変わっていません。苦難があり、人々の混乱がある。なぜそのようなことが生じているのか、といえば、その根源にあるのが、立ってはならぬところに「憎むべき破壊者」が立っているからだと主イエスは仰っているのです。

しかし21、22節に、「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」と書かれています。


大切なことなので、ここでおさらいしておきましょう。

「憎むべき破壊者」が立ってはならない所に立つというあってはならないことが起こる、そのような苦難の時に遭遇したわたしたちがどうすべきなのかについて、主イエスは三つのことを言われています。一つは、逃げることと耐えることです。もう二つ目が、周囲の様々な状況に惑わされず安易に人を信じてはいけない、大事なことを見据えなさいということです。そして三つ目が、良き終わりを待つことです。これが最も大事なことです。そこにキリスト者とそうでない者との分かれ目がここあると言っても過言ではありません。良き終わりを待ち望んでいるかどうか、それが大きな、何よりの違いなのです。わたしたちの生き方が問われているのです。

 

4.呼び集めて下さる

 

世の終わりに明らかになる救いとは、主イエス・キリストによる救いです。

世の終わりの苦しみの頂点を経て、主イエス・キリストによる救いの恵みが実現し、完成するのです。

 

24-26節には、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」と書かれています。そして、27節で、「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」というのですから、再び来られる主イエスは、全世界から、選ばれた人たちを呼び集めて下さるということです。

 

まさに、わたしたちの救いとは、主イエスによって選ばれ、呼び集められることにあります。主イエスの弟子たちもこの後、主イエスが捕えられた時には逃げ去りましたが、復活した主イエスによってもう一度呼び集められ、最初の信仰者として立てられていったのです。

弟子たちと同じように私たちも、主イエスによって選ばれ、呼び集められることによって救いにあずかるのです。自分はこの「選ばれた人たち」の中に含まれるのだろうか、と不安に思う必要はありません。私たちは、現に選ばれ、呼び集められているからこそ、この礼拝の場に集っているのです。

 

今日もこうして礼拝を守る者とされていること自体が、主イエスによる選びの印なのです。わたし私たちを選び、呼び集めて下さっている主イエスが、世の終わりに再び来られる時にも、わたしたちを選び、呼び集めて下さるのです。わたしたちはそのことを信じて、この世を逃げなければならないときには逃げながら生き抜いて行くのです。

 

主はわたしたちに、世の終わりに向かう苦しみに対する、最後まで耐え忍ぶ忍耐力をも与えてくださるのです。

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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