地の果てに至るまで(使徒1:6-11) 20260111
- abba 杵築教会
- 1月11日
- 読了時間: 9分
更新日:1月13日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年1月11日の降誕節第3主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
詩編19編2-15節(旧約850頁)
使徒言行録1章6-11節(新約213頁)
1. 神の定めた時
使徒言行録1章6節に、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」と書かれています。それに対して、主イエスは7節で、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と言われています。皆さんは、弟子たちと主イエスの間で、いかにもかみ合っていないやりとりになっているように感じられるのではないでしょうか?
イスラエルのために国を建て直すということは、旧約聖書に預言されていたメシアが現れる時に実現すると期待されていた救いです。
ユダヤ人たちは長いこと国を失い、あるいは外国の支配下にあって真の独立をしているとは言えない状態に置かれてきました。
そうした状況の中で、イスラエルの人々は、救い主の出現によって自分たちの国をメシアの王国として確立するという願いをずっと待ち望んでいたのです。
ですから、弟子たちが主イエスの復活を体験して、主イエスが現にこうして生きておられることを知ると、今こそ自分たちの待望していた救いが実現するのではないかと思っても無理のないことです。
聖霊によって力が与えられ、主イエスを中心とした弟子たちの群れがイスラエルのために国を建て直す働きを開始する時となるのではないか、そして、死に勝利して復活された主イエスこそがまことのメシアで、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と考えたのです。
ところが主イエスは、弟子たちがイスラエルのための国の再興がもう間もなく実現すると期待を抱いていたことに水を差すような答えをされたのです。弟子たちは、イスラエルのための国の再興という救いがもう間近に迫っている、ということを前提に歩むべきではないし、そもそもそのようなことを弟子たちが考えること自体がおこがましいと言わんばかりです。
救いの完成の時期は神が決められることだから、それが今すぐにとか、もう間もなく起る、などということを考えることは、父なる神の権威を侵害することになるのです。
イスラエルの再興が何時実現するかは神が決めることで、あなたたちが考えることではない。正しい弟子のあり方は、今与えられている信仰生活において「いつ」ということは父なる神に委ね、主イエスに従う歩みを続けていきなさい。と主イエスは言われたのです。
この問答に込められている真実とは、主イエスが復活なさったことによって、神の救いが完成してしまうと考えるべきではないということなのです。神の救いのみ業はまだ継続していて先があるのです。弟子たちは復活された主イエスとの出会いによって、ハッピーエンドとなることを期待しているのですが、主イエスはそうではないよ、と言われているのです。
続く8節では、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と、主イエスは言われました。
彼らに与えられる使命は、主イエスの証人として働くことです。
主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道は、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道だと言うのです。
そのことをもう少し分かり易く申し上げれば、主イエスが復活されたことによってこれから実現していくべきことは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生だということなのです。
そしてこの後、使徒言行録2章でペンテコステの聖霊降臨の出来事として教会誕生の出来事が起こります。
すなわち、弟子たちが使徒として、主イエスの証人として派遣されていくこと自体が、イスラエルのための国の建て直しを意味しているのです。
弟子たちは、それは復活なさった主イエスがして下さることだと思っていましたが、主イエスはそのことを弟子たちに使命として与え、委ねようとしているのです。
8節の主イエスの言葉は、使徒言行録全体の予告と言えるものです。
神が主イエスによって打ち立てて下さる新しいイスラエルの国、即ち教会は、異邦人を巻き込みつつ、全世界に広まっていくものです。
この世の中の論理で教会が必要だとか、諸宗教のうちの一つとしてのキリスト教が必要だとか、そういうことではないのです。
神が必要だからこそ生まれたのが教会なのです。教会は人間の業ではなく、神の業です。神が必要だからこそ始められたものです。
その最初の歩みが、使徒言行録に記されているのです。
そして現在のわたしたちの教会の歩みも、このときのことが出発点となって、以降ずっと途切れることなくつながっているのです。
2.世界の果てに至るまで
詩編19編2-5a節には、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」と、神の言葉が全地に、世界の果てに向かって行くことが預言されています。
続く5b-7節では、「そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。」と、明るく情熱ある勇士が天の果てから果てまで、出ていく姿が描かれています。
「太陽の幕屋」とは、テントのことです。「天蓋」とは、貴人の寝台や王座、祭壇などの上方に設ける覆いのことで、やがて花婿、花嫁の寝台を指すようになりました。
そこから「勇士が喜び勇んで」道を走る、と書かれているのは、パレスチナの地において、太陽が東の陸側から出て、西の海側に沈んでいくことを表現しています。パレスチナの地の西には地中海が広がっていますが、東の方角はずっとアジアまで陸地が続いています。ですからパレスチナの日の出は陸地からで、朝、太陽は東の陸の方からから上ってきます。そして、「その熱から隠れうるものはない」と表現することによって、太陽の光と熱を神の恵みとしてすべてのものが浴びているように、神の言葉が東から西の世界の果てまで広がっていく様子が語られているのです。
詩編19編では、抽象的な表現にとどまっていて、具体的にどのような手段で神の言葉が広がっていくのか、ということまでは書かれていませんが、教会の業が始まり、教会が各地に建てられることによって、神の言葉も広がっていくのです。
神の意志が働き、教会が建てられ、神の言葉が広がっていくのです。
使徒言行録の後半では、使徒パウロの伝道物語が書かれています。
パウロは伝道旅行を何度もしています。各地をめぐり、精力的に多くの教会を建てていきました。最終的には、西方のローマへ行きましたがさらにその先を考えていました。
パウロは、ローマ信徒の手紙15章24節(新約296頁)の中で、「イスパニアへ行くとき、それをかなえたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。」と言っています。「イスパニア」とは、スペインのことですから、当時のローマ帝国で西側の最果ての地「イスパニア」まで、パウロの宣教の視野に入っていたことが分かります。
9章には、主イエスが昇天された様子について、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と書かれています。
そして、10-11節には、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」と、書かれています。
弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。
するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。天に上げられていた主イエスは、またおいでになるのです。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。
天使がここで使徒たちに告げているのは、再臨の時のことです。
その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成します。
教会は天と地がつながった場所として、この世の中に建てられています。使徒たちは天を見上げて、教会の歩みを始めました。教会はこの世とつながりをもっていますが、天ともつながっているのです。 主イエスの昇天と再臨、その二つの時を、教会が結んでいるのです。神がその二つの時の間を教会が結ぶことを望まれたからです。
天と地が教会において結ばれているのです。
この間、わたしたちは、主イエスの姿をこの目で見ることはできません。主イエスは天に昇られ、わたしたちの目からは隠されているからです。しかしこの間、わたしたちは聖霊の助けを受けて歩むことができます。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨との間の歩みです。
わたしたちには、復活された主イエスの証人として、主イエスのことを地の果てまで証しし、宣べ伝えていく命と力を与えられています。
その教会に連なって生きるわたしたちは、目には見えないけれど、復活して永遠の命をもって生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができるのです。
そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見える姿で来られ、そのご支配があらわになって、わたしたちの救いが完成することに究極の希望を置いて歩むことができるのです。
それが、神が始められた教会の業となっているのです。
教会のこれまでの歩みがそうだったように、これからも同じことなのです。
わたしたちも使徒たちのように天を見上げて地に足のついた歩みをさせていただきたいと祈ります。み言葉を聴き続けて主から離れず、主に信頼して歩ませていただきましょう。




コメント