天の雲に囲まれて来る(マルコ14:53-65) 20250914
- abba 杵築教会
- 9月14日
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更新日:9月20日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年9月14日の聖霊降臨節第15主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
ダニエル書 7章 13節~14節(旧約1393頁)
マルコによる福音書 14章 53節~65節(新約93頁)
1.不利な偽証
本日わたしたちに与えられたマルコによる福音書14章53節の冒頭には、「最高法院で裁判を受ける」と小見出しが付けられています。最高法院とは、ローマ帝国支配下で属国となっていたユダヤにおける最高裁判所です。しかも、宗教的・政治的自治組織(ユダヤ議会)でもあり、同時に警察権まで持っていました。ヘブライ語ではサンヘドリンで、メンバーは、祭司たち、律法学者、ファリサイ派の長老たちで構成された71名でした。
金曜日の過越しの晩餐会を終えて、一同はゲッセマネの園に着きました。深夜になっていたでしょう。
ユダの裏切りによって主イエスが捕らえられる時が来ました。主イエスがいえすが捉えられると、すぐにサンヘドリンでの裁判が始まっています。53節には「皆集まって来た」と書かれています。真夜中に主イエスの逮捕劇があり、サンヘドリンに真夜中にメンバー全員が集って来たというのは、尋常なことではありません。彼らは一刻も早く秘密裏に事を運びたかったのです。
彼らは、主イエスを亡き者にしようとしていたのですが、ローマの属国であるユダヤ人のサンヘドリンには、死刑判決を言い渡す権利はローマから与えられていなかったのです。そのため、先ずは自分たちのサンヘドリンで死刑判決をローマに求めることを決めて、それからローマ帝国のユダヤ地方総督ピラトの下にイエスを連れて行く手順を踏む必要があったのです。ユダヤ地方総督であったピラトからローマへの反逆罪として死刑判決を受けてからでないと十字架刑の執行は許されていなかったのです。
わたしたちは、こうした政治的、法制上の事情をふまえた上で、統治国ローマのユダヤ地方総督ピラトの名前を用いて「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」と使徒信条で告白しているのです。
ところで旧約聖書の申命記19章15節(旧311頁)には、裁判で人を有罪にするためには、二人ないし三人の複数の一致した証言が求められることが書かれています。
ところが、マルコによる福音書14章55節には、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」と書かれています。そして56節には、「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」と書かれています。
イエスを死刑にすることが、彼らの既定方針でした。それを正当化する証言を集めようとしたのです。もともと事実とは異なる偽証ですから、語る人によって証言が違って来るのは当たり前です。彼らには正義がなかったので証言が一致しなかったのです。彼らの証言によっては、主イエスの有罪を確定することは出来なかったのです。
そのときの偽証の一つが58節に書かれています。
「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造られない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」と言うものです。かれらは、この偽証をでっち上げていたのです。主イエスがエルサレム神殿を冒瀆した、ローマへの反逆罪だと言うのです。
確かに主イエスは、マルコによる福音書の13章1節以下で、神殿の宮清めの出来事で、エルサレム神殿の崩壊を予告していました。また、ヨハネによる福音書2章19節では、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と、主イエスが言うと、ユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言っていたということが書かれています。
ここで主イエスが言われた、崩壊する神殿とは、御自分の体のことでした。
主イエスは、ご自分が十字架にかかって死んだとしても、三日目に復活することによって、主イエス・キリストの体が新しい神殿として立てられることを語られていたのです。新しい神殿が立てられるということは、神と民との間に新しい関係が打立てられて新しい礼拝がなされるようになるということです。
その新しい関係とは、神が父として私たちを愛して下さり、神の子とされたわたしたちが神を父として愛して生きる、という父と子の新しい関係です。
主イエスは、この新しい礼拝に生きる新しい神の民の群れを築くために この世に来られたのです。
主イエスの体である新しい神殿であり、新しい礼拝に生きる群れ、それは教会です。
キリストの体である教会においては、主イエス・キリストご自身が大祭司となって、父なる神と子なるわたしたちとの間を執り成して下さるのです。主イエスの十字架の死と復活によって、そのような新しい別の神殿が打ち立てられると、主イエスは語られたのです。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、主イエスがこう言われていたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉を信じました。
ところが、祭司長たちには、エルサレム神殿への冒瀆としか聞こえなかったのです。
彼らの怒りは、表面的には神への冒瀆に対する怒りであり神のための怒りのような体裁を整えていましたが、実は、エルサレム神殿の祭司としての、ユダヤ人たちの宗教的指導者としての自分たちの立場や地位を守ろうとする思いから出ていたものなのです。彼らの地位が守られ、権威が保証されるのは、エルサレム神殿があってこそです。神殿の崩壊を語る主イエスへの彼らの怒りは、神のためという表向きの言葉で覆い隠されていますが、実は自分たち自身の利害のためだったのです。
人間が自分たちの利害を優先するということは、この社会においていやという程あります。
新しいことに対して、もっともらしい表向きの理屈をいろいろあげて拒み、自分が変わることや変えられることを拒むことが多いのです。わたしたち信仰者の生活においても起こることです。その時わたしたちは、祭司長、長老、律法学者たちと同じ過ちに陥っていることに気付かされるのです。
61節に「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」と書かれています。主イエスは、ずっと沈黙を貫かれました。それでも事は進んでいきます。何も答えようとしない主イエスに対して苛立った大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問いかけています。ほむべき方の子という言い回しは、ユダヤ人は神の名を直接口にしてはいけない習慣があったことから、大祭司は神のことを遠回しに「ほむべき方」と言っているのです。彼らの偽善と恐れの姿が現れている言葉です。平たく言えば、大祭司は、「お前は神の子、メシア(救い主)なのか」と問いかけているのです。
2.天の雲に囲まれて来る
主イエスは偽証に対しては口を閉ざされていましたが、ようやく62節で、大祭司の発したこの決定的な問いに対して、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」とはっきり答えられました。
「そうです」という単純な言葉ですが、新しい翻訳の協会共同訳聖書では「私がそれである」と訳されています。主イエスの決意が表れている言葉です。そして改行されて、一行開けて主イエスは、自分が天の雲に囲まれて再臨されることを宣言しています。
これまで 主イエスは、ご自分が神の子であるメシア、救い主であることを、弟子たち以外の人々の前で宣言されたことはありません。ところが、逮捕され、有罪とされ、死刑にされようとしているこの時に、ご自分が神の子であることをはっきり語られました。そして主イエスが神の子である、と語ったその答えによって、主イエスの有罪は確定し十字架につけられることになるのです。
主イエスご自身が、「わたしは神の子であるメシア、救い主だ」と、はっきり宣言なさったことが決め手となって主イエスは十字架につけられたのです。人々の偽証や中傷によるものではありません。
この主イエスの答えには、旧約聖書の言葉が引用されています。
前半の「人の子が全能の神の右に座り」というのは、詩編110編1節(旧952頁)のダビデに語られた主の御言葉です。後半の「天の雲に囲まれてくるのを見る」というのは、ダニエル書7章13節(旧1393頁)のダニエルの見た一つの夢からの引用です。当時のユダヤ人にはピンと来る言葉でした。
ダニエル書7章の冒頭(旧1392頁)には、「四頭の獣(けもの)の幻」と小見出しが付けられています。ダニエルの見た幻に出て来る四頭の獣は、地上に起ころうとする四人の王である(17節)と書かれています。つまり、四人の王によって、人々がひどく苦しめられます。そして、その苦しみから救ってくれる救い主が現れるのです。13節に「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」と書かれています。そして27節には、「天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」と、書かれているのです。
主イエスは、ダニエル書の言葉をもって、主イエスが罪深き苦しみの世に、神の子として、救い主メシアとして来られることを語られたのです。それが主イエスがどうしてもこのときに話さなければならない重要なメッセージなのです。
今日の聖書箇所では、特に主イエスを裁こうとする人たちの罪が如実に浮き彫りにされています。
罪とは、神を拒否することです。神が自分の近くに来られたけれども、祭司長、長老、律法学者たちは拒否したのです。正しい方である神がおられると、自分が正しくないということを認めなければならなくなって、困ってしまうのです。この裁判は不当な裁判でした。しかし不当な裁判の結果、主イエスは、不当にも多くの人の罪をその身に負うことになりました。この方が救い主として、わたしたちの罪を背負って死んでくださったことによって、わたしたちの救いが実現したのです。
主イエス・キリストを信じるとは、主イエスがこのわたしの罪を背負って身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことを信じることです。そして、その信仰によって自分が死に価する罪人であることを示され、また、主イエスが十字架にかかって死んで下さることによってその罪を赦して下さったことを示されて、その救いに感謝して生きる者とされるのです。
主イエスは、いつかもう一度、天の雲に囲まれて来られます。
神としての権威と力を帯びてこの世に来て下さるのです。
その時には、主イエスが神の子、救い主であられることを、全ての人が見るのです。
その時わたしたちは、主イエスの復活にあずかり、永遠の命を生きる者へと復活します。主イエスが栄光をもってもう一度来られる時に、わたしたちも復活の命を与えられ、永遠に主と共に生きる者とされるのです。それがわたしたちの救いの完成です。
主イエスは、その救いの完成を約束して下さっています。
およそ二千年前の主イエスの十字架の死によって与えられた救いは、現在を生きるわたしたちを支え、力づけてくれます。そして、わたしたちの人生の終わりである肉体の死を越えて、この世界の終わりにおける救いの完成にまで及んでいくのです。

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