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御心に適うこと(マルコ14:32-36) 20250921



本稿は、日本基督教団日出教会における2025年9月21日の聖霊降臨節第16主日礼拝説教説教要旨です。 金森一雄(杵築教会伝道師)



(聖書)

創世記32章27節(旧約56頁)

マルコによる福音書14章32-36節(新約92頁) 

 

1.ゲッセマネの園

 

今日与えられました説教箇所マルコによる福音書14章32-36節は、「一同はゲッセマネという所に来ると」と言う言葉で始まっています。ゲッセマネは、エルサレムの東門から1kmほどの距離で、オリーブの群生するオリーブ山の麓にありました。ゲッセマネと言う地名は、アラム語で「オリーブの油搾り」という意味です。主イエスと弟子たちの一行は、参拝客でごった返すエルサレムから少し離れて静まることのできるお気に入りの場所となっていたようです。ヨハネによる福音書18章2節には、主イエスが「弟子たちと共に度々ここに集まっていた」と書かれています。

 

ゲッセマネに到着すると、主イエスは、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」と弟子たちに仰いました。

それから33節には、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、ゲッセマネの奥の方へ入って行かれたと書かれています。

 

主イエスが、この三人を選んで行動を共にされることは、これまでに少なくとも二度ありました。マルコによる福音書5章40節では、主イエスが、会堂長ヤイロの娘に「タリタ・クム」(娘よ、起きあがりなさい)と言われて、この娘を死から復活させた時でした。主イエスと娘の両親ヤイロ夫妻の他には、この三人の弟子だけがその場にいました。この三人の弟子だけが伴っていた二度目の出来事と書かれているのは、9章2節で、主イエスが高い山に登られて、主イエスの服が真っ白に輝いてイエスが変貌された時です。ペトロとヤコブとヨハネの三人だけが同行していました。残りの9人の弟子は、山の下にいました。このとき、この三人の弟子は、エリヤがモーセと共に現れて主イエスと語り合った出来事を目撃しています。主イエスは、奇跡のような重要な出来事の証人としてペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を重用しているのです。その三度目の出来事が、ゲッセマネの園でこれから始まろうとしているのです。

 

2.人間イエスの姿

 

当時のユダヤ歴では、夕方になって日が沈むと一日が始まっていました。この日は、特別な金曜日です。過越しの食事、いわゆる最後の晩餐から始まっています。食事を終えて深夜の12時過ぎにはゲッセマネに着いたと思われます。これから、ゲッセマネの園において主イエスはユダの裏切りによって祭司長、律法学者、長老たちに逮捕されます。そして、明け方に鶏が二度鳴くまでにペトロが三度イエスを知らないと言う出来事、そして主イエスが十字架に架けられる出来事が続く金曜日です。

 

33節に、主イエスが「ひどく恐れてもだえ始めた」と書かれています。

聞き慣れない言葉ですが、人間の魂が経験する最大の深い苦悩を表す表現です。まことの人間としてイエスは、自分の十字架の死を前にして恐れもだえたのです。ルカによる福音書22章44節(新約155頁)の並行記事では、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と、汗が滝のように流れたということを書き加わえて、神の独り子イエスが、人間として最大限の苦しみを味合われたことを書いているのです。

 

そして主イエスは34節で、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と仰っています。愛する弟子たちに、精神的にも物理的にも自分の元から離れないで目を覚ましていてほしいと仰っています。

さらに35節では、「少し進んで行って地面にひれ伏し」たと書かれています。

ギリシャ語の原典では、ἔπιπτεν(倒れ込んだ)という表現をしています。

 

その上で、新約聖書403頁のヘブライ人への手紙2章17-18節を読んでみます。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

という言葉がわたしたちに響いてくるのです。

 

3.人間イエスの祈りの言葉

 

それから主イエスは、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られます。人間イエスの祈り、心の叫びです。マルコ14章36節をご覧ください。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と書かれています。

 

「アッバ」という言葉は、当時のユダヤ人の家庭で、幼子が自分の父に向けて、親しみを込めて呼ぶ「父ちゃん」といったニュアンスの言葉です。

ユダヤ人の唯一の神は、「在りて在るもの」と言われ、まさに大いなる神で、近づき難い、見ることの出来ない偉大な方でしたから、当時のユダヤ人が神に祈りときには、神の偉大さを称える言葉を何重にも重ねて用いていました。

ところがここで主イエスは、親しみを込めて「アッバ、父よ」と祈ったのです。

当時のユダヤ人社会の宗教的な慣習をひっくり返し、神を冒涜していると言われることでした。それは、主イエスが指し示した、神を父とする、神と人間との新しい関係を表す、人間イエスが神に祈る語りかけの言葉だったのです。

ですから現代のわたしたちも「愛する天の父よ」と祈り始めるのです。

 

この祈りの中で、取りのけてくださいと言った「この杯」とは、文脈からすれば過越の食事、すなわち最後の晩餐での杯を指していると考えるのが自然で、神の裁きを意味する杯を指し示しています。

神の裁きの杯は、本来、神に背いてきたわたしたちが受けなければならないものです。この苦しみの時が過ぎ去るように、この杯を取りのけてもらいたい、と主イエスは父なる神に願っているのです。

神の怒りの杯を飲むことは、この上なくつらくて苦しく、恐れもだえることなのです。そして主イエスが直面している十字架の死の苦しみである裁きとしての杯は、天の父なる神だけが、取りのける権能を持つものなのです。

 

天の父なる神が独り子イエスに与えた使命は、わたしたち人間が味合わなければならない悲しみや苦しみを、神の裁きの中で、救い主として主イエスが肩代わってくださることでした。そして主イエスは父なる神の御心に従って、まさにこの裁きの杯をわたしたちに代って飲んでくださるのです。

 

実際に過越の食事における「この杯」を主イエスが飲み干されたのは、イエスが十字架の上で息を引き取られた時となります。勿論、弟子たちは、誰ひとりとしてこの裁きの杯を飲んではいません。主イエス・キリストが屠られた小羊として犠牲となることによって、杯の意味する「新しい契約」が神の側で整えられて成就するのです。それは、主イエスの心の整理がついたからということでも、主に従う決心がついたからというのでもありません。

主イエスは36節bで、その苦しみのど真ん中で、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。

今日の説教題「御心に適うこと」は、ここから選ばせていただきました。

 

神の御心を受け入れ、それに従います、あなたの思い、あなたの最善がなるように、あなたにお任せします、神のみ旨が行われますようにという、深い恐れと敬いをもって父なる神への従順を示す祈りです。

主イエスに与えられた使命は、地上に生命を受けたまことの人として十字架の苦しみと死、そして復活の道を歩むことによって、わたしたち人間の救いの道を啓示することでした。そのためには、主イエス自らがこの苦しみを経験しなければならなかったのです。そして神の独り子としてご自身の命をわたしたちの救いのためにささげる神の愛を、わたしたちに示してくださったのです。

それによってわたしたち罪人の救いが成就することになったのです。

 

ところで、わたしたちがいつも祈っている「主の祈り」の第三の祈りは、「み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ」です。「神さまのみ心がなりますように、行われますように」と祈っているのですが、その「み心」とは「神のご意志」という意味です。ゲッセマネの主イエスの祈りと同じ祈りです。

 

わたしたちは、主の祈りを祈っていますが、自分の意志、自分の思いや願いが実現することを願いつつ生きているのではないでしょうか。自分の意志の実現のために日々あくせくし、それが少しでも実現すれば喜び、自分の思いとは違う事態になると悲しみ嘆く、そういう日々を送っているのではないでしょうか。

「御心が行われますように」と祈っていながら、現実にわたしたちが願い求めているのは、神の御心ではなくて、自分の意志や願いが成ることだ、ということがあるのではないでしょうか。

 

本当に心から「御心に適うこと」が行われますようにと祈るのは決して簡単なことではありません。「自分の思い通りになること」を願うことをやめて、神の御心が成ることを求めるように方向転換をする必要があるからです。

本来、自分自身の思いを捨て去ることなしに、主の祈りを本当に祈ることはできないのです。そして、自分は果たして神の御心が成ることを願っているだろうか、自分の思いが成ることばかりを求めてはいないだろうか、という問いかけを祈りの中で受けることになります。

わたしたちの運命は、何が起こるかわからない不気味なもので、神の御心とは異なるものです。聖書では、わたしたちの人生、この世を支配しているのは、神の善き御心だと語っているのです。

神のみ心は、わたしたちがこうなって欲しいと願っていることとは違っていることがしばしばあります。わたしたちにはそのみ心が、苦しみや悲しみだと感じられることが多いのです。しかしそれらのことを通して、最終的に実現していくのは、神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心なのです。

 

わたしたちがそのように祈りつつ生きることには、「自分自身の思いを捨て去り」という戦いが伴います。主イエスはその祈りの戦いをわたしたちに先立って戦い抜いて下さいました。わたしたちはその主イエスの後に従って、主イエスと共に「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈っていくのです。

そして主イエス・キリストが父なる神のみ心に従って、わたしたちの救いのために十字架の死へと歩んで下さったという恵みを実感することができるのです。

 

自分の力ではどうすることもできない苦しみの中で、つまり自分の意志や願いの通りにはならない現実の中で、「神さまの善きみ心が行われますように」と祈ることができることは大きな恵みです。わたしたちの人生、自分の思いや願い、意志が実現することなどそう多くはありません。そのことばかりを願い求めているなら、人生は苦しみ悲しみに満ちたものとなり、恨み辛みだらけになります。しかしわたしたちは、自分の思いや願いから目を離して、主イエス・キリストの十字架によって示された神の善きみ心、恵みのみ心を信じて、「み心が行われますように」と祈ることを教えられているのです。

それは本当に幸いなことなのです。

 

4.目を覚ましていなさい

 

続く37bで、主イエスはペトロに、「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と仰っています。

主イエスが祈るためにいなくなると、弟子たちは目を覚ましていることができずに眠っています。主イエスは、わたしたち人間の弱さをよくご存じです。

主は、聖霊の働きを私たちの体を用いて行われます。ここで、「心は燃えても、肉体は弱い。」とイエスさまが仰っているのは、聖霊が働こう、先に行こうとしても、わたしたち人間は、どうしようもない肉体の弱さを持っていることをご存知だからです。だからこそ、わたしたちに対して、自分の肉体の弱さを覚えながら、聖霊の働きが我が身に降り注がれますようにと目を覚まして祈っていなさい、と言っているのです。この主イエスの言葉は、眠ってしまったペトロへの叱責の言葉ではないのです。

 

そして40節には、弟子たちはひどく眠かった、瞼が重たくなった。弟子たちはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。と書かれています。

41節では、主イエスが、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」と仰いました。

そして42節で、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者(ユダのこと)が来た」と、まさに主イエスが、ご自身が自ら選ばれた12人の弟子のひとり、ユダの裏切りによって捕らえられて十字架に架かられる時が来たのです。

 

このときの主イエスの姿からは、36節で「杯を取り除いていただきたい」と願われたときのような人間的な苦しみの様子は微塵も感じられません。

それは、主イエスが神のみ旨を納得したからでも、理解したからでもありません。ゲッセマネの祈りの中で、主イエスは信仰の確信を得て、その場から逃げ出すのではなく、ご自分から十字架に向かって行かれたのです。

すべては父なる神が成し遂げてくださると、確信して、立ち上がられたのです。

 

5.わたしたちの祈り

 

旧約聖書56頁の創世記32章27節に、ヤコブがイスラエルと呼ばれることになった、ヤボクの渡しでの神と格闘した時の有名な言葉があります。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」」と言ったのです。

 

わたしは長いこと、このヤコブの言葉は、力ある男性に届く言葉だと思っていましたが、ある姉妹の座右の銘となっていることを知りました。その姉妹は、自分の人生を支えてくれた言葉だと仰るのです。姉妹の話によれば、長い人生において多くの困難の中を通され、自分のため、また、家族のために神さまから祝福をいただきたいという願いをこめて祈られたそうです。そしてこのヤコブの叫びに通じる祈りが自分の口について出たそうです。さらに厳しい困難に直面して自分自身とも格闘しなくてはならなかったけれど、それを通して、自分が祝福を受けた者と考えられるようになったそうです。人生の道が楽になったとか平坦になったとかではなく、そういう道をたどることによって、神が現におられること、どんな深みの中でも神の救助があることをはっきり確信させられたというのです。そして、この確信はやがてその方の生涯全体にわたって光となり、自分自身はもとよりご家族の一人一人を照らしてくれたと言うのです。まさに、この叫びのような祈りは聞き届けられたと仰るのです。

 

わたしたちの信仰生活においても引き続き困難が付きまといます。わたしたちは目を覚ましていなさいと言われても眠ってしまう力のない者です。

十字架に架かられた主イエスこそが、わたしたちの救い主なのです。

そのようなわたしたちの人生において、御心に適うこととは、この姉妹のように主の愛によってわたしたち信仰者を祝福してくださることに他なりません。

わたしたちも、「わたしたちが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」、「祝福してくださるまでは離しません」と、主の権能と、憐れみと愛と恵みに富たもう主イエスを信じて、共に祈りを合わせて参りましょう。

 

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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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