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復活と救い(ルカ24:13-25) 20251012

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年10月12日(神学校日・信徒の日)の聖霊降臨節第19主日礼拝の説教要旨です。 

東京神学大学 重村智計(しげむらとしみつ)神学生

(聖書) ルカによる福音書24章13-25節 (新約160頁)



私たちは神様に招かれ、今日の礼拝に招かれました。神さまを讃え、与えられた恵みに感謝します。救いにあずかり、一週間を支えてくださった恩恵に、感謝を捧げましょう。礼拝では、まだ救いに加わっていない方々のためにもお祈りを捧げます。その方々も、必ず救われます。


 今年は、戦後80年の節目で、私は先月30日に80歳になりました。70年前に、10年間に渡り教会の説教を福岡刑務所の死刑囚に送りつづけた、クリスチャン学生たちがいました。

今では、カナダの大学の教授をしている、新保満先生が、高校卒業直後の1951年(昭和26年)に、福岡の電車で隣の席の新聞を見ると、自分の小学校時代の友人が死刑判決を受けていた。

母親は、「あんたクリスチャンなら、聖書を持って、面会に行きなさい」という。後になって、「主が母の口を通してお命じになったのだ」と気がついた。


 友人は、「温かい衣類と手紙が欲しい」という。もう冬なのに、半袖一枚で震えていた。それに手紙が一通も来ないという。親戚も兄弟も、誰も面会に来ない。手紙も来ない孤独だ。

 友人は、旧満州の瀋陽の小学校で一緒だったが、父親はロシア軍に連行され死亡、母親は父親の帰りを待ちながら死亡した。母親は友人に、7歳と4歳の弟、それに生後数ヶ月の妹を日本に連れ帰るように頼んだ。でも、妹は死亡してしまった。


 日本にようやく帰り、母の兄を頼った。当時は食糧難の時代で、主食の欠配が続いていた。ただ食べるばかりの三人の兄弟は、歓迎されない。いたたまれなくなった友人は、「金は送るから、弟たちを学校に生かしてください」との置き手紙を書き、家出した。闇商売や港の沖中しなど、いろいろな仕事をしたが、大人に騙された。


 犯罪仲間に誘われ、強盗や犯罪を繰り返すうちに、露天商の老人を殺して死刑判決を受けた。ジンボ先生は、毎日のように葉書を書いた。小学校時代の話から、イエス様の十字架と救い、復活の話まで、書いた。刑務所を訪問した翌年の1952年3月20日に、友人は洗礼を受けた。


 しばらくして、友人から「もっとイエス様のことを知りたい」との手紙が来た。当時国際基督教大学に入学していた新保先生は、友人たちに相談し、各自の教会の聖日説教を起こして、彼に送ることにした。この説教は、死刑囚の間で回し読みされた。


 友人が、「もっと知りたい」といった真意は、両親に会いたいという思いと悲しみであった。妹を死なせたことを、母親に詫びたい感情があった。友人は、聖書に書いてあるように復活するのか、復活したら天国で両親に会えるのか。その確信を得たいと、思っていた。後になって、その思いがわかった。


 友人は、洗礼から1年後の1953年3月27日に、死刑を執行された。その数ヶ月前に、彼は聞いてきた。「信者でなかった父や母に、天国で会えるだろうか」。「君の両親は、福音に接することはなかったが、君が神に祈ることでご両親は天国に迎え入れられる」。彼はそれを信じていた。


 新保先生に、友人の最後の言葉が届けられた。「廊下に刑務官の靴音が聞こえるとビクビクで、1日として安らかな日はなかった。主が復活したマイしごとく、私たちクリスチャンにも復活のあることをしんじるようになって、いつに間にか刑務官の靴音に何も感じないようになりました。今日は天国で待ってくれている父や母に会うことができる」


今日の聖書箇所は、エマオ途上でのイエス様の復活です。有名な箇所です。

聖書をそのまま読めば、目の前に情景が浮かぶようです。私の余計な説明は、いりません。

二人の弟子は、著者のルカは、イエス様が私たちと共に歩いてくださる真理を示しました。

皆様は、すでにイエス様の救いに預かりました。

二人の弟子のように、私たちも霊的な目を遮られ、イエス様に気がつかないことが多くあります。

それでも、イエス様は怒られません。イエス様は、私たちの永い人生の中で、共に歩いてくださいました。人生を振り返ると、神様に守られ、導かれた記憶が数限りなくあります。「あの時が、人生の転機だった。神様の導きがあった」。


ここに描かれた弟子の一人は、ルカではないかと、昔は言われました。今では、この二人の弟子は夫婦ではないか、と言われます。弟子の一人は、クレオパという名前でした。クレオぱは、当時は誰もが知っている人物だった。


 今日の聖書箇所に触れる前に、福音書について簡単に説明します。福音書は四つあります、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、それにヨハネ福音書です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、内容が重なるものが多く、共観福音書と呼ばれます。多分、マルコが最初に書かれ、ルカとマタイがその内容を参考にしたと思われます。マルコが最初なのに、どうしてマタイが聖書の最初に置かれているのか。マタイは、イエス・キリストの系図を長々と続け、日本人には分かりにくい。実は、新約聖書は、当初ユダヤ人や異邦人のために書かれました。マタイは、イエス・キリストが、旧約聖書が預言したメシア、救い主であることをユダヤ人に知らせるために、書きました。だから、ユダヤ人が理解できるように、旧約聖書につながる系図から話を始めたのです。ユダヤ人は、旧約聖書をよく読んでいます。それで、新約聖書の冒頭に置かれました。


 マルコやルカは、異邦人への伝道のために、福音書を書きました。

だから、系図は省くか、短くしたのです。

ルカは、イエス・キリストの復活の事実を、24章以下で詳しく書きました。

霊的に目が遮られた弟子たちは、文字通り私たちの姿です。

エマオ途上でのイエス様の出現は、イエス様がいつも我々と共におり、永遠の命と復活に導かれることを聖書は伝えています。


 イエス様は、家に入るとパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

すると二人の目が、開けた。私たちが心を開かないとイエス・キリストは、心の中に入ってきません。

食事を共にしてください、と二人の弟子はお願いし、家に招き、心を開いたのです。

そして、復活のイエス様だと、気がついたのです。


人生を振り返ると、その節目、節目で神様の導きがあった事実に、思い当たります。

人生は、後で振り返ると、イエス様の助けなしには、乗り越えることはできませんでした。

苦労や苦しさの只中にある時には気がつきません。

悩みを抱え、不安な心で、困難を乗り越えさせてくださり、心の不安を癒やされた後になって、イエス様に守られた事実に、気がつき、改めて感謝を捧げる人生ではなかったでしょうか。

イエス様は十字架につけられ、墓に葬られ、三日目によみがえった、そして復活された、私たちと共に歩いていてくださるのです。


 イエス様は、招かれない限り、家に入ってこられません、心を開いてお招きしたのです。

私たちも、心を開きイエス様を、お招きしましょう。



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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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