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新たに飲むその日(マルコ14:22-26) 20250817

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年8月17日聖霊降臨節第11主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄

 

 

(聖書)

エレミヤ書31章31-34節(旧約1237頁)

マルコによる福音書14章22-26節(新約91頁) 

 

1.過越の食事

 

マルコによる福音書14章22節には、ユダヤ人の最も大事な祭である過越祭の過越の食事について書かれています。過越の食事は、宗教的儀式です。用意する食べ物も、食べる順序も、その中でなされる祈りも定められていました。

22節に、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて…」と書かれています。「食事をしているとき」に行われたことですから、食前の祈りではなく過越の食事の中でのことです。食前に、その家の主人が賛美の祈りをささげた後、パンが皆に配られます。その時に主イエスは、「取りなさい、これはわたしの体である」と言って弟子たちに与えられました。

この主イエスの言葉によって、パンが特別な意味を持つものとなりました。

 

次の23節には「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった」とあります。その時主イエスは、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と、ユダヤ人の過越の食事の儀式にはなかったことを言われたのです。この時、主イエスがこのパンと杯を、ご自分の体と血であるとおっしゃったのは、これからこの食事の後、主イエスは捕えられて十字架につけられて殺されることを意識して、パンと杯をご自分の体と血であると言われたのです。この主イエスの言葉によって、杯も特別な意味を持つものとなりました。パンと杯は、主イエスの体と血とを表すものとなったのです。

 

犠牲とは、ある重要な目的のために、身体や命その他貴重な事物をささげること、 すべてをなげうって、つくすことです。もともと過越の食事は、出エジプトを果たしたことを記念するものでした。そのことを覚えて、イスラエルの民が奴隷の身から解放されるために過越の小羊の犠牲を必要としたのです。

ところがここで、主イエスが特別に仰ったことは、過越の小羊として主イエス・キリストご自身が犠牲となって、弟子たちの罪を帳消しにして救って下さることを約束してくださったのです。

 

そして主イエスの復活の後、弟子たちは、主イエスがこの最後の晩餐において弟子たちに分け与えられたパンと杯を覚えて、聖餐として共にあずかることを礼拝の中で守ってきました。それが、今日わたしたちが主日礼拝の中で行っている聖餐式につながっているのです。聖餐に与かることによって、わたしたちの罪の過越の出来事が実現するのです。

 

主イエスは、ご自分が死ぬことと神の国が来ることを知っておられました。

すなわち、人の罪を知っておられて、十字架の出来事によって神の愛が人の罪を打ち破ることを確信していたのです。

その主イエスの愛を知り、今もわたしたちは、主イエスの「体と血」である、聖餐の「パンと杯」をいただくことによって、主イエスの十字架の死という犠牲によって成し遂げられた救いの出来事をかみしめてその恵みを味わうのです。

 

2.新しい契約

 

本日与えられた旧約聖書は、エレミヤ書31章31-34節(旧約1237頁)です。

31節には、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と書かれています。そして32節bに、「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」と、イスラエルの民が神との古い契約の約束を守ることができなかったことが書かれています。

 

そして33節に「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と、神とイスラエルの民との新しい契約について書かれています。

そして34節で、「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」と、わたしたちが主を知り、そして来るべき日に憐み深い神が、わたしたちの悪と罪を赦してくださると書かれているのです。

 

旧約聖書にはその新しい契約がいつ、どこで結ばれるのか、書かれていません。

ところが、この過越の食事の席で、主イエスがこの新しい契約を定めてくださったのです。わたしたちの罪が赦されるということを保証して新しい契約を結んでくださったのです。

それは、主イエスの十字架の死が、過越の小羊の死と同じような「犠牲」だったということだけではありません。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」というスケールの大きな新しい契約となったのです。

 

ところで「契約の血」については、出エジプト記24章6節に書かれています。

主なる神がエジプトから解放されたイスラエルの民をご自分の民とするという特別な関係を、神の山シナイ山において結んで下さいました。そのシナイ契約が結ばれた時に、雄牛が犠牲として献げられ、モーセがその血の半分を民に振りかけて「契約の血」だと告げています。イスラエルの民は、この雄牛の犠牲の血によって結ばれた契約によって、主なる神の民とされたというものです。

 

マルコによる福音書14章24節の、主イエスが弟子たちに分け与えて下さった「パンと杯」は、新しい契約のしるしです。新しい契約において、主イエスが十字架の上で流す血が多くの人のために結ばれる犠牲の血となったのです。

主イエスの十字架の死によって、主なる神が多くの人々と新しい契約を結んで下さってわたしたちをご自分の民としてくださったのです。わたしたちは、この大切な意味をわきまえて、聖餐にあずかる必要があります。聖餐の意味が分からずに、パンと杯に与ったとしてもその恵みを受けることはできないのです。

 

わたしたちは、聖餐のパンと杯によって、主イエスがわたしたちのために肉を裂き、血を流して死んでくださったという救いの恵みを覚えて、聖餐によって養われつつ生きていくのです。それがわたしたちの信仰の考え方です。

教会とは、洗礼を受けて聖餐に与っている者の共同体です。ですから教会ではずっと、洗礼を受けた人が聖餐に与るという歩みを続けているのです。

 

3.聖餐の制定

 

聖餐は、主イエス・キリストを頭とする全世界の教会を結び合わせる絆です。聖餐に共に与る体験は、教会にあってわたしたちが一つであることのしるしとなります。キリストの体である教会の一致を可能とするものなのです。ですから、聖餐は信仰者どうしの交わりの要として位置付けられているのです。

わたしたちは、聖餐に与ることによって、主イエス・キリストの十字架による自分の罪の赦しを受けて神の民とされます。また、兄弟姉妹と共にこのパンと杯に与ることによって結び合わされ、主の体と血とに与る信仰が深まる交わりが広がっていくのです。こうしてキリスト者は養われていくのです。

 

わたしたちの間にはいろいろな違いがあります。意見や感情のすれ違いによってなかなか人間関係がうまくいかないこともあります。お互いに口もききたくないと思うようなことさえ起こります。しかし主イエス・キリストは、自分にもその人にも、ご自分の体と血とを与えてくださるのです。そのことを覚えて共に聖餐に与り、共にキリストの体の一部分とさせていただくのです。

そこに、人間のいろいろな違いを越えたわたしたちの和解と一致があり、主の体と血とに与るというわたしたちの信仰が深まって行くのです。

 

25節には、「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と書かれています。

ところが、現代に生きるわたしたちがパンと杯に与る聖餐を執り行うならば、「ぶどうの実から作ったものを飲む」ことになりますので、「神の国で新たに飲むその日」をわたしたちは先取りしていることになるのです。

わたしたちは、復活して生きておられる主イエスが、わたしたちと共に食卓についてくださると信じています。聖餐に与ることによってわたしたちは、世の終わりに約束されている救いの完成を垣間見るのです。その希望に支えられて、なお苦しみや悲しみの多いこの世の中を主イエスの救いに与る新しい神の民として歩んでいくのです。

 

聖餐は喜びの食卓です。

「神の国で新たに飲むその日」がすでにここに来ていて、天国での食事の席が用意されているのです。教会はそれを喜びとして生きてきました。

主イエス・キリストが、「さあ、取って食べなさい、飲みなさい。わたしを信じて歩みなさい。わたしがあなたの罪を赦すから」と言ってくださいます。

 

それがわたしたちの生きる力、喜びになるのです。

その望みを信じて皆で賛美の歌を歌ってこの世へと出て行くのです。


* * * * * * * * 


杵築教会での聖餐式の陪餐についての留意事項


聖餐式は、洗礼か堅信礼(幼児洗礼者のみ)を受けた人だけに与えられます。

どこの教会の方で洗礼か堅信礼を受けられた方であっても構いません。

どうぞ陪餐にお預かりください。

まだ洗礼や堅信礼をお受けになっておられない方は、陪餐にお預かりいただくことはできません。

一日も早く洗礼や堅信礼をお受けになられることをお勧めします。

 

杵築教会の聖餐式においては、皆が陪餐(祝福されたパンと葡萄酒)を受けるた めに、

以下の順序にしたがって祭壇のところに進み出てください。

 

(責任役員の陪餐)

円滑な運営を図るために、教師から、陪餐の招きの言葉がありましたら、

原則 として最初に責任役員が聖餐卓の前(足下の白印の位置)にお立ちください。

一回の分餐は8名以内です。

バンと葡萄酒の順に分餐しますので、お受け取りください。  

バンと葡萄酒の順に分餐しますので、教師の言葉に従ってお受け取りください。

教師から、「これは、あなたのために与えられた主イエス・キリストの体です」 と言われましたら、「アーメン」と答えていただきパンを食します。

教師から、「これはあなたのために流ながされた主イエス・キリストの血です」 と言われましたら、「アーメン」と答えて葡萄酒を飲みます。

その後、自席に戻り他の方の陪餐を見守ってください。

 

(陪餐希望者への分餐)

続けて、陪餐希望者の皆さんが聖餐卓の周りに進み出ます。

聖餐卓の前(足下の〇印の位置)に一回8人以内の方がお立ちください。

お座りになって陪餐を希望される方は椅子を用意しますのでお申出ください

 

教師の言葉に従ってバンと葡萄酒の順に分餐しますのでお受け取りください。

教師から、「これは、あなたのために与えられた主イエス・キリストの体です」と言われましたら、「アーメン」と応答してパンを食します。

教師から、「これはあなたのために流された主イエス・キリストの血です」と言われましたら、「アーメン」と応答して葡萄酒を飲みます。

その後、自席に戻り他の方の陪餐を静かに見守ってください。



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〒873-0001

大分県杵築市296

☎0978-63-3300

《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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