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朝ごとに新たになる(マルコ15:42-47) 20251102

更新日:11月6日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年11月2日の降誕前第8主日礼拝、召された人・永眠者記念礼拝における説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄


 (聖書)

 詩編49編6-21節(旧約882頁) 

マルコによる福音書15章42-47節(新約95頁)

 

1.葬り=葬式と埋葬

 

今日の礼拝は、主イエスが降誕される8週前の主日礼拝ですが、杵築教会では教会の創立記念礼拝と召された人の記念礼拝をも兼ねた礼拝として執り行わせていただきます。杵築教会では、教会墓地として納骨室がこの礼拝堂の階上に設置されています。ご遺族の方が、いつ来られても良いように、また現在杵築教会に集っているわたしたちとの霊的な交わりが続けられることを願って、先に天に召された方々と共に主の復活を仰ぎ見る場としてこの聖堂が用いられています。このため、杵築教会の納骨室の入り口の扉は常に開放されています。今朝は特に、136年前に杵築伝道が開始されたことを記念する日として、杵築教会に連なる106人の故人を記念して、主なる神に共に祈りと賛美を献げて参ります。この記念礼拝においては、ご遺族のご了承をいただいてお預かりしている106人の故人のうちの半数近くの方の遺影を正面の壇上前にこのように飾らせていただいております。

 

今日わたしたちに与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書15章42節です。

「既に夕方になった」「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった」と書かれています。夕方になって日が沈むと長く続いた金曜日が終わり、土曜日が始まります。土曜日は、当時のユダヤの安息日でしたから、十字架につけられたイエスをそのままにしておくことなく、金曜日のうちに遺体を十字架から引き下ろして埋葬を終えておきたいと願うのは、当然のことでした。主イエスの十字架の苦難の後には、安息が用意されていました。

 

43節に、主イエスの遺体を引き取って墓に納めたのは、「神の国を待ち望んでいた」アリマタヤ出身で身分の高い議員であったと書かれています。神の国とは、神が支配されているところです。人間は、罪深くて死に支配されていますので、わたしたちは普段、死について忘れて遠ざかっています。しかしわたしたちは、死から免れることはできません。人間は、死や病、罪やあらゆる悲惨に支配されていますので、その支配から逃れて神が支配してくださることを待ち望むようになるのです。それが神の国を待ち望むということです。

 

サンへドリンの議員だったヨセフは、主イエスの死刑判決を下したローマの総督ポンテオ・ピラトにイエスの遺体を渡してくれるようにと勇気を出して願い出ました。受刑者の埋葬を申し出るということは、犯罪者とのかかわりがあることを認めることになります。イエスの弟子たちは皆逃げ出しました。しかも日没になると土曜日の安息日が始まってしまいますので、イエスの遺体を墓に葬ることができなくなりますので、自分に降りかかる危険を覚悟して躊躇することなく、遺体引取の許可を得て埋葬を済ませなければなりません。

 

アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を墓に納めたことは四つの福音書の全てで語られています。このようにして、聖書は主イエスが葬られることを大切なこととして語り、それゆえに使徒信条の中でも、イエスが死んで「葬られ」ということが語られているのです。

 

44-45節に、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。」と書かれています。

そしてヨセフが中心となって、主イエスの十字架の金曜日が終わる夕方を前にして、死の確認と埋葬がなされていきます。

ユダヤの地方総督でこの出来事の責任者であるピラトは、十字架刑に立ち会った百人隊長に本当にイエスが死んでいるかどうかを確認した上で、遺体を引き渡しの許可を出しています。


そして、マタイによる福音書27章59-60節には、「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。」と書かれています。

 たまたま近くに手ごろな墓があったというわけではありません。ヨセフは自分のために用意しておいた新しい墓を、主イエスの埋葬のために提供したのです。


そして実際の埋葬が行われました。

46節に「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」と書かれています。「墓の入り口には石を転がしておいた」というのは、墓の出入り口を大きな石でふさいだという意味です。

そして47節には、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」と書かれています。

この二人のマリアという名前の女性たちは、日曜日の朝、その墓が空だったことを目撃する証人になります。そして、主イエスが甦られた、自分の墓から死を打ち破って出て来られた方がいる、という証人となったのです。

 

聖書には、主イエスの埋葬後、自分のために用意していた墓まで差し出したヨセフはどうしたのかは書かれていませんが、神の国の前進のために命までかけて自分のために用意していた墓を提供して、イエスの埋葬のために十分過ぎる働きをしたヨセフとして覚えられているのです。

墓は、この世の人生の終着点としての墓ではありません。墓の先があるという、希望が生まれました。それ以降、わたしたちには、主イエスが墓から出られたという希望のもとに人々の埋葬をするようになったのです。

 

2.葬られる意味

 

イエスが十字架にかかって死なれたことに続いて墓に葬られたことも語られていることには、大きな意味があります。

「ハイデルベルク信仰問答」問41に、「なぜこの方は『葬られ』たのですか」とあります。その答えは、「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」と書かれています。主イエスは仮死状態だったのではなくて、本当に死んでしまったということを、墓に葬られたことによって示しているのです。

 

「葬り」には本来そういう意味があったのです。今の社会では火葬が中心となっているので、火葬に際して行われる葬式と、遺骨を墓に納める納骨式(埋葬)が分離していますが、本来「葬り」とは遺体を墓に納めることを言い、それに際して行われることが葬式でした。葬式と墓に葬ることは一つだったのです。

愛する者を失った悲しみの中にあるご遺族や親しかった者たちが、その人の死を事実として受け入れ、慰めを得て、その人のいない新しい現実を生き始める、そのために葬式はなされるのです。つまり葬式は、その人が本当に死んだこと、だからもう生き返ることはないのだということを確認して、その現実を受け入れて、新しく歩み出すためになされるものなのです。

現在では、故人が施設や病院で亡くなることが多く、葬式と納骨式(埋葬)が時間的に隔たって行われることが多いのですが、その基本的な意味は変わりません。葬儀を行い、墓に葬る、ことによって、その人の死が動かし難い事実であることを確認して、受け入れるのです。

 

従って、主イエスが葬られたことは、主イエスが本当に死んだことを証ししていると言うことができますが、それは、弟子たちや主イエスを慕った者たち、そしてわたしたちが、主イエスの死を事実として受け入れて生きていくためになされたというものではありません。それには別の意味があるのです。

 

イエスが「葬られた」ことにおいて、主イエスが死の苦しみを本当に味わって下さったことをわたしたちが受け止めることができるのです。わたしたちが、誰も免れることのできない肉体の死というものを現実のものとして受け止め、その上で神の独り子主イエス・キリストがその苦しみ、悲しみ、絶望を、ご自分の身で引き受けて下さったことを、わたしたちが確認することが大切です。

わたしたち人間の死において体験する苦しみ、悲しみ、絶望は、イエスが「葬られる」ことにおいてこそ、具体的、現実的なものとなるからです。

死ぬことは、命が終わること、人生が終わることですが、「葬られる」ことによって、死の苦しみとはどのようなものかを、慈しみに富みたもう神が、わたしたちに具体的なこととして示して下さっているのです。

 

3.とこしえの家

 

詩編49編10-12節(旧約882頁)に、「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは/知恵ある者も死に/無知な者、愚かな者と共に滅び/財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても/その土の底だけが彼らのとこしえの家/代々に、彼らが住まう所。」と書かれています。

 

ここには、人間は誰でも必ず死ぬ、ということが語られています。その死の苦しみが、墓に葬られることにおいて見つめられています。

どんなに知恵や財宝を沢山持っていても、自分の名を付けた広大な地所を持っていたとしても、自分が葬られる土の底だけがとこしえの住まいとなる、と言っているのです。杵築教会であれば、それはこの礼拝堂であり納骨室ということになるのです。

そして詩編49編18-20節には、「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえても/彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。」と書かれています。人は、命のある間に持っていた祝福や幸福を、墓にまで持って行くことはできない、墓に葬られる時には、それらを全て失い、光を見ることのできない暗闇の中に置かれるのだ、と言っているのです。

聖書には、「葬られる」ことについて、死の苦しみ、悲しみ、絶望を、誤魔化さずに正面から見つめているのです。全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められてしまうという死の苦しみ、悲しみ、絶望が、葬られることにおいて見つめられているのです。

そのことを、神の独り子主イエス・キリストが、人間となって、肉体をもってこの世を生きて下さり、人々に侮辱され、十字架に架かられて、死んで葬られて、味合われ、わたしたちの身代わりとなってくださったと記しているのです。

 

父なる神のみ心によってその人間の苦しみを、神の独り子である主イエスが、ご自分のこととして味わい、担い、背負って下さったのです。

ですから、わたしたちの人生はここで終わりとなったとしても、神の愛が失われることはありませんので、死ぬことは苦しみや絶望ではなくなるのです。

神の独り子主イエス・キリストが、わたしたちのために死んで葬られ、そして復活して下さったので主イエスの墓は空になるのです。

それによって、主イエスを信じ、主イエスと結び合わされて生きるわたしたちにとって、「葬られる」ことの意味は変わったのです。

全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められるという死の苦しみ、悲しみ、絶望が、神のみ力によって滅ぼされるのです。そして、主イエスと共に神のもとで永遠の命を生きる喜びが与えられるのです。

主イエス・キリストが、十字架にかかって死んで下さり、葬られて下さり、そして復活して下さったことによって、この救いが、死を越える希望としてわたしたちに与えられたのです。

 

 わたしたち人間は葬りをします。やり方はもちろん国によって、信仰によってそれぞれ異なりますが、わたしたちは人を葬り続けてきましたし、そしてやがては自分が葬られることになるのです。

葬りの時、わたしたちはどんなことを考えるでしょうか。死は断絶です。愛する者との関係が断たれることです。どんなにごまかしたとしても、やはり死は断絶なのです。そういう時に、わたしたちは何を思うのでしょうか。

 

わたしたちクリスチャンは、それですべてが終わりだとは思っていません。

先ほど逝去者記念の祈りの冒頭でお読みした哀歌3章22-23a節にある通り、「主の慈しみは決して耐えない。主の憐みは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」のです。

今日の説教題は、ここからいただいて、「朝ごとに新たになる」とさせていただきました。

 聖書は、一つの明確な根拠を語ります。その根拠がイエス・キリストです。

キリストが十字架で死なれ、葬られた。そしてその墓から甦られたということです。それを根拠として、わたしたちはキリストと同じ道をたどることができるという希望を持っているのです。

わたしたちの信仰は、キリストに懸かっているのです。


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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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