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沈黙の意味(マルコ15:1-5) 20251005

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年10月5日聖霊降臨節第18主日礼拝の説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄


(聖書)

イザヤ書 第53章5-12節(旧約1150頁)

マルコによる福音書 第15章1-20節(新約95頁)

 

1.沈黙の意味

 

今日のマルコによる福音書の聖書箇所では、主イエスが語られた言葉はほとんどありません。主イエスが沈黙を保たれておられるからです。新約聖書テモテへの手紙3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書かれていることを改めて思い起こしてください。この礼拝では、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれて」いると信じて、丁寧に聖書を調べて参りたいと思います。

 

本日、わたしたちに与えられた聖書箇所マルコによる福音書 第15章1節の最初には、「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。」と書かれています。いよいよ、マルコによる福音書9章31節で「人の子は、人々の手に引き渡され」る、10章33節で「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。」と予告されていた事態に至ったのです。

 

時は、いよいよ主イエスが十字架に架かられた金曜日の明け方です。鶏も既に二度鳴きました。ユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)が深夜に開かれ、71人全員で相談して、主イエスをローマへの反逆者としてピラトのもとで断罪させることを決め、ローマの地方総督ピラトに主イエスを引き渡したのです。

ローマへの反逆罪は、十字架刑による死でしたが、それには、ローマの承認が必要だったのです。今日の聖書箇所では、「渡した」「引渡した」と、聖典のギリシャ語では同じ言葉が三度(1、10、15節)用いられて、先ほどお話しした主イエスの受難予告の9章、10章の言葉と重なって強調されています。

 

2節でピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と主イエスに問いかけました。祭司長たちが、イエスは自分こそユダヤ人の王だと言っており、ローマの支配を否定しようとしている反逆罪だと訴えたからです。ピラトはそのユダヤ人の魂胆を知っていて、「お前はそれでもユダヤ人の王だなどと言うつもりか」という皮肉交じりの尋問をしています。主イエスは、ここでただ、「それは、あなたが言っていることです」と答えています。主イエスのこの言葉には、「あなた」に力点が置かれています。「それはあなたが言うことだ。私がユダヤ人の王であるかどうか、それはあなたが問われていることなのだ」と言ったニュアンスがあります。

 

3節には、「そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた」と書かれていますが、そのイエスを訴えた内容はもうここには書かれていません。

4節で、ピラトは再び尋問しています。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」と尋ねましたが、主イエスはもはや何も答えず沈黙を守ります。

5節には、ピラトはこのことを不思議に思った、と書かれています。ピラトには、主イエスが法に触れるようなことは何もしていない、主イエスが訴えられたのはユダヤ人たちの妬(ねた)みのためであると分かっていたのです。

そして、イエスの沈黙が、ピラトに対して、「問われているのは私ではない、あなただ、あなたはわたしをどうするのか」という主イエスの無言の問いだと受け取ったのです。

 

今日の聖書箇所では、主イエスの話された言葉はそれだけです。

もし尋問の中で、主イエスが沈黙せず口を開いて、マルコによる福音書12、13章で主イエスが話されたように、祭司長、律法学者、長老たちを打ち負かすほどの答えをしたならば、ピラトはイエスに無罪の判決を下していたと思います。そうなると主イエスの十字架の出来事が起こらなかったことになります。主イエスがピラトの尋問の中で沈黙されていた理由は、ここにあるのです。


主イエスは、自分一人がわたしたちの罪を背負って身代わりとなって、ご自分が十字架に架かることを受容されていたのです。その決意をもって沈黙されたのです。すべてを父なる神にお委ねした神の独り子としての姿です。

 

旧約聖書の箇所のイザヤ書53章5-8節には、次のような記述があります。

「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」と書かれています。

そして、イザヤ書53章の11、12節(旧1150頁)には、主イエス・キリストの十字架の死によって実現する救いの預言が書かれています。

 「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」いう言葉は、まさに主イエス・キリストの十字架の死についての預言なのです。この主イエスの執り成しによって、わたしたちは赦され、罪のゆえに滅びるはずだったところを新しく生きる者とされたのです。

 

2.群衆Vsピラト

 

ところで当時のエルサレムでは、ユダヤ人の祭りの度ごとに、恩赦として人々が願い出る一人の囚人を放免する習慣がありました。7節には、「人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」と書かれています。ローマ帝国の支配に抵抗してユダヤ人の独立を勝ち取ろうとするテロリストたちの中心人物だったのでしょう。ローマにとっては最も危険な人物で、一番釈放したくない囚人だったと思われます。

 

9節でピラトは、人々に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言っています。10節にあるように「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたから」です。

群衆が釈放を求めて来るのは、このイエスだろう。イエスを十字架にかけて殺したいと思っているのは祭司長たちだけで、一般民衆はそうではないと、ピラトはそのように思ったのです。

主イエスが「ユダヤ人の王」と自称していたとしても、何らかのテロ行為を行ったわけではなく、民衆を煽動して暴動を起したのでもありません。ピラトがバラバではなくて、イエスを釈放したいと思うのは理に適っています。

 

ところが11節で、祭司長たちは、バラバを釈放してもらうように群衆を煽動しました。そこで12節で、ピラトは改めて「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と尋ねました。

バラバを釈放してほしいと言っている群衆たちに、まさに今裁きが行われているイエスのことを思い出させて、恩赦の対象はイエスの方がよいのではないか、お前たちが王として尊敬している者ではないのか、と持ちかけたのです。


しかし群衆は、13節で、イエスを「十字架につけろ」とまた叫びました。

14節でピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言っています。ピラトの思いは、イエスには、死刑にするほどの罪は見当たらない、バラバではなく、イエスの方を釈放したいという気持ちだったのでしょう。

群衆は、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び立てたのです。

 

このようにして、ピラトは、まさに2節で主イエスが、「それは、あなたが言っていることです。」「あなたは私をどうするのか」と言った主イエスの言葉の前に立たされたのです。バラバを釈放するのかイエスを釈放するのか、イエスを殺すのかバラバを殺すのか、ローマの地方総督ピラトはその判断を迫られたのです。


15節に、「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」と、ピラトの下した決断が書かれています。主イエスの十字架刑が正式に決定したのです。

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と使徒信条の中でピラトの名が唱えられることになったのは、この決断をしたことを指しているのです。群衆の意に反してイエスを釈放したら暴動が起るかもしれないと恐れ、群衆の言いなりになったのです。


ローマ皇帝からユダヤ地方の総督として派遣されているこの時のピラトにとっては、委ねられたユダヤの治安を守り暴動などが起らないように治めること、大過なく任期を全うすることが使命であり、自分の評価につながるものでした。そこでは、自らの信念を貫くという思いや、人を裁く者に求められる公平さや誠実さは置いてきぼりにされます。ピラトは、周囲の群衆の顔色を伺い、どうすることがローマの地方総督の自分にとって得か損かと計算をしたのでしょう。


主イエス・キリストの十字架の死は、ピラトのこのような日和見的な決断によって確定したのですが、それによって、ピラトは特別信念のない事なかれ主義の人間だったとまで判断すべきではないでしょう。彼はたまたまこの時ユダヤ総督だっただけです。そして世の終わりまで名を覚えられる人になったのです。

 

子どもが父親に対して悪いことをしたならば、謝って赦してもらわなければなりません。ピラトは父なる神が赦してくださると思いますか。間違いなく赦してくださいます。何故ならイエス・キリストの贖いがピラトにも及ぶからです。

東方諸教会(コプト正教会、エチオピア正教会)では、後にピラトが罪を悔いキリスト教に改宗して、熱心な信徒となったとの伝承を保存しています。

ピラトはイエスに同情的な人物だったとして、後に聖人とされているのです。


「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と唱え告白する時にわたしたちは、ピラトの罪や責任を思うのではなくて、自分自身の名前をそこに置いて考えるべきなのです。わたしたちがもし彼の立場にいたなら、使徒信条において毎週唱えられるのはわたしたちの名前となっていたということなのです。そのような気持ちを込めて使徒信条をわたしたちは唱えるのです。

 

それでは、この十字架刑を誰が執行したのでしょうか。マルコによる福音書では、ローマの兵士たちが執行したという文脈になっています。

16節には、「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。」と書かれています。「部隊の全員」とは、いったい何人だったのかは分かりません。少し後の39節に、主イエスが息を引き取られた時に、百人隊長がいたことが記されています。「百人隊」ですから、少なくともそのくらいの人数はいたのだと思います。

 

ローマの兵士たちは、ユダヤ人たちを支配する側に立つ人間です。支配者の側からすると、イエスが「ユダヤ人の王」などというのはとんでもないことで、ユダヤ人は従順に支配に従っていればよいというのがローマ人たちの考えです。

その腹いせとばかりに兵士たちは、主イエスに「ユダヤ人の王」という名を付けて、ひどい侮辱をしています。17節で、当時王にしか着ることが許されていない紫の服がイエスに着せられます。王冠として茨を編んでかぶらせています。兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し、何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけて、ひざまずいて拝んだりしてもてあそんでいます。

 

3.十字架のキリスト

 

神はどのような神なのかを知るためには、イエス・キリストを見る、それも十字架に架かられたキリストを見る以外にはありません。

このように、主イエスが神の子として人間からの暴力と侮辱を受けられたことを知ると、神がこれほどまでに苦しまなければならないほど、自分たちは罪深い者であることと、神ご自身が苦しまれたことで自分の罪が赦されたことが、分かるのです。わたしたちを愛してくださっている神は苦しまれる方なのです。十字架にまでお架かりになってくださった神です。現在は、贖罪という考え方自体が希薄になっていることを踏まえる必要があるとは言え、それでもなお、わたしたちは、十字架のキリストを宣べ伝えるしかないのです。

 

どんなに侮辱されようとも、誰が何と言おうとも、どんなに時代が変わろうとも、教会は十字架のキリストの言葉を聴いてきました。それは、深い畏れと感謝をもって受けとめなければならない主イエス・キリストの姿です。このように主イエスの姿が鮮やかにわたしたちの前に示されているのです。

そして十字架につけられたキリストが、わたしたちを生かしてくださるのです。


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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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