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生きている者の神(マルコ12:13-27) 20250615

更新日:6月17日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年6月15日の聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨です。  杵築教会 伝道師 金森一雄 


 

(聖書)

申命記26章1-19節(旧約320頁)

マルコによる福音書12章13-27節(新約85頁)

 

1.ユダヤ人の二つの宗教グループ

 

本日与えられた聖書箇所には、主イエスが、ユダ人を代表するファリサイ派とサドカイ派という、二つの宗教グループのそれぞれと論争したことが書かれています。

 

ファリサイとは、ヘブライ語で「分離する者」という意味です。ファリサイ派の大きな関心は、神殿の内外での清めの習慣に関する律法をいかに守るかということにありました。祭司の清めの習慣はそのためのものでした。先ずは文書化された律法文書であるモーセ五書がありました。さらにあらゆる日常生活の中での理想を示す伝承と律法を実践するための口頭の教えがありました。そして、人は死んでも魂が残ると考え、神の定めのときに、復活して新しい体を与えられると信じていて、今ある自分の生活に視点をおいて復活を捉えていました。

 

一方、サドカイ派の人たちは、律法文書のモーセ五書だけを重んじていました。モーセ五書とは、旧約聖書の最初の五つの書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のことです。

サドカイ派の人たちは、祭司の家系に属する人たちや教育のある金持ちが多く、国の中心にいたような人たちでした。彼らは、この世での地位が比較的恵まれている保守的な人たちで、彼らは復活と終末論の死後の世界を信じません。現世が恵まれているので復活思想を必要としていなかったのです。サドカイ派は、宗教と政治の力が加わり、当時は非常に大きな影響力を持っていましたが、ファリサイ派のような大衆の支持がなかったのでそれほど大きなグループではなかったのです。

 

 この二つの宗教グループの溝は深かったことが分かる話が、使徒言行録23章6-9節に書かれています。パウロがエルサレムの最高法院で取り調べを受けて自ら弁明したときの話です。パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知ってこのように言ったのです。「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」。すると、ファリサイ派とサドカイ派との間で復活をめぐった論争が行われ、最高法院が分裂して大きな騒ぎになりました(使徒23:7)。それほどまでに、この二つのグループの対立には激しいものがあったのです。

 そしてその夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒23:11)と言われ、パウロはローマ皇帝に上訴する使命をいただくことになったのです。

 

2.ファリサイ派との問答

 

13節には、イエスの言葉じりをとらえて罠に陥(おとしい)れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした、と書かれています。

ファリサイ派の人々は、エルサレム神殿を管理する立場にありました。主イエスが、エルサレムに到着して神殿で宮清めをしたことから、自分たちの立場が批判されるのを恐れてなんとか主イエスを排除しようとして殺意まで抱いていたのです。

ファリサイ派は、神の律法を自分たちの生活に厳格に当てはめて生活しようとする人たちですから、どちらかと言うと、世俗権力とは距離を置いている人たちです。ヘロデ派は、領主ヘロデの名を冠(かんむり)につけた、世俗権力との距離が近い人たちのグループです。本来犬猿の仲にある両者でしたが、主イエスを排除するという一点で一致していたのです。

 

彼らは、14節で主イエスに「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」という問いを投げかけています。

 

イスラエルの人たちは、ローマの支配を喜んでいたわけではありませんので、皇帝への税金には不満がくすぶっていましたので、ユダヤ人の抱いていた税に対する不満を利用してイエスを陥れようとしたのです。

当時の税金は、神殿税と人頭税がありました。エルサレム神殿で礼拝をする時に献げられる税金が神殿税で、日頃使われていたローマ貨幣には、ローマ皇帝の「肖像と銘」が刻まれていましたので、ユダヤ人たちは偶像礼拝を嫌って日常用いられていたローマの貨幣を用いて神殿税や人頭税を納めることは禁じられていました。

 

15節に、主イエスが彼らの下心を見抜いて言われたと書かれています。「下心」は、口語訳聖書や新しい聖書協会共同訳聖書では「偽善」と訳されています。彼らは、ローマのデナリオン銀貨を使いながら日常生活をしながら、神殿では自分たちのシェケル銀貨を捧げるという偽善=下心の中に生きていたのです。

 

多くの民衆は主イエスに対して、もしかしてこの人がメシア(救い主)ではないかという期待をかけていました。ここで主イエスがYESと答えて、「皇帝に税金を払ってよい」ということになると、ローマの支配から解放してくれるメシアだという民衆の期待が一気に後退して主イエスから離れると考えたのです。

逆に主イエスがNOと答えて、「皇帝に税金を払わなくてよい」ということになると、主イエスがローマへの反逆罪として訴えられて、ローマの権力によって主イエスを排除することができると考えたのです。

 

彼らの用意周到に仕組まれた罠に対して、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」と、主イエスが言われると、神殿内で使用を禁じられていたデナリオン銀貨をすぐに持って来ています。それが彼らの姿で、彼らの偽善=下心があらわにされる出来事になったのです。

16節で主イエスは、「だれの肖像と銘か」と質問しています。彼らは「皇帝のものです」と、答えざるを得なくなったのです。

それから17節で、主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と、彼らが使った言葉をそのまま用いて仰いました。

主イエスの知恵ある答の前で、彼らはただ驚き黙るほかはありませんでした。

 

この主イエスの言葉は、その後の世俗権力者によって最も多く利用されてきた言葉の一つになっています。この世界は、「皇帝」の支配領域、すなわち世俗権力の領域と神の支配する領域の二つの支配領域に分かれています。この世の権力者たちは、教会に対して「あなたがた教会の領域は、宗教的な心の部分だけである。もしあなたがたがそれを踏み越えて、この世の様々な領域に出てくるならば、我々はあなたがたを統制せざるを得ない」と釘をさす時に、この主イエスの言葉を利用したのです。

 

ローマの信徒への手紙13章1節に、合法的な権力者(支配者)への従順についてこのように書かれています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と書かれています。この言葉が明らかにしていることは、「皇帝のもの」も、実は神に由来するものだということです。

 

わたしたちキリスト者は、主イエスのこの言葉をどう聴いたらよいのかが問われます。聖書で語られているように、確かにすべてが神に由来するものだとしても、この世を生きるわたしたちが、どのようにこの言葉を受取って、どのように神に感謝の返礼をするのか、そのことが問われているのです。

 

3. 生きている者の神

 

本日、わたしたちに与えられた旧約聖書の申命記26章1、2節には、「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。」と書かれています。これは、イスラエルの民が、エジプトの奴隷生活を離れて嗣業の土地に進み行く旅の最中に神が命じた言葉です。

 

いよいよヨルダン川を渡って、故郷に入るところです。これから定住生活をするときには、「地の実りの初物」を献げなさいと神が言われたのです。奴隷生活を抜け出せたこと、自由への旅の出発には主の導きがありました。そしてこれから、故郷に帰り、定住生活をして実りが与えられることは、神からの恵みのいただきものです。

主が与えてくださる土地から生じる実りの初物を取って籠に入れ、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい、と神が言われたのです。

わたしたちは、皇帝のもの、神に由来するものと、分ける必要はありません。一見、これは「皇帝のもの」ではないかと思われるようなものがあるかもしれません。しかしそれを含めてすべては神からの恵みの賜物です。

神のものは神に返すという一つの基本に従って、わたしたちは歩むのです。神のものは神に返しなさいという、「神のものとは何ですか」と問われたなら、信仰を持って「それはわたしです」と答えたいと思います。

 

4. サドカイ派との問答

 

サドカイ派が、申命記25章5節の記述に対する質問を主イエスにしています。夫が死亡した時に残された妻に子がない場合、七人の兄弟が七人とも跡継ぎを残さずに死んだという質問ですから、実際にあったことではなくて、サドカイ派が質問をするために考えた愛の存在しない机の上の議論でしょう。

 

婚姻で結ばれた両親族集団を固く結びつける役割を果たすレビラート(夫の兄弟の意)婚の目的だけが前面に出ています。7人の夫を持つことになった婦人に対する同情のかけらもみられません。サドカイ派は、復活を否定していますので、死んだ後などはない、生きている間だけが全て、魂の存続ということも否定しています。死んだらそれでおしまいで、死後の世界などないと言うサドカイ派の主張は、復活なんてない方が合理的だということなのです。サドカイ派の人たちは、モーセ五書をよく読んでいたのに、聖書に書かれている神の愛と力を信じていなかったのです。

 

主イエスは、24節で「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」と言われています。主イエスは、彼らのすべての妄想をストップさせようとしたのです。25節で主イエスは、復活するときには、「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われていますが、ここで主イエスは、復活するときは天使のようになって神の御手の中にきちんと置かれている、と言うことを強調しているのです。

 

そして26、27節では、出エジプト記3章6節を引用しています。主イエスは、「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあると神が言われているではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」と言われています。

もし族長たちが生きているなら、復活はあることになります。神は今もなお生ける者たちの神であり、死を越えて今なお神の御手のうちにわたしたちは置かれているのです。そして、わたしたちの名前もその後に書き加えられると言うことなのです。復活の希望は、今あるものの延長線上に存在するものではなく、新しいものの到来です。


この地上の人生において与えられている賜物も重荷も、全て終わりを迎えます。そして神は、生きている者の神として、復活を信じるわたしたちに新しい希望の歩みを与えて下さるのです。わたしたちではなく、主イエスが生きておられるからです。


罪の中で死ななければならなかったわたしたちがしなければならないことは、主イエスから離れないことだけです。

この方にしがみつき、この方を礼拝し続けることを願い求めます。


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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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