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目を覚ましていなさい(マルコ13:28-37) 20250727

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年7月27日の聖霊降臨節第8主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄 

 (聖書)

マラキ書3章13節~18節(旧約1500頁)

マルコによる福音書 13章 28節~37節(新約89頁)

 

1.いちじくの木の教え

 

マルコによる福音書13章 28節に、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」と書かれています。エルサレムの四季は、日本のようなはっきりしたものではありません。春がとても短くてあっという間に夏になります。冬から短い春を通り抜けて夏に至るという、エルサレムの直線的な季節感の中で、主イエスは、苦難の冬を忍耐すればいちじくの木が実を結ばせる夏が来ると仰ったのです。

 

29節には、「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と書かれています。「これらのこと」とは、まさに冬の時代のことであり、主イエスがここまで語って来られた様々な苦難を指しています。

「人の子」とは、主イエスご自身を指す言葉として用いられています。すなわち、主イエスは、冬の時代のこれらの苦難は確かに起こる。しかし苦しみが増せば増すほど夏が近づいて、救い主イエスが戸口まで近づいておられることを語られたのです。

 

そして30節では、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」と仰っています。「これらのこと」とは、先に13章8節で主イエスが「終末の徴」として、戦争や地震や飢饉などで人間の歴史の中で繰り返し起こってきたこととしてあげていたことです。わたしたちはこの世の終わりだと感じることがあるかも知れません。しかし主イエスは、これらのことがみな、すべてが起こるまではこの時代は決して滅びない、と言われているのです。

 

当時も、今も、これからも、いつの時代でも、どの世代でも、苦難の冬を通り過ぎて夏が近づかなければならない、それまであなたがたは救い主イエスが再び来られるまで希望を持って耐え忍ばなければならない、とわたしたちに仰っているのです。

 

2.目を覚ましていなさい

 

主イエスは32節で、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われています。ここでも、主イエスは御自身のことを「子」と言われます。その時については、神だけがご存じで天の御使いたちも知らない、そして主イエスご自身もご存じではない、まさに父なる神だけが知っている、と断言されています。

 

そして33節で、主イエスは、「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」と仰っています。

「気をつけて」という言葉は、ギリシャ語の原文では「警戒を怠るな」というニュアンスがあります。また、「あなたがたは目を覚ましていなさい」(Βλέπετε)という言葉が、繰り返し用いられていますが、肉体的な意味で目をつぶるなとか、眠るなということを言っているのではありません。

主人の帰りを待っているという状況の中で、二つの動詞を重ねて命令形で、「あなたがたは、警戒を怠るな。目を覚ましていなさい。」と言っています。

 

そして続く34節で、それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。と主イエスが仰っています。

ここで、「旅に出る人」というのは、十字架に架かられて死に、三日後に復活されて天に上げられて神の右に着かれた(マルコ16:19)、主イエスのことです。主イエスが旅に出ておられるということですから、主イエスがこれから天に上げられ、地上には不在となることを意味しているのです。「僕たち」とは、主イエスが帰られるのを待つわたしたちのことを指しています。

「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」と、主イエスが仰っていますが、主イエスはわたしたち信仰者一人一人に、神である主人の仕事を割り当てて、さらに僕たちに主人の仕事をする神の権威をお与えになるということなのです。

 

ここで具体的に語られている仕事は門番です。そして門番に対して、待っていなさい。目を覚しているように。と命じられているのです。門番の仕事は、家を守る歩哨、見張りです。泥棒と戦うのではありません。警戒して、危険が迫ったらすぐに警報を発するようにと仰っているのです。

主人の仕事である「門番」という務めについては単数形で書かれていますが、「僕たち」は複数形です。門番という主人の仕事を複数の僕たちに割り当てする、すなわち、わたしたちを門番として交代勤務で用いるということです。

 

35節には、「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。」と書かれています。ここでもう一度、目を覚ましていなさいと言われていますが、主イエスが夕方、夜中、鶏の鳴くころ、明け方と四つの時間帯をわざわざ区分して書いているのは、門番という神の職務をわたしたちに交代制でわたしたちに寝ずの働きを求められておられるのです。


まさに主人の帰りの備えをして待つということになります。主人は出掛けたが、帰ってくるのかどうかも分からないというのでは、わたしたちはとても不安になると思います。小さな不安が次第に大きくなるものです。主イエスはマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。主イエスは、今もわたしたちと共にいて下さるのです。

ですから、わたしたちはみんなで、希望を持って警戒を怠ることなく目を覚ましていることができるのです。わたしたちには根源的な不安はありません。主イエスは十字架に架かられて死に、三日後に復活して弟子たちにあらわれて話しをされた後、天に上げられ、父なる神の右に座わられたのです。今イエスはわたしたちの間には、目に見える姿においてはおられません。

その主イエスがこの地に帰って来られる再臨をわたしたちは待っているのです。

 

主イエスの再臨とは、今は目に見えない仕方で聖霊の働きによってわたしたちと共にいて下さる主イエスが、目に見えるお方としてもう一度来て下さるということです。今は隠されていて信仰によって受けとめるしかない主イエスのご支配が、その時にあらわになって、全てのものがみな、主イエスに服するようになるということなのです。

その主の再臨をわたしたちは信じて待っているのです。そういう意味で、わたしたちの信仰生活とは主イエスの留守を守っているというようなものなのです。

 

3. 主イエスの再臨において起こること

 

旧約聖書マラキ書第3章13節 以下には、主の裁きの日が来ることが語られています。

わたしたちは、主イエスの再臨による最後の審判、それによるこの世の終りの到来の予告が書かれています。

 

14、15節に、「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ」と書かれています。これがこの世の現実の姿です。主イエスのご支配、神の恵みのご支配が隠されていて目に見えないので、神を信じても虚しいのではないかという気持ちになるのです。

 

しかし16節に、「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」と、目に見えない、隠された神のご支配を、信仰の目で見つめ、それを信じて主を畏れ敬い神に従って生きる者たちの姿が語られています。

 

そして17、18節に 「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、 万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」と書かれています。

「わたしが備えているその日」とは、まさに終わりの日のことです。その日は、裁きの日で、その主イエスの再臨の日には、主を畏れ、神に従う信仰者たちが、神によってその宝として憐れみを受けるのです。そして「正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別」が明らかにされるというのです。

 

その裁きにおいて神のご支配があらわになり、目に見える仕方でその裁きが確立することによって、それまでのように、神を信じて仕えても虚しいのではないかという疑いの余地がなくなるのです。神を信じ神に仕える信仰者が、神によって大いなる憐れみと恵みを受けるのです。

 

主によって選ばれ、信仰が与えられてキリストに結ばれた人にとって、主イエスの再臨によるこの世の終わりの出来事は、主のもとに呼び集められ、主と共にいることが出来るようになる救いの完成の時なのです。この世では、主のご支配がなお隠されています。

わたしたち信仰者は、再臨の日を、主イエスがもう一度来られることを、希望をもって待ち望みつつ生きるのです。

 

目を覚まして主人の帰りを待っているということは、居眠りをしているのを見つかってしまったらどうしようと、びくびくするのではなく、主イエス・キリストによって約束されている神の救いの恵みを信じて、忍耐と希望をもって喜んでこの世を生きることの証しをすることになります。

 

主は、今この世において主イエスの再臨を待つ門番の仕事を、主なる神に代ってわたしたち教会に割り当てられました。そしてそのための権威をもわたしたち教会に委ねて下さっているのです。

使徒信条で、わたしたちが毎週信仰告白しているように、主イエスは、十字架にかけられて殺され、三日目に復活し、天に昇り、今は全能の父なる神の右に座しておられる、と聖書は語ります。

そして続けて使徒信条では、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と未来形で語っています。まさに、ここでなされる審きというのは、わたしたちの審きではなく、神の審きだということです。神は恵み深い方です。主イエスは恵み深く、愛に満ちた方で、その方が神の子でした。聖書が伝えている神は、恵みと愛に満ちた方、慈しみに満ちた方です。そして罪人を赦す権威をお持ちの方がわたしたちの神なのです。

 

主イエス・キリストが、必ず再びおいでになります。わたしたちは目を覚ましていなければなりません。

ですから、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」という信仰告白の言葉を、わたしたちの罪をゆるしてくださる神の全能の力を信頼しながら毎週の礼拝の中で告白しているのです。

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《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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