真理のために共に働く(ヨハネ三1-8)20250921
- abba 杵築教会
- 9月21日
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年9月21日の聖霊降臨節第16主日礼拝の説教要旨です。 竹井真斉牧師(宇佐教会)
(聖書)
サムエル記下17章24-29節(旧約509頁)
ヨハネの手紙三1-8節(新約449頁)
(説教)
〇苦難の道を歩む
聖書にはたくさん王様が登場しますが、聖書の中でもっとも有名なよく知られた王と言えば、ダビデ王ではないかと思います。ダビデ王は神様によって選ばれ、イスラエルの王となりました。しかし、彼の生涯は苦難に満ちたものでありました。神様によって選ばれた後も、すぐに王になるどころか、命を狙われ、長い逃亡の日々が続きます。やがて王になってからも平穏な日々を過ごすということにはならず、自分の息子、アブサロムから命を狙われて、エルサレムから逃げ出さなければならなくなりました。
神様によって選ばれ、神様によってイスラエルの王とされたダビデ。にもかかわらず、次から次へと苦難がダビデを襲うのです。どうしてそんなことになるのか。この問いに対しての答えは簡単ではありません。ただ、このように言うことは出来ると思います。神様に選ばれた者として、ダビデだけが苦難に出遭ったわけではない。神様によって選ばれ、神様によって立てられた者が、生涯平穏な日々を送るということの方が稀なのではないかと思います。(モーセやペトロもそのような歩みであった)
そして、誰よりも主イエス・キリスト御自身がそうです。イエス様は十字架にお架かりになった。神の子であられるのに。神様によって選ばれ、神様によって立てられたという事実と、平穏無事な生涯を送るということは、私たちの期待に反して、簡単には結びつかないものなのです。
先日沖縄で行われた修養会で、講師の吉川先生が献身には苦しさがあると、講演の中でお話になりました。神様を信じ、神様の呼びかけに応えていく、それが献身の歩みですが(だから牧師として生きるだけが献身ではない)、その歩みは必ず平穏無事になるというものではないのです。献身には苦しさがある。でも同時に吉川先生は、献身の歩みは不幸じゃない、必要な助けも励ましも与えてくださる。イエス様の導きを信じていれば絶対大丈夫。最後には必ずハッピーエンドになることが分かっているから。と言われました。
神様を信じて、御心を尋ね求めながら、祈りながら過ごしてきた。でもどんなに頑張っても上手くいかない。苦しい。信仰生活の中でこの思いを抱えたことのある方は多いかもしれません。けれども神様に御声に従って歩む者には、神様の守りと支えがあるのです。神様によって選ばれ、立てられた者には、必ず必要が備えられるのです。しかしそれは、神様御自身が選ばれた者は一切の苦しみや嘆きから遠ざけられるということではなくて、神様に選ばれた者はたとえ苦しみや嘆きの中にあったとしても、必ず神様が守りの御手を伸ばしてくだる、支えてくださるということなのです。困難の中でも、不思議なように助け手を備えられる。そういうあり方で、神様は私たちを守り支え導き続けてくださるのです。
〇神様に備えられた助け人
さきほどお読みいただいたサムエル記下17章には、息子アブサロムによってエルサレムを追われたダビデが、態勢を整えてアブサロムと戦うための備えをした時のことが記されております。ダビデはヨルダン川を渡り、ギレアドの地にあるマハナイムという町で態勢を整えました。そしてそこには、27節にありますように、ダビデとその兵士を支えるために、寝具や「たらい」といった日用品から、小麦やチーズなどの食糧までを差し出す人々がいたのです。彼らは直接、兵士と共にダビデの軍勢に加わったというわけではないのです。しかし、ダビデの軍勢にとって無くてはならない物を提供するというあり方で、ダビデとその軍勢を支えたのです。この人たちの中に、バルジライという人が出て来ます。彼は19章32節以下に記されておりますように、既に80歳でした。彼は、ダビデがマハナイムに滞在する間、ダビデとその兵士たちの生活を支えたのです。この時だけではありません。このバルジライのような人々が、ダビデの生涯にわたって備えられ続けたのです。私はここに、神様の守りと支えがどういうものであるかということを見るのです。
神様は全能のお方でありますから、どのようなあり方でも、私たちを守り、支え、導いてくださいます。私たちが天の御国に至る、吉川先生の言葉で言えばハッピーエンドに至るようにと、すべての道において守りの御手を伸ばしてくださいます。もしあの時こうしていたら危なかった、という経験や、苦難を通しての学びなど、いくつも私たちは思い返してみれば主の守りを見つけることが出来るかもしれません。私たちの信仰の歩みは、この様々な神様の守りの業の証しに満ちていることでしょう。
更に言えば、神様が与えてくださる最も大きな、具体的な守り、支え、導きとして、人との出会いという事が言えるのではないかと思います。私たちは、この人と出会おうと思って、出会っているのではありません。人との出会いというものは、神様が備えてくださるものです。あの時、あの人に出会っていなければ、今の私はない。そういう出会いが、私たちの人生には必ずある。そしてそれは、一人や二人ではないでしょう。実におびただしい人との出会いをもって、父なる神様は私たちを今まで守ってくださったし、今も一日一日私たちを守り支えてくださっているのです。
〇真理に歩むガイオ
このヨハネの手紙三は、ヨハネからガイオという人に宛てられた手紙です。このガイオという人がどこの人だったのかはよく分かりません。新約聖書には、ここに出てくるガイオの他に、3人のガイオが出てきますが、そこに登場する人と同じ人とは違うと言われています。この手紙のガイオは、おそらくヨハネから信仰の指導を受けた人であり、ヨハネが責任を持っていた教会の一つを任されていた人ではないかと思います。このガイオを、ヨハネがどれほど愛し信頼していたかは、1節、3~4節を見れば分かります。「長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。」「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」
ここで「真理に歩んでいる」と繰り返されておりますが、これはガイオが主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに生かされている者として、ふさわしい歩みをしているということでしょう。それは具体的にはどういうことであったかと申しますと、巡回伝道者とでも言うべき人をガイオはいつも喜んで迎え、これを丁寧にもてなし、愛の業に励んでいたということなのです。
当時のキリスト教会は、まだ教会としての制度が整っておりませんでした。多分、それぞれの教会には、その教会の群れを指導する人が立てられていたと思います。9節に登場するディオトレフェスや、そしてガイオもそのような役割を担っていた人だと思います。しかし、当時の生まれたばかりのキリストの教会には、その他に巡回伝道者とでも言うべき人がおりまして、各教会を巡り、主の日の礼拝で説教をしたり、集会を開いたりしていたようなのです。5節に登場する「よそから来た人たち」というのは、巡回伝道者を指しています。現代のようにどこに行ってもビジネスホテルがあるという時代ではありません。ですから、その巡回伝道者を迎えて泊めたり、食事の世話をしたりすることが、教会に責任を持つ人のとても大切な務めだったのです。
ガイオは、その務めをとても良く果たしていたようなのです。3節の「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。」というのは、巡回伝道者のような人が「ガイオの所で大変世話になった」という報告をヨハネにし、それをヨハネも大変喜んでいるということなのです。
〇真理のために共に働く
ヨハネは、8節で「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。」と告げます。ガイオ自身は伝道のために、巡回伝道者のように外に出掛けることはしません。しかし、巡回伝道者を助け支えるというあり方で、主の福音伝道のために共に働く者となっているのです。ガイオは、ダビデに対するバルジライのように、神様に選ばれ立てられた者を支えるというあり方で、神様の御業に仕えていた。私たちも、そのような者として召されているのだと思うのです。
神様は、私たちのためにたくさんのバルジライ(助け手)を備えてくださいましたし、今も備えてくださっています。しかし私たち自身が、愛する者たちのために、神様の御業に仕えている人のために、バルジライとして働くことも求められているということを、今一度確認したいと思います。その歩みの中には大変さ、苦しさを感じることもあるかもしれません。けれどもその歩みの中にも神様のお支えが必ずありますから、喜んで神様の為に、その身をささげる、献身するものでありたい。ガイオが巡回伝道者を支えたように、バルジライがダビデを支えたように、真理のために共に働く者となりたいと願います。

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