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まことのわたしの掟(マルコ12:28-34) 20250629

更新日:7月2日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年6月29日聖霊降臨節第4主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄 


(聖書)

申命記 6章 1節~15節(旧約291頁)

マルコによる福音書12章28-34節(新約87頁)

 

1.立派な答え

 

マルコによる福音書12章28節に、「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。

ここで、「彼らの議論を聞いていた」と言うのは、直前の主イエスとサドカイ派との「復活についての問答」のことです。主イエスが、復活などないとするサドカイ派に対して、聖書に基づいてはっきりと死者の復活について立派に答えているのを見て、この一人の律法学者は、主イエスが自分たちと同じことを教えていることで親近感を抱いたのです。


そのため26節で、主イエスの前にその律法学者は進み出て、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と質問したのです。これまでのファリサイ派の人々の質問は、主イエスを陥れようとする悪意を持ったものでしたが、この質問は純粋なものでした。

主イエスがサドカイ派に対して立派な応答をしている状況を見て、数ある律法の中で主イエスが何を第一の掟とするか、その答えを聞きたいと思ったのです。


2.主イエスの答え

 

29-31節に、主イエスが答えたことが書かれています。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と答え、さらに、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えています。

ここで主イエスが答えた二つの掟には、共通の愛と言う言葉が用いられています。主イエスは、神を愛することと隣人を愛することを別々のこととしないで、むしろ結びつけて切り離すことのできない一体のものとして二つの掟を答えたのです。

旧約聖書には、実に613もの規定がありますが、今日の説教では、この律法学者が、数ある掟の中で一番の掟は何ですかと質問したことに対して、主イエスが旧約聖書を引用して二つの掟を示してこれだと仰ったことについて考えてみたいと思います。

 

3.唯一の主

 

イスラエルの人々が、エジプトでの奴隷生活から脱出し、これからヨルダン川を渡って、自分たちの故郷に帰ろうとしているときに、律法すなわち神の戒めと掟と法が示されました。

先ほどお読みいただいた申命記6章1節(旧約291頁)を開いてください。

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。」だと書かれています。

そして4節には、「主は唯一の主」と書かれています。イスラエルの人々が信じ礼拝する神は、ただお一人である、唯一の神との交わりに生きなさい、という命令をしています。


神がイスラエルの民を選ばれたのは、イスラエルの民が優れたところがあったからではありません。ただお一人の唯一の主の愛によるので、それ以上の理由はありません。

そして申命記6章5節には、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と書かれています。そして主イエスは、この申命記6章5節の言葉を律法学者への答えとして引用されて、第一の掟だと言って示されたのです。


4.隣人を自分のように愛する

 

旧約聖書のレビ記19章18節(旧192頁)には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と、書かれています。主イエスは、律法学者への答えの後半部分で、このレビ記から引用して、第二の掟だと言って「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです。

この言葉は、人間が自分自身のことを愛していることが前提となっています。

ところが、自分を好きになれない、こんな嫌なところが自分にはある、本来のあるべき自分の姿ではない、などなど。そういう思いを抱え、こんな自分では自分を愛せないと、自分への愛に悩んでいる方は、けっこう多くいらっしゃいます。


わたしたちがしばしば用いている表現で「ご自愛ください」という言葉があります。梅雨明けとなった今日のように暑さが厳しいので「ご自愛ください」と言いますが、無理をせず自分の体をきちんといたわってくださいという意味です。

自分が体調が悪くなったとすると、無理をしてしまう場合もあるかもしれませんが、自分を愛するということとは、休んだり、薬を飲んだりすることです。

わたしたちは、まず自分をいたわることを知ってから次のステップに進むことが大切です。

 

妻が病気になる、夫が病気になった場合はどうでしょうか。

自分をいたわるのと同じように、隣人である連れ合いをいたわることができるでしょうか。そういうところで、隣人への愛が問われているのです。

自分の子どもが病気になった場合はどうでしょうか。自分が代わりにこの病気を背負ってあげることができたらよいのに、そう思って子どもをいたわるでしょう。そうであるならば、その子どもを愛している証拠です。

 

聖書でも特に自分を愛することに関して、特別な説明を加えていません。それは自明なこと、当然のこととして書かれています。

しかし、ここで大事なことは、自分のことが好きとか、嫌いとか、そんな次元の話ではないのです。先ず、神に愛されている自分を発見するのです。神に愛されている者として、自分を正しく愛することが求められているのです。自分は神から愛されている、神からの神の愛を受けていることを知って自分を愛するのです。そのことを踏まえた上で、神から自分に注がれている愛を隣人にも注ぐ、これが隣人を自分のように愛することとなるのです。


5.まことのわたしの掟

 

あるセミナーで、「わたしは神さまを愛しているけれども、人を愛する暇がない」とか、「わたしは人への愛に忙しくて、神さまを愛する余裕がない」という言葉を耳にしました。それを聞いた主イエスは、悲しまれます。それでは本物の愛ではない、真の愛に生きるならば、神を愛することと、人を愛することを両立させなさいと仰るでしょう。

神を愛することをせずに人を選んで愛しているとか、あの人は愛するけれども、この人は愛さないとすれば、それは本物の愛となりません。

神への愛も、人への愛も、同じ愛において結びつくのです。

わたしたちは、神が人を愛することを求めておられるということをまず受け止め、その信仰の中で神を愛することと隣人を愛することが一つとなるように主イエスによって導かれていくのです。

 

唯一の主なる神との間に「愛」の関係を持って生きることこそが、十戒をはじめとする神の律法が教えている神の民のあり方の中心なのです。ただお一人の神と自分の関係、他の何者も割り込むことのできない関係、それは愛と呼ぶしかないものです。

そういう意味で、主イエスは「神を愛すること」を第一の掟とされたのです。神は唯一であることと神を愛することとは、分かち難く結び付いているもので、神の民は、ただ一人の主なる神との人格的な深い関わり、愛を持って生きるのです。

神を愛することは、ただ一人の神との交わりに生きるところにこそ成り立つのです。

困った時の神頼みとしてお願いする相手というのは、愛する相手とはならないのです。

 

マルコによる福音書12章32節からこの律法学者の発言が書かれています。

「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」と言っています。律法学者は「ほかに神はいない」と言う言葉を加えています。実は、この発言は、唯一の神の受け取り方において微妙な食い違いがあります。

主イエスが先に29節で、神が唯一であると仰ったのは、神とイスラエルの関係において言われていることです。申命記6章4節も同じです。八百万の神という人間の作った習慣の中で、唯一の神なのか多神教でよいのかということを論じようとしているのではないのです。


その律法学者は続けて、「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と、主イエスの言葉を聞いて二つの掟を一つの言葉としてまとめています。

主イエスの導きに従って、この律法学者は、子どもの頃からよく知っている旧約聖書の二つの言葉を一つにまとめ、さらに、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れていますと言う言葉を加えて、新たな第一の掟のように受け取り直しました。

 

ここで「尽くし」と言う言葉が何度も語られています。ところが、何を尽くすと言っているかに違いがあります。

申命記でも主イエスも律法学者がまとめたのも、最初の「心を尽くし」と最後の「力を尽くし」は同じです。その真ん中の言葉が違っているのです。手品の種を見つけるような気持ちで、聖書の言葉をよく見てください。「心を尽くし」と「力を尽くし」と言う言葉に挟まれているを真ん中の尽くしにかかる言葉は、申命記では、「魂」であり、イエスは、「精神」と「思い」の二つであり、律法学者の言葉では「知恵」となっています。

申命記とイエスの言葉が日本語の翻訳では「魂」と「精神」と異なった言葉で翻訳されていますが、ギリシャ語の聖書原典では同じ言葉(プシュケー)です。主イエスは、「思い」を加えましたが、同じようなニュアンスの言葉です。ところが、律法学者はそのような「魂や精神や思いを尽くし」というのではなく、「知恵・知識を尽くし」としています。


 この律法学者のまとめの言葉を聞いた主イエスは、34節で、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。遠くないと言うことは、方向性は間違っていないが、何かが足りないと言うことです。主イエスは、あなたの目の前にいるわたしを信じてわたしに従って歩もうとする「魂、精神、思い」がない、足りない、あなたは自分の「知恵・知識」に頼っていると指摘しているのです。自分の知恵・知識に頼るのではなく、わたしの道を「魂、精神、思いを尽くして」全行程を走ることであなたは神の国の真実の市民になる、と伝えたのです。

主イエスは、「大切なのは、知恵や知識ではないよ、信仰だよ」と教えたかったのです。

 

わたしたちについて、隣人を真実に愛することができず、赦すことができない、さらには自分自身をも赦すことができず、受け入れることができない、愛することができない、ないものづくしの人間であることを、主イエスはよくご存じなのです。ですから、神がわたしたちを愛して神の独り子主イエスをこの世に遣わしてくださり、わたしたちの的はずれな罪の贖いとして主イエスを十字架に架けられるという愛を示して下さったのです。

 

今日の説教題を「まことのわたしの掟」としました。ここで主イエスが「この二つにまさる掟はほかにない。」と言われた愛のワンセットの教えこそが、まことの主イエスの第一の掟だと仰ったのです。

主イエスは、わたちを愛してくださった唯一の神がわたしたちが主に与えられているもの全てを尽くして信仰を持って主を愛し、また、神に愛されている自分を愛し、そして自分と同じように神に愛されている隣人を愛して、信仰に生きる者になりなさいと仰ったのです。

 

わたしたちは、神に招かれ、信仰が与えられて、神のわたしたちに対する愛を知ることができました。そして、自分の知恵・知識に頼らず、魂・精神・思いを尽くしてみ言葉に従って信仰を持って歩むことが求められています。

み言葉に導かれた新生された歩み、それがわたしたち信仰者の歩みです。主イエスがわたしたちの弁護者となってくださり、すべての罪は赦され、神の国に入ることができるのです。自分の知恵や知識によらず、砕かれた魂・精神・思いを尽くして、心を込めて力の限り精一杯生きることが必要なのです。

 

唯一の神のわたしたちに対する愛を知り、神を信じることから、すべてが始まっていくのです。

そして、ときが来ると実を結ばせ、主の栄光を現わす者へと主によってわたっしたちは変えられていくのです。




 
 
 

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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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