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耐え忍ぶ者(マタイ13:1-13) 20250713

本稿は、2025年7月13日の日本基督教団杵築教会聖霊降臨節第6主日礼拝のおける説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄 

 

(聖書)

エレミヤ書7章1節~15節(旧約1188頁)

マルコによる福音書13章 1節~13節(新約88頁)

 

1.神殿の崩壊と終末の啓示

 

1節で、弟子の一人が、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と言っています。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、クリスマスの物語に出てくるあのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。ガリラヤから出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちは、そのすばらしさに息を呑み、圧倒されたのです。

 

すると2節で、主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われています。

弟子たちがすばらしい建物だと驚嘆しているところで、主イエスが、これらが崩壊したら「もう世の終わりだ」と言われたと、弟子たちが受け止めざる得ないようなことを仰ったのです。

この主イエスの預言は、40年足らずして紀元70年に実現します。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、実際に神殿の歴史は終ります。

 

主イエスは神殿の持つ問題点を見つめていました。当時のイスラエルの民は、自分たちのただ中に主なる神がおられ、自分たちと共に歩んで下さるという、選民意識を持って神殿礼拝を捧げていました。ところが、その意識が逆転して、神殿があるから神が我々と共におられる。神殿がある限り神の守りがある。と考えるようになっていたのです。そのために主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿に頼ることの虚しさを戒めたのです。

 

本日共に読まれたエレミヤ書第7章4節に、「主の神殿、主の神殿、主の御殿という、むなしい言葉に拠り頼んではならない。」と預言されています。

立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまうことが往々にして起ります。神に信頼し、神に依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとするのです。

神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。当時のイスラエルの民は、動物の命を身代わりとして献げて神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けられると考えて神殿礼拝をしていたのです。

ところが主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられたのです。

 

まさにこのとき、わたしたちの罪の赦しと贖いのために、神の独り子主イエス・キリストが来られました。これから、ご自分の体を完全な犠牲として十字架の上で献げようとしているのです。そうした背景の中でのこの主イエスの神殿崩壊の預言は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っているのです。

 

そして4節に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネとアンデレの四人が、オリーブ山で神殿の方を向いて座っておられる主イエスにひそかに尋ねています。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と書かれています。

弟子たちは、神殿の建物のすばらしさに目を奪われてエルサレムの神殿が崩壊するなどということはあり得ないと思っていました。この神殿が崩壊するなら、この世の終わりだと思っていたのです。


エルサレム神殿の崩壊があったら、もうこの世の終わりだと思って、彼らは「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねたのです。世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆を見極めて前もってその時期を知っておきたいと思ったのです。ですから、主イエスにひそかに「いつ?」「どんな徴が?」と質問したのです。

ところが主イエスは、「いつ」とも「どんな徴が」と具体的に答えません。

主イエスが話し始めたことは、終末を見据えてどう生きるかということでした。


わたしたちも、とてつもなく大きな事件や災害が起こると、もうこの世の終わりだと思います。今や、地球環境破壊、温暖化、また核兵器や原子力発電所の存在によって、恐れは現実味を帯びてきています。漠然と、世界は破局へと向かっていると恐れを抱くのは、わたしたちも当時の人々も同じです。

終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと思うのです。もっと一般的な言い方をすれば、これからの自分の人生の見通しを立てたいと思うものです。


しかし主イエスはわたしたちに、そのような見通しを立てることを許しません。わたしたちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。将来のこと、これから起こることを自分の計画の中に組み入れることはできないのです。それは主なる神様によってもたらされる、主の権能によるものだからです。神を自分の計画や予定の中に組み入れようとすることは、それは神を支配しようとする人間の傲慢というものです。神のみ業は、人間の計算に入れたり計画の中に組み込んだりするべきものではありません。心して待つべきものです。主イエスはそのことをここで教えておられるのです。

 

2.「気をつけなさい」

 

5節で主イエスは、「人に惑わされないように気をつけなさい。」、そして9節で、「自分のことに気をつけていなさい。」と、「気をつけなさいΒλέπετε」という命令形の言葉を二度に亘って用いています。

最初の5節の「気をつけなさい」というのは、6節に「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わす」と書かれていますから、「人に惑わされないように」と言うことです。「わたしの名を名乗って『わたしがそれだ』と言う者」、つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、わたしこそ救い主だ、と言って人々を集めることを仰っているのです。

 そして9節では、主イエスは、人というより「自分のことに気をつけていなさい。」と言っているのです。

 

戦争の騒ぎやうわさがなかった時代などありません。ですから、これらの徴は常に存在していて、世の終わりがいつかを知る手がかりにはならないのです。世の終わりの徴は基本的に苦しみであると言われています。しかしその苦しみも、終わりそのものではありません。

つまり、既に世の終わりの徴は現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれほどの苦しみを経なければならないのかは、誰も知ることができないと、主イエスは仰ったのです。わたしたちは、基本的には周りの状況をどうすることもできません。もちろん、わずかな範囲でなら周りの状況を変化させることができますが、限界があります。

特にここで言われている戦争、地震、飢饉といった出来事に関しては、わたしたちの想定外のことが起こってどうすることもできないのです。

そうした事態に直面したわたしたちはどうするのか。いくつかの道があります。無駄な抵抗となっても徹底的に抵抗してもがくのも一つの道です。あるいは、諦める、これも一つの道でしょう。周りのせいにする、そういう道もあります。ところがわたしたちキリスト者が歩むべき道は、主イエスが示してくださっているのです。不条理だと思うこと自体は変えられないかもしれませんが、主イエスが示してくださった道が用意されているという福音を信じて、「自分自身のことに気をつけなさい」ということなのです。

肝心要なことは、結局、自分がどう考え、自分がどう行動し、自分がどう語り、自分がどう生きるかが問われていると主イエスは仰っているのです。

 

3.神がしてくださること

 

弟子たちの「いつ?」「どんな徴が?」「終わりがどうなるか?」という質問には、主イエスは何も答えませんが、代わりに答えてくださったことが、神がわたしたちと共におられて、助けてくださるということです。主イエスは、神がわたしたちのためにしてくださるたくさんのことを教えてくださっています。

 

8節を御覧下さい。「これらは産みの苦しみの始まりである。」と書かれています。産みの苦しみということは、何かが産み出されるということです。

主イエスがここではっきり語っておられるのは、そのような苦しみ、破局は確かに起こるが、それが世の終わりではない、それは産みの苦しみの始まりである、ということです。苦しみ、破局が終わりなのではなくて、それを経て、神による救いが与えられるのです。苦しみは、救いの完成に至るために通らなければならない道なのです。だから、そのような苦しみが襲いかかって来る時に、慌てふためいてパニックに陥るのではなくて、忍耐して、神様による救いの完成を待つことが大切なのです。

 

9節には、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」と、そして10節に、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」と書かれています。

信仰のゆえに憎まれ、迫害を受けることは、それ自体が信仰の証しの機会となるのです。その機会を捕えて私たちが主イエス・キリストを証ししていくことによって、伝道がなされるというのです。わたしたちがまさに不条理な立場に立たされるような場面で、神が共におられ、福音が宣べ伝えられていくことになるのです。これがきちんとなされるまでは、終わりは来ないと主イエスは言われるのです。

 

11節に、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」と書かれています。

不条理な場に立たされる時、何を語ったらよいのか、わたしたちは言葉を失いますが、行き詰りそうな時にも聖霊が共にいてくださるのです。わたしたちの言葉で発することは、わたしたちではなく聖霊が語ってくださるというのです。

 

12、13節aには、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」とあります。

そのような信仰による迫害の苦しみも、世の終わりの徴です。

そしてこのような迫害も、主イエスの時代から今に至るまで、形はいろいろと違ってきますが、ずっと続いているのです。今日の私たちには表立った迫害はないかもしれませんが、信仰のゆえに、周囲の人々と様々な軋轢が起こることは誰もが体験します。そのようなことにおいても、わたしたちは既に世の終りの始まりを体験しているのです。そして主イエスは、わたしたちが受けるその迫害の苦しみが、意味のある、目的をもった苦しみなのだというのです。

 

4.最後まで耐え忍ぶ者

 

13b節で主イエスが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われています。不条理の中にあっても、神が共におられ、神に助けていただきながら、忍耐する。しかも、必ずよき終わりを神が用意していてくださるということを確信して、その終わりを見据えて、その中で忍耐することができる、わたしたちは神と共に歩むことができるということです。

聖書が言う「忍耐」ὑπομένω(ヒュポメノー)とは、神が共におられることを信じて耐えることです。終わりを待ってただ我慢するというものではありません。夜明けを待つ輝く希望の忍耐です。神が共にいて、忍耐を支えてくださいます。そして、神が必ずよいようにしてくださるという、信仰に生きることができるのです。喜びのうちに、讃美を口にしながら、神と共に耐えるのです。わたしたちもそれならできそうです。神が備えてくださるよき終わりを見据えて歩むことができるのです。

 

わたしたちをそのように導いて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいるわたしたちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神の救いを見つめさせて下さるのです。

その聖霊の働きによってわたしたちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。  


 
 
 

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疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

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