へりくだって神と共に歩む(マルコ12:35-44) 20250706
- abba 杵築教会
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更新日:4 日前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年7月6日の聖霊降臨節第5主日の礼拝説教の要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
ミカ書6章6節~8節(旧約1456頁)
マルコによる福音書12章35-44節(新約87頁)
1. 神の右におられ、今も生きて働かれる
これまでに主イエスは、多くの論争をしています。直前には、マルコによる福音書12章30、31節で、主イエスは、一人の律法学者に「あなたは神の国から遠くない」と言われて、まことの主イエスの第一の掟として、唯一の神と隣人を知恵・知識を尽くすと言うのではなく、心と魂・精神・思いと力を尽くして愛しなさいと教えました。そして、今日のマルコによる福音書12章35節では、イエスが、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」と、人々に質問しています。これまでの論争においては、主イエスが質問される側に立つことがほとんどでしたが、ここでは主イエス自らが、人々に問いを投げかけられています。
ここで主イエスは、律法学者たちが「メシアはダビデの子だ」とどうして言っているのかとその理由を人々に聞いています。メシアという言葉の語源は、ヘブル語の「油注がれた者」という意味で、神にある務めを与えられた、油注がれた人のことです。
36節で、主イエスが、ダビデ自身が聖霊を受けて言っていることがこのように書かれています。「主は、わたしの主に「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と言われました」と言うものですが、これは、詩編110編1節の「ダビデの詩」からの引用です。
ここで最初に出てくる「主」とは「神」のことで、「わたしの主」とは「メシア」=救い主を意味しています。神が救い主(メシア)に神の右の座に着くように言われたのです。主イエスは今から二千年前に地上の歩みをされました。
ダビデは、今から三千年ほど前の実在の人物です。ここで主イエスは、ダビデがメシアのことを「わたしの主」と呼んでいるのだから、主イエスは、ダビデの子であり、ダビデの救い主であると言のです。
「右の座」と言う言葉は、使徒信条にも出てきます。主イエスが神の右にいるということは、主イエスが神と等しい権威と力を持っておられることを意味しています。文字通りの意味ではありません。主イエスは、ダビデの子孫としてはるか昔から約束された救い主であるのみならず、神と等しい権威と力を持って生きて働いておられる、右の座とはそういう意味があるのです。
ローマの信徒への手紙1章3-4節の「挨拶」で、パウロが、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」と言っています。
主イエスについて、主イエスがダビデの子孫であることと、主イエスが十字架の死から甦られたことがワンセットになって神の子と定められていることと、まさに主イエスがメシアであるということが強調されています。
マルコによる福音書12章37節で、主イエスが、「このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」と言われています。ここで主イエスは、どうしてダビデが自分の子孫のことを「主」と呼んでいるのか、という単純な質問したのです。この主イエスのこの問いかけに対して、マタイによる福音書22章46節には、だれ一人、ひと言も言い返すことができなかったと書かれています。マルコでは、スルーしています。
確かに人間的な頭の整理のし方では、主イエスの問いかけに答えられません。主イエスはここで、地上の征服者的な力による戦士というメシア像を人々の心から取り去り、そして、神のしもべとなる愛のメシア像を人々に与えようとして、ご自分からこの質問を人々に投げかけられたのです。
神はイスラエルの民との「とこしえ」の約束を覚えていてくださり、約束を成就させてくださいました。
それがダビデの子であり、ダビデの子孫として来られた主イエスです。そして、まことの救い主として、ダビデをはじめ、わたしたちすべての人間の罪を背負い、十字架にお架かりになり、三日目に甦られ、天に上り、神の右におられ、今なお生きて働いておられる、わたしたちの罪を赦すメシア、救い主なのです。このことを伝えたかったのです。
37節bには、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と書かれています。ここに、主のもとに集い、主の言葉を聞く教会の最初の姿を見出すことができます。今日もここに共にいてくださる主イエスの言葉に、喜んで耳を傾けておられる皆さんの姿と重なります。
主イエスは、約束されたダビデの子孫であり、十字架の死から復活されて、神の右に生きておられ、わたしたちの主として、今日もなおわたしたちに語り掛けてくださるのです。
2. 律法学者とやもめの姿
38-40節には、「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と、律法学者の表面的なかたちばかりにこだわる姿を批判しています。
ユダヤ人たちには、外衣の端に房をつける習慣がありました。民数記15章38節(旧約239頁)の「衣服の房」の規定に従っているものです。当時の律法学者たちは、人々の注目を引いて名声を得るために外衣の端により大きな房をつけていました。また、彼らは広場で挨拶されることや会堂や宴会で上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをしていました。
当時の人々がよかれと思っているすべてが、人間の虚栄心という誘惑につながりかねないものだというのです。これは現代も同じかも知れません。
この律法学者の姿と対照的なのが、「やもめ」の姿です。
41、42節に、「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」と書かれています。
主イエスはこのやもめのことをずっと見ておられました。
エルサレム神殿のユダヤ人の女性の庭には、13個のラッパ型をした雄牛の角が並ぶ賽銭箱がありました。第1の賽銭箱には、毎年の神殿税を入れます。第2の賽銭箱には、滞納した税を入れます。第3の献金箱には、清い生きた鳥の献げ物をする代わりに献金を入れると言った具合で、一つ一つの賽銭箱に献金目的の違いがありました。それぞれ13の献金箱の前には祭司が立っていて、献金を捧げる者は、「この献金は、〇〇の感謝を表すために、幾らいくらの金額を献げます」と誓約をして献げていました。しかも献金箱は、ラッパのような形をしていて、コインを入れると大きな音がします。たくさん入れれば大きな音がしますが、わずかならば、チャリンくらいの音しかしません。そのように、人々が人に見られ、人の目を気にするような仕組みが出来上がっていました。
そのような状態でしたから、このやもめがいくら献げたのかは、周りにいた人たちには分かったのです。このやもめはレプトン銅貨二枚を献げました。レプトンというのは、聖書の巻末(55)頁の「度量衡および通貨」の表で確認できます。「最小の銅貨で、一デナリオンの1/128」とあります。一デナリオンというのが、労働者の一日分の賃金でした。一レプトンを献げ、もう一レプトンは自分の手もとに取っておくことができたはずです。ところがこのやもめは、持っている物をすべて、生活費の全部を献げたのです。
主イエスはすぐに弟子たちを呼び寄せて、43、44節で、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。
「はっきり言っておく」というのは、「アーメン」、確かにという言葉です。主イエスが大事なことを言われる時に使われた言葉です。主イエスが「生活費を全部入れた」と言われたところの生活費は、聖書の原典ではβίος(英語のLife)と書かれています。ギリシャ語のβίοςとは、命とか生活という意味です。
このやもめは、自分のいのち全部を入れたのです。これから先どのように生きていくというのでしょうか。わたしたちの生活をどう整えるか、それは人間にとっての一番の問題です。このやもめは、一言も言葉を発していません。ただ自分の持っていた二レプトン・二枚の硬貨すべてを献げたのです。
主イエスが、そのすべてを見ておられました。そのやもめは、自分が主イエスに見られていることに気付かなかったでしょう。
主イエスはこれから、御自身の命を献げるために十字架に架かられようとしています。そのような状況の中で、主イエスはこのやもめとの出会いを喜ばれたのです。
3.へりくだって神と共に歩むこと
たくさんの財産を持っていても、知らず知らずのうちに財産に束縛されている多くの人たちがいます。律法学者のように、人の目を気にして人の前で生きるのは、知らず知らずのうちに見えざる何かに束縛されている生き方です。形を整えなければならないと、そればかりが気になって、心がなくなり、愛がなくなり、神を忘れてしまうのです。主イエスは、この話によって現代に生きるわたしたちクリスチャンの中にも同じ罪を抱えかねないことを警鐘してくださっているのです。
このやもめは、持ち物のすべてをささげました。銅貨一枚を手元にしまっておくことができたでしょう。そうすれば、何らかの足しにはなったでしょう。しかし、このやもめはレプトン銅貨二枚、持っていたすべてを差し出したのです。このやもめは何も持たず、すべての財産から完全に自由な存在です。
このやもめは、神に明日を委ねることができました。主イエスの言葉に従って歩む存在であることを証ししています。この「やもめの献金」の聖書箇所は、へりくだって神と共に歩む不思議で美しい証しとして、2000年の歴史の中で伝えられてきたのです。
すべてを差し出した信仰。そこに大きな象徴的な真理があるのです。
神に明日を委ねるなら、わたしたちも神の御前で生きることになります。
わたしたちの命Βίοςを神に捧げることとは、わたしたちの時間を神に捧げることです。
キリストによって贖われた罪赦された者として、へりくだって神と共に歩むこと、キリストと共に歩む新しい喜びの生活が始まるということです。
そしてその中で、キリストが、小さくても精一杯のわたしたちの命の捧げ物を受取ってくださり、わたしたちの想像を超えたことをしてくださるのです。

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