聖書の言葉が実現する(マルコ14:42-52) 20250907
- abba 杵築教会
- 9月7日
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本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年9月7日の聖霊降臨節第14主日礼拝の説教要旨です。 杵築教会伝道師 金森一雄
(聖書)
イザヤ書 53編 3節~6節(旧約1149頁)
マルコによる福音書14章43-52節(新約93頁)
1.剣や棒を持って
エルサレム神殿では、祭司長、律法学者、長老たちは、様々な問答をして何とか主イエスを陥れようと画策しましたが、すべて失敗していました。ところが主イエスの十二人の弟子の一人のユダが裏切りを企てたことにより、主イエスの十字架の出来事が急展開することになりました。
マルコによる福音書14章43節には、「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。」と書かれています。
ユダの裏切りを得て、祭司長、律法学者、長老たちの主イエスを亡き者にしようとする策略が、現実のものとなったのです。群衆も、武器をもって一緒に来たというのですから、この主イエスの逮捕には相当な人数がいたようです。
正当な逮捕であれば、白昼堂々と主イエスに逮捕状を突き付けて、捕らえることができます。ところが正当性がないので、白昼堂々と主イエスを逮捕することができず、ゲッセマネで暗闇に紛れて、剣や棒といった武器を持って実力行使に出たのです。
44節を見ますと、間違いなくイエスを捕えるために、前もってユダがイエスに接吻することを合図として決めていたようです。そして45節には、「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。」と書かれています。わたしたちには接吻という挨拶の習慣がありませんから奇異に感じるかも知れませんが、これはユダヤ人たちの間では普通のことです。特に律法の教師であるラビとその弟子の間で、「先生」つまり「ラビ」と言って弟子が接吻するのは、尊敬を込めた当時の挨拶で、ユダも他の弟子たちも、毎日そのように主イエスに接吻して挨拶していたのです。
しかしここでのユダの接吻は、主イエスを裏切り引き渡すためのものでした。本来、愛と尊敬を込めた挨拶であるはずの接吻を、ユダは裏切りのために、主イエスを特定する合図としたのです。
主イエスはすべてご存じでしたが、そのような汚らわしい接吻は受けないと顔を背けることなく、ユダの接吻をいつものようにお受けになりました。主イエスは、自分の十二人の一人であるユダが毒を含んだ偽りの接吻をするとしてもなお、弟子として受け入れておられることに頭が下がります。
ユダはできるだけいつもの通りの接吻をしようとしたのだと思いますが、ユダのその唇は恐れに満たされて震えていたに違いありません。主イエスのそばにいた弟子たちも、ただならぬ事態を察して恐れていました。
2. 武器よさらば
47節に、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」と書かれています。
「居合わせた人々のうちのある者」と書かれている言葉に注目したいと思います。「居合わせる」というところは、直訳すると「そばに立っているある者」となります。
剣を抜いた人は誰だと、特定されていません。この部分の情景についてヨハネによる福音書18章10節では、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。」と書いています。剣で傷つけたのはペトロであり、右耳を切り落とされたのはマルコスであると書かれています。剣を用いて暴力を振るったのは、ペテロであったことを皆が知っていたのでしょう。マルコは、あえてペトロと書かなかったのです。一番弟子であるペトロを守るためだったのかもしれません。前後の関係から考えますと、マルコはペトロがこの時には、もはや弟子とは言われず、主イエスのそばに立っているだけの者になってしまっていた。ということを書き記したのではないかと思います。
つまり、恐怖にかられて剣を抜き、大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落としたペトロについて、主イエスと何らの関係のないただそこに立っていただけの者になってしまっていること、しかもそれはペトロだけではなく、全ての弟子たちが、そばに立っているだけの者、たまたま居合わせただけの者になってしまった、ということが主イエスの逮捕の場面で起ったのです。
50節 には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と書かれているとおり、他の弟子たちも皆、主イエスとの関係を否定して、主を見捨ててしまったということなのです。主イエスの周りにいた人たちは全員、恐れに駆られて、主イエスはただ一人、取り残されて孤独になるのです。周りには、誰もいなくなってしまったのです。
マルコによる福音書だけが、次の51、52節をつけ加えています。他の福音書には書かれていないことです。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていたが、人々が彼を捕えようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げて行ったというのです。謎のような話です。人々の想像力を刺激します。昔から多くの人に言われてきたことは、この若者こそ、この福音書を書いたマルコ自身ではないか、 ということです。
マルコ福音書の著者は、使徒言行録第12章12節 に出て来る「マルコと呼ばれていたヨハネ」だというのが通説です。そこには、「マルコと呼ばれていたヨハネの母であるマリアの家に大勢の人が集って祈っていた」と書かれています。マルコと呼ばれていたヨハネの母はキリスト信者で、その家はエルサレムにおける最初の教会の集会所となっていたことが分かります。さらに想像を拡げれば、最後の晩餐、過越の食事をした家は、そのマルコと呼ばれていたヨハネの母であるマリアの家ではないかと考えられます。
そして、51節に出て来る一人の若者は、最後の晩餐会場となっていた家に住んでいて、下着姿で主イエスと弟子たちの後を追ってきていたと想像することができます。ところが、ユダが進み寄って来て、剣や棒を持って武装した群衆が現れてあっという間に主イエスが捕らえられました。
弟子たちは皆、逃げてしまいました。そして主イエスの後を追ってきていたマルコも捕らえられそうになったので、身に着けていた亜麻布を捨てて裸で逃げたということになるのです。
これらは全て推測ですが、大いにあり得ることだと思います。画家が自分自身の姿を絵の片隅に描き込むように、マルコは、この福音書に自分自身を登場させたのです。その心は?と問いたくなります。それは、絵画のスポンサーのように自分のことをさりげなく書き入れて後世に遺したい、というものではありません。この場合は、亜麻布は寝る時に身にまとう布で、それを被って主イエスについて行ったものの自分の危機を察してその亜麻布を捨てて逃げたのですから、誇れた話ではなく、むしろ恥ずかしい話です。信仰における裏切り、挫折、失敗の例です。マルコは、後に初代の教会における有力な指導者の一人となっています。その彼が、自分は主イエスが捕えられた時、裸で逃げ出した者で、わたしもそのときそこにいたと誠実に自分のことを告白しているのです。
3.聖書の言葉が実現する
イザヤ書53章3-6節には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」と書かれています。
ここで、「彼」という一人の人物が出てきますが、具体的な名前は記されていません。イザヤ書は、主イエスの時代よりもはるか昔に書かれた書物ですが、主イエスのことがこのように書かれているのです。この「彼」が、孤独のうちに一人取り残され、他の多くの人たちの罪を担い、他の多くの人が受けるべき懲らしめを担い、他の多くの人に平和が与えられ、いやされ、救われるために、主イエスが苦しまれたのです。主の愛と贖いそして恵みの出来事が預言されているのです。
マルコによる福音書の今日与えられた聖書箇所では、強盗に向かうように剣や棒を持って捕えに来た群衆たち、尊敬と愛の印であるはずの接吻をもって主イエスを裏切ったユダ、恐怖に捕えられて剣を抜いて切りかかり、主イエスとの本来の関係を失ってしまったペトロ、主を見捨てて逃げ去ってしまった弟子たち、恥も外聞もなく裸で逃げたマルコと、様々な人々が登場しています。主イエスの置かれた状況は全く絶望的なものでした。それらの人々の真ん中に、主イエスがおられるのです。
しかし驚くべきことに、主イエスご自身は決して絶望の中にはおられません。
主イエスは、接吻をもってご自分を裏切ろうとするユダをなお弟子として迎え入れ、偽りの接吻を黙って受けられました。恐怖の中にいて強盗にでも向かうように剣と棒を持って主イエスを捕えに来た群衆に対して、白昼に何故自分を捕えようとしなかったのかと彼らの臆病さを指摘しておられます。
このように主イエスは、ご自身の逮捕そして十字架の死への道を堂々と歩んでおられるのです。
この物語で、唯一の希望を見出すことができる、光が見えてくる聖書箇所が49節です。
「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」と、主イエス自ら仰っています。
一番身近にいた十二人の弟子の一人ユダに裏切られ、一番の弟子のペテロも恐怖に捕えられて弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、そのような中で主イエスはまるで強盗でもあるかのように捕えられる、これら全てのことが、聖書の言葉が実現するためである、つまり父である神のみ心であり、主のご計画によることなのだと、主イエスははっきりと意識しておられるのです。
この主イエスの落ち着いた歩みは、恐れや臆病に取りつかれた、主イエスを裏切り、あるいは逃げ去ってしまう周囲の人間たちの姿とは対照的です。
恐怖に捕えられて慌てふためき右往左往している人間たちと主イエスの堂々とした姿を同時に描くことによって、主の愛のご計画を遂行される主イエス・キリストの姿を指し示しているのです。
聖書がわたしたちに示そうとしているのは、わたしたちも主イエスに倣って神のみ心を覚え、それに従っていきなさいとか、慌てふためくことなく頑張りなさいということではありません。
主イエスは慌てふためく人間の弱さをご存知で、だからこそ人々の罪を担い、支えて下さっているということが浮かび上がるのです。だからこそ、逃げ去った弟子たちがペトロと共に、 復活された主イエスのもとに立ち帰り、使徒となることができたのです。主イエスが彼らの弱さ、罪を担い、支えて下さっていたからです。
さらに著者のマルコが、裸で逃げ去った自分の恥ずかしい挫折、失敗の姿を書き加えることによって、聖書を書き記す自分も復活された主イエス・キリストによって担われ、支えられていたという恵みを証しして、「聖書の言葉が実現する」ために自分もまさにその中に置かれていること、それこそがまさに福音、喜ばしい知らせであることを、読者に知ってもらおうとしたのです。

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