黄金・乳香・没薬(マタイ2:1-12) 20251221
- abba 杵築教会
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更新日:16 時間前
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年12月21日待降節第4日礼拝の説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄
(聖書)
ミカ書5章1節(旧約1454頁)
マタイによる福音書2章1-12節(新約2頁)
1.ユダヤ人の王
2025年の待降節に入って、マタイによる福音書からみ言葉をご一緒に聞いていますが、マタイによる福音書は、もっぱら同胞のユダヤ人のために福音書を書いているということを考えながら読み進めてみますと、思わないところで気付きが与えられることがあります。
本日与えられたマタイ2章の主イエス・キリストの誕生物語でも、ユダヤ人と異邦人の受け止め方の相違が際立つように、意識的に書かれていることに気が付きます。
ここでは、ユダヤ人の同胞が大切にしている旧約聖書において預言されていたメシアが、ナザレという田舎町にイエスという名でお生まれになったことは誰にでも分かるのですが、わたしたちと共にいてくださり、インマヌエルという別名で呼ばれることになるので、主イエスには、イエスとインマヌエルという二つの名前があったように書かれていることに気付きます。
さらに、そのメシヤの誕生を喜び祝って受け入れたのは、神さまが選民としたユダヤ人たちではなく、東方の異邦人の学者たちであったことに加え、異邦人の学者たちはメシアの誕生にふさわしい贈り物を幼子キリストにささげたことを書き記しているのです。
マタイによる福音書2章2節に、東方の学者たちが東の方から来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、言っています。東方の学者たちは、旧約聖書で預言者が預言していたことを学んで、そのことを確認しようとしてはるばる星に導かれてここまで来たというのです。
一方で3節には、本来その幼子を深い喜びと感謝を込めて迎え入れなければならないはずのユダヤ人たちが、ヘロデ王を初めとして、みな恐れ、戸惑い、メシア殺害計画を練って実行に移すというのです。そしてヘロデ王は、「祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」とだけ書かれているのです。そして6節に、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」と、預言者が書いていることをヘロデ王に報告しています。
これは、ミカ書5章 1節(旧1454頁)の預言の言葉です。ミカ書の預言では、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と書かれています。
この聖書箇所を取り上げて、祭司長たちや律法学者たちは、東方の異邦人の学者たちは、メシアはベツレヘムから出るという預言がされていることを伝えたのです。ミカ書には、「わたしの民イスラエルの牧者となる」とは、書かれていません。「イスラエルの牧者」という言葉は、サムエル記下5章2−3節(旧487頁)の表現です。イスラエルの長老たち全員がヘブロンで、主の御前でダビデに油を注いでダビデをイスラエルの王とした時に、「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」と、主が仰せになったことまで異邦人の学者たちは知っているのです。
その報告を聞いたヘロデ王の反応がどうだったかは、7節に書かれています。占星術の学者たちから、彼らをここまで誘導してきた星の現れた時期を聞き出し、8節では、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」と言って、学者たちをベツレヘムに送り出しています。ヘロデ王は、自分の立場を危うくするユダヤ人の王として生まれた幼子を拝もうと口先では言っていますが、すでに自分の立場を危うくする対象として幼子を殺害する計画を思案し始めています。
このように、メシアの到来を切望してはるばる幼児を拝みたいと言って東方から来た異邦人の学者たちの姿と、悲しいかな自分の立場だけを守ろうとして恐れたという、ヘロデ王の姿が対照的に描き出されているのです。
2.黄金・乳香・没薬
マタイによる福音書2章9節には、エルサレムのヘロデ王のところを出発した異邦人の学者たちが、「東方で見た星が先立って進み、彼らをベツレヘムの幼子のいる場所に止まった。」と書かれています。そして10-11節に、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」と書かれています。
黄金・乳香・没薬はいずれも高価で希少価値の高いもので、それを献げることで、彼らの信仰告白の本心が見事に表されています。それは、その贈り物には、どのような意味があるものなのでしょうか。
(1)黄金
黄金は、聖書の中に最も多く出てくる金属です。聖書の原典では、黄金も金も同じ言葉です。日本語の聖書では、文脈と神学的な違いを表現して、黄金と金という言葉で使い分けているのです。
金は、財や権力で誘惑や富や偶像を象徴しているものです。アブラハムをはじめ族長が貯めていましたし、ソロモンの神殿や宮殿の建築には多量の金を使用していたと、聖書に書かれています。金は、古代オリエント地方ばかりでなく、エジプトやギリシャ文明、インド、中国の文明でも常に最も高価なものとして用いられていました。
黄金は、輝きや尊厳さで神の栄光や聖性を象徴している文脈において、日本語の聖書では区分して翻訳されています。聖書においては、黄金は富と栄誉の象徴として用いられ、金よりも貴い永遠の宝の表現や王者の栄誉を示している言葉です。
東方の博士たちが、幼子イエス・キリストに対して黄金を捧げたということは、それによって、送り主のこの幼子に「王者の栄誉を帰した」ことを表し、幼子が「永遠に関わる何者かであるか」を告白したということなのです。
それでは、東方の博士たちが、主イエスが王であることをどのようにして信じたのか、ということになりますが、その理由については、マタイによる福音書2章2節に次のように書かれています。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と述べていますので、「星」によるしるしを見たと言うことです。異邦人であった東方の博士たちを主キリストのもとに導かれるために、神さまが、「星」による啓示を与えられ、彼らは幼子を王として認めて対応したということなのです。
(2)乳香
乳香は、幹に傷をつけると乳白色の樹脂がにじみでてくるので、その名がつけられている植物です。古代エジプトでは神にささげる香料として使われ、高価で聖なるものとして用いられていました。このエジプトの習慣が、出エジプトと共にユダヤに伝わり、神にささげる香料として用いられるようになったのです。
乳香を炊いた煙は、神を礼拝する人々と神を結ぶものとして使用されていました。ですから、幼子イエスは、神の前に最も聖なるものであり、それは香ばしい香りとして、神が喜んで受けてくださる供え物として、この幼子の全生涯を暗示しているものなのです。
レビ記2章1-2節(旧164頁)に、「穀物のささげ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を捧げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の一人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。」と書かれています。
このように乳香は、神の前での聖さのしるしです。生まれた幼子イエスは、罪のない方で、成人されてからも生涯罪なき方でした。マタイによる複音書では、東方の学者たちによって、乳香が献げられたことによって、主イエスの聖さを示したのです。すなわち、キリストは聖い方で、永遠の王であることが、このようにして表現されているのです。
(3)没薬
没薬は、強い殺菌力と芳香に特徴があります。他の香料と一緒に混ぜてオリーブ油に溶かした香油や動物脂に溶かしたものが、古代エジプト時代からソロモン時代を経て、祭司や貴婦人たちの化粧品や皮膚薬として用いられました。そしてこれは、死体にも塗られました。
主イエス・キリストの死に際して、ヨハネによる福音書19章39-40節にこのように書かれています。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(およそ30kg)ばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」と言うのです。
当方の学者たちは、そのような死体の埋葬時に用いる没薬をなぜ幼子イエスに献げたのでしょうか。それは象徴的な意味なのでしょう。幼子の誕生時から、主イエスの死と葬りとの関係を指し示しているということです。
この幼子は、永遠の王であり、聖い、罪のない方であり、わたしたちの罪の身代わりとなってくださるのです。主イエスは、わたしたちの罪を負い、ご自身の十字架の死によって、わたしたちの罪の贖いのわざを成し遂げられました。まさに、この幼子はメシヤとしての使命を全うしてくださる方であることを、この献げ物により指し示されたのです。
皆さんのところに、お子さんが産まれたときのお祝いの贈り物として、死体に塗ったり、ミイラに用いる没薬が含まれていたらどう思われますか。不快な気持ちになって、何か恨み事でもかったのかと考え込むことになりませんか。そう考えていただければ、この幼子はまったく別次元の方であることが、お分かりいただけると思います。すなわち、この幼子こそが、神さまが送ってくださった贈り物であった方なのです。
イエス・キリストについて、イザヤ書53章4-5節(旧1149頁)には、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きの罪のためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と書かれています。
東方の博士たちは、異邦人の代表としてメシヤとして誕生した幼子イエスを王として、また聖なる方として、しかし一方で、イザヤ書で預言されていたとおりに、わたしたちの罪と咎のために、主イエスが懲らしめを受け、そして十字架において死に、葬られる方であることを認めて、自分たちの信仰をあらわしたのです。
3.わたしたちは何を献げることが出来るのか
このように東方の博士たちから学ぶことが多いのですが、わたしたちは、そのような献げものする必要はありません。なぜなら、黄金・没薬・乳香とは較べものにならない主イエスの十字架の死が、わたしたちの罪と咎の身代金として神の裁きの座に差し出されたからです。
新約時代に生きるわたしたちがなすべきことは、新約聖書に書かれています。聖書の複数の箇所から聞かせていただきましょう。
(1)ローマの信徒への手紙12章1節(新291頁)に、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と書かれています。
(2)フィリピの信徒への手紙4章18節(新366頁)には、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」と、書かれています。まさにパウロの生きた歩みは、人々に対してキリストの香りとなっているのです。
(3)コリントの信徒Ⅱ2章15-16節(新327頁)には、「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」と、書かれています。
(4)ガラテヤの信徒への手紙2章20節(新346頁)には、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と書かれています。
異邦人の当方の学者たちささげた贈り物に彼らの信仰告白が見事に表されていますが、それ以上に彼らの信仰の姿勢に心をゆすぶらされ、ふるえます。本来ならば、深い喜びと感謝と賛美を込めて迎え入れなければならないユダヤ人たちは、ヘロデ王を初めとして恐れ、戸惑い、メシヤ殺害の計画を練って実行に移したのです。自己本位な人間のおぞましい姿です。
わたしたちは栄光の王・キリストに、自分の信仰をささげてこそ、真の喜びと賛美のみちを歩み続けることができるのです。
わたしたちが毎週このように、礼拝堂に集って礼拝していることこそが、香ばしい香りを放つものとなることであり、主が喜んで受けてくださるのです。この2025年のクリスマスも、わたしたち一人一人の日々の歩みの顧みる時とさせていただきましょう。そしてインマヌエルの主を賛美しましょう。




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