top of page
検索

子ろばに乗って(マルコ11:1-11) 20250518

更新日:5月21日

本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年5月18日復活節第5主日礼拝での説教要旨です。

杵築教会 伝道師 金森一雄 

ree

(聖書)

ゼカリア書9章9-10節(旧1489頁)

マルコによる福音書11章1-11節(新約83頁)

  

1.主がお入り用なのです


本日のマルコによる福音書11章1節の冒頭の小見出しには、「エルサレムに迎えられる」と書かれていて、主イエスがエルサレムに入城された出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに書かれています。主イエスのエルサレム入城がとても重要な意味をもっていることが分かります。この時、主イエスは、ガリラヤ地方で伝道を開始してからおよそ三年が経っていました。当時は、首都エルサレムを始め主な都市は皆外国の軍隊に占領されていて、役人は軍人と結託して汚職を行い、民衆は重税に苦しみ、政治と道徳の腐敗をきわめていました。イスラエルの人々は革命とメシアの来臨を強く待ち望んでいました。彼らのメシア像は、戦えば必ず勝利する、権威に満ちた、ダビデ王国の再現を果たす力ある者でした。主イエス・キリストは、そのような状況の中でエルサレムに入城されたのです。

 

マルコは、主イエスがエルサレムに入られる前の出来事を詳細に書いています。

10章1節に、主イエスの一行が、ベタニヤ(なつめの木)とベトファゲ(いちじくの木)にさしかかった、と書かれています。ベタニヤは、エルサレムの東側約3kmの、オリーブ山のふもとにあり、エルサレム巡礼者の公認宿泊地です。

2節で、主イエスは、二人の弟子を向こうの村ベトファゲに遣わします。まだだれも乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかるので、それをほどいて、連れて来なさい。と指示しています。

さらに3節では、もし、だれかが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。と入念な指示をしています。

4節には、「二人の弟子が出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。」と書かれています。

5、6節には、「すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人がイエスの言われたとおり話すと、許してくれた。」と言うのです。実にスムーズに子ろばを調達できています。

 

2.子ろばに乗って

 

本日与えられた旧約聖書のゼカリヤ書9章9、10節(旧約1489頁)には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」と預言されています。

 

ユダヤ人にとってのメシヤは、神に従う高ぶることなく、ろばに乗って来る平和の王だと書かれています。当時のパレスチナでは、王が戦いに出かけるときには馬に乗りましたが、平和のうちに来るときには、王がろばに乗っていました。ろばは、高尚な動物とされていたのです。

今日のマルコによる福音書11章の聖書箇所で、エルサレム入城において、主イエスが選んだのは、戦争では役に立たない子ろばでした。主イエスと一緒にガリラヤから巡礼に来ていた人々は、乗せたことのない子ろばにイエスが人が乗っているのを見て、この預言の言葉を思い出したことでしょう。

マタイによる福音書21章4節には、この主イエスの子ろばの調達について、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とはっきり書かれています。父なる神から与えられた十字架に架かられる使命を遂行するために、ゼカリヤの預言に従って用意周到に事を行っていたのです。

  

この世の王は、自分の権力によって何でも自分のものにしてしまいます。時には相手の命さえも自分の意のままにし、兵隊として徴兵し命を差し出させます。何でも奪い取ったら奪いっぱなしで、それを返すようなことはしません。当然、軍馬の調達は有無を言わせず行われていました。3節で、「すぐここにお返しになります」と言う言葉は、村人に快く受け取ってもらえたのでしょう。

主イエスのエルサレム入場は、このように子ろばに乗ってエルサレムに入るという象徴的な行動を通して、ご自身がメシヤであること、しかも力によるメシヤではなく平和の中にやって来る方であることを示しています。主イエスは、このとき自分が何者であるのか、革命や戦争をするためにやって来たのではなく平和をもたらすことが目的であることを公然と示したのです。

 

3. ホサナ、ホサナ

 

8節以降は、実際のエルサレムへの入城の場面に移ります。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」と書かれています。

丁寧に読み進めてみましょう。

 

「多くの人」が自分の服を道に敷き、「ほかの人々」は葉や枝を道に敷きます。どのくらいの数の人がいたのかは書かれていません。エルサレムの住人が、こぞって服を敷いて道に敷いて出迎えたのではないのでしょう。もしかしたら、主イエスに従って来た身内だけで、こういうことを行ったのかもしれません。


ダビデ以降、歴代の王たちはこのエルサレムで国を治めてきました。ダビデ王の子孫にイスラエルのまことの王である救い主が現れ、その王国が実現する時、イスラエルの民の救いが実現する、という旧約聖書の預言の成就を期待していました。当時の人々のメシア観は、まことの王、力のある救い主が来て、ダビデの王国を力をもって再現して下さるというものでした。人々が主イエスを王としてエルサレムに迎えたのは、主イエスこそ待ち望んでいた救い主、ダビデの王国を再現する力あるまことの王ではないか、という期待によるものです。

そこで、主に従う者が、まだ主イエスのことをよく知らないエルサレムの住民たちに向かって、ホサナ、ホサナと叫んだのです。ホサナは、ヘブライ語で「今救ってください」と言う意味です。「主の名によって来られる方」「我らの父ダビデの来るべき国」に祝福があるように。と叫んだのです。

 

9節には、「前を行く者も後に従う者も叫んだ。」と書かれていますから、叫んでいる人は、主イエスの歩まれる道を共に歩んでいる者です。その中には、ガリラヤからずっと主イエスに従って来たペトロを初めとする弟子たちがいるし、先週読んだ10章の終りで、主によって目が見えるようになって、主イエスに従って来たバルティマイもいたでしょう。彼らは、主イエスと共に、主イエスに従って歩みつつ主イエスをほめたたえたのです。

 

この様子は、過越祭などのためにエルサレムに巡礼に来た人が歌った詩篇118編25節から27節(旧958頁)の引用です。今日の礼拝の冒頭の交読詩編で用いさせていただきました。紀元前164年にハスモン家の一族であるユダ・マカベアが反乱の先頭に立ち、神殿をギリシャ人から武力で奪還したことを祝うハヌカ(奉献)の祭りに由来するもので、力の征服者メシヤの詩編と言われているものです。

主イエスの考えている武力によらない平和の王による救いとは異なるものですが、ユダヤ人の歴史において、力による神殿奪還となる勝利の王、救い主を迎えるときに、ふさわしい言葉として、祭りごとで用いられていたのです。

 

主イエスは、力による神殿奪還となる勝利の王というユダヤ人たちの一般的なメシア観は間違っていることを示されたのですが、人々は悟らなかったのです。人々の歓迎はすべて、愛の王、平和の王にはふさわしいものではなく、イスラエルの敵を粉砕する力による征服者にふさわしい歓迎の叫びになったのです。このため、主イエスとエルサレムの権力者たち、さらにはエルサレムの権力者たちの背後にいるローマ帝国との緊張関係が一気に高まります。

そして、エルサレムでは、一触即発の緊張が続いて、イエスの逮捕、十字架刑へとつながっていくことになります。

 

イエスには、死を覚悟してまでも人々に伝えなければならないことがあったのです。それは、神の選民であるイスラエル民族全体が、今こそ神の前に悔い改めて方向転換しないと、恐ろしい将来が待ち受けていることを伝えようとしたのです。ですから、主イエスは、実に、控えめで、へりくだった王の入城の姿でした。人々が自分の服や野原から切って きた葉の付いた枝を道に敷いたというのも、貧しい、また雑然とした姿です。人目を引くようなことでもなかったと思われます。

イスラエルのまことの王、救い主がエルサレムに入り、神殿に来られるというのは、本来ならエルサレム中が大騒ぎ、大混乱になるようなことですが、そんな騒ぎにはなっていません。

 

このことは、もう一つの大事なことをわたしたちに示しています。

それは、まことの王であり、救い主である主イエスが来られても、誰でもがそうとはっきり分かるものではないということです。それが分かるのは、「前を行く者と後に従う者」、つまり主イエスと共に歩み、主イエスに従って行く者たちなのです。つまり、主イエスが来て下さったことは、主イエスによって召され、招かれて、主イエスと共に歩み、従っていく信仰に生きていく中でこそ分かっていくということが、ここに示されているのです。

 

4.ベタニアでの静思のとき

 

11節に、「こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」と書かれています。多くの人々は 主イエスが神殿に来ても全く意識していなかったようです。

エルサレムへの巡礼者たちは普通、神殿で礼拝するためにやって来るのですが、主イエスは先ず神殿の境内の様子を見て回っています。礼拝したのではなく、偵察したのです。神の神殿においてどのような礼拝が行われているのか、その礼拝は神に喜ばれるものなのか、そのことを見て回ったというのです。

  

それから夕暮れになっていたので、「12人を連れてベタニアへ出て行かれた」と書かれています。弟子たちはここに至っても、何が起きるのかほとんど何も知らなかったようですが、それでもなお主イエスに従って、イエスのそばにいました。ここには、弟子たちが「静まって、主と共にいること」の重要性が書かれているのです。それは、主イエスがどこから力を得ていたかを物語っています。

主イエスは、慌ただしいエルサレムを離れて心安まるベタニアに戻られて、明日の律法学者とファリサイ派の人々との戦いに出る前に、神との交わり、神の臨在を求められているのです。


一人静かなところに退いて父なる神との交わりを絶やさなかった主イエスの姿から、静思のとき、一人静かなところに退いて、祈りの内に主と交わること、静まって御言葉を思い巡らして、そこから主の語りかけを聞くことの大切さを学びます。

私たちクリスチャンは、主日礼拝や静思のときだけ主の前に出るだけでなく、主の愛に包まれて究極的には生活そのものが主と共に生きる者へと変えられて行きます。やりたいこと、やったほうがいいこと、やらなければならないことが沢山ありますが、そのひとつひとつを祈りと御言葉によって判別して生活全体を主の向けていくことように聖霊によって導かれます。

 日々の喧騒の中で、立ち止ってメンテナンスするところが、主イエスと弟子たちにとってのベタニヤでした。皆さんにとってのベタニアがあるはずです。

ベタニアでの静思のときを意識してください。それは、トイレやキッチンや公園や山の中かも知れません。そこでは、あなたの心が安まり、主と出会い、主に自分自身をメンテナンスしていただく、主との愛の交わりがあるのです。

ree

 
 
 

Comments


〒873-0001

大分県杵築市296

☎0978-63-3300

《教会基本聖句》

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

​(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

  • Facebook
  • Instagram
  • X
  • TikTok

 

© 2025 by 日本基督教団 杵築教会. Powered and secured by Wix 

 

bottom of page