実を結ぶいちじくの木(マルコ11:12-21) 20250525
- abba 杵築教会
- 5月25日
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更新日:6月19日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年5月25日の復活節第6主日礼拝説教要旨です。 杵築教会 伝道師 金森一雄

(聖書)
マルコによる福音書11章12-21節(新約84頁)
イザヤ書56章1-8節(旧1153頁)う
1.いちじくの木を呪い、根元から枯れる
今日の説教箇所は、主イエスのエルサレム入城後二日目の出来事に入ります。
最初に今日の説教箇所を切り取った部分の構造を確認しておきましょう。
マルコによる福音書12、13節に、いちじくの木の話が書かれています。空腹を覚えたイエスが登場して、「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの木が実を結ばせる季節ではなかったからである」と書かれています。実のなる季節ではないのならしょうがないと思わされるのですが、それでも14節で、「イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。とかかれています。主イエスが季節外れなのにいちじくの木が実をならせることを無理に望んでいることになりますが、それには訳がありそうです。
それから一行はエルサレムに来て、15節から「神殿から商人を追い出す」という小見出しがあって、商売人の台や腰掛けを主イエスがひっくり返した出来事が書かれています。そして19節には、夕方になると都の外(ベタニヤ)に出ていかれたと書かれていて、エルサレム到着後の二日目を終えています。
この主イエスの宮清めの出来事があった翌日の三日目の早朝のこととして、20節に、そのいちじくの木が根元から枯れていたと書かれています。
今日の聖書箇所は、マルコの編集の特色であるサンドイッチ構造になっています。最初のパンの部分が13節から14節の実をつけていないいちじくの木の話で、それから、サンドイッチの餡の部分として、15節から18節のイエスによる宮清めの出来事が書かれています。それから20節で、もう一方のサンドイッチのパンの部分として、三日目の早朝、そのいちじくの木が根元から枯れていたと書かれて、サンドイッチの構造ができ上っているのです。
どうやら、今日の聖書箇所を理解するためには、餡の部分の宮清めの出来事と、それをはさむサンドイッチのパンの部分のいちじくの木の話をいっしょに味合わうことが必要なようです。
2.神殿から商人を追い出す
それでは先にサンドイッチの餡の部分を見てみましょう。15、16節には、「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と書かれています。
15、16節に、「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と書かれています。
二日目は、主イエスは、神殿に真っ直ぐに向かわれます。そして商売人を神殿から追い出し、両替商の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。平和の王であると宣言しましたばかりの主イエスが、感情的な怒りをあらわにしている出来事として注目されます。
二日目は、主イエスは、神殿に真っ直ぐに向かわれます。そして商売人を神殿から追い出し、両替商の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。平和の王であると宣言しましたばかりの主イエスが、感情的な怒りをあらわにしている出来事として注目されます。
広い神殿の境内のいちばん外側に、「異邦人の庭」と呼ばれる所がありました。
そこは、本来ユダヤ人ではない外国人が祈りをささげる場所でした。しかし、静かに祈りをささげるような雰囲気ではなかったようです。当時は多くのユダヤ人たちが、過越の祭などでエルサレム神殿に巡礼に来ていました。神殿は、各地から巡礼に来た人々でごった返していました。そこには、巡礼者相手に鳩を売る人や両替商がいました。
巡礼者が、神殿で捧げるものは、神殿の捧げ物として相応しいもので、清く、傷の無い動物でなければなりません。そうした羊や鳩などの動物を持って、旅するのは大変でしたから、巡礼者は神殿の境内で世間相場より割高な値段で犠牲の動物を買い求めていました。また、巡礼者は日常使っている貨幣を神殿奉納に指定していた通貨として、イスラエルのシェケルに両替しなければならなかったのです。当時用いられていた貨幣には、ローマ皇帝の肖像が彫り込まれていましたから、ユダヤの神殿に捧げることはふさわしくないとされていました。このような祭儀の律法規定を守るユダヤ人の厳格なしきたりが、祈りの場である神殿を商人の私利私欲を満たすための商売の場に変えていたのです。
当時の神殿の構造を見てみますと、中央には大祭司が年に一度だけ入れる「至聖所」がありました。その周りに祭司だけが入れる「聖所」があり、さらにその周りにはユダヤ人の男性だけが入れる「イスラエル男子の庭」とユダヤ人の婦人だけが入れる「イスラエル婦人の庭」、そして、その外側に異邦人が入れる「異邦人の庭」がありました。神殿全体が、大祭司か祭司か、祭司なのか信徒なのか、ユダヤ人の中でも男か女か、そして、ユダヤ人か異邦人かで厳格に区切られていたのです。
今回問題となっている「異邦人の庭」は、神殿の最も外側に位置していて、内側のユダヤ人たちの庭とは柵で仕切られていました。異邦人の庭からさらに中へ進む出入りの口の門には、ギリシャ語とラテン語で、「異民族の者は何人も聖所の内側に立ち入ることを許さず。もしそれに背き捕らえられたら、自らを死に招く。」と大きく書かれた板が掲げられていました。このような神殿の構造でしたから、全ての人が、「異邦人の庭」を利用して、犠牲の鳩を買ったり、献金のためのシェケルへの両替をする備えの場所にしていたのです。
主イエスは、旧約聖書イザヤ書56章7節を用いて、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われました。「わたし」とは父なる神のことです。神殿はすべての国の人の祈りの家なのです。
また、エレミヤ書7章26節(旧1188頁)を用いて、主イエスは、巡礼者からお金をむしり取る「強盗の巣」にしている、と言われました。強盗は、自らの思いや欲望を満たすためには手段を選びません。力づくで家に押し入って、家自体を占有したり、暴力によって自らの思いを実現させようとします。まさに強盗が家に押し入るように、人々によって神殿が占有され、自分たちの思いを実現する場所となっていたのです。
このように、異邦人が真の礼拝を捧げるための「異邦人の庭」が、人間の貪る思いによって、神殿が本来あるべき姿とはかけ離れた状態になっていたのです。そのため、主イエスが怒りを覚えられたのです。このことは、神の家が人々の家となる時に、すべての人の祈りの家ではなくなるという、主客転倒となっていないかという、現代に生きるわたしたちの教会への警鐘だと言えそうです。
18節には、これを聞いた人々の反応が書かれています。突然の騒ぎで、祭司や律法学者たちもやって来ました。騒動が起これば、その責めを問われかねない祭司長たちは、自分たちは間違っていた、と反省したのかというと、そうではありません。イエスをどのようにして殺そうかと謀ったと言うのです。群衆が皆、主イエスの教えに打たれていたため、すぐに主イエスを殺すことは出来なかったのです。そこで彼らは、自分たちの正当性を主張して、主イエスを殺すことが正しいと判断されるように策を労します。主イエスを死においやることが出来るようにといろいろ思い巡らすのです。
自分が主人となって、神殿の中で自分勝手に振る舞い、自分たちがその家の主人としてあり続けるために、真の主人を殺す正当な方法を考え、自分たちの正しさを主張しながら主イエスを殺そうというのですから、まことに身勝手そのものです。そしてその末路は、神殿の主である主イエスを殺してしまうことになるのです。主イエスの十字架の死は、人々の罪を贖うための犠牲です。主イエスの犠牲によって、もはや、神殿で犠牲を捧げる礼拝は必要なくなったのです。マルコによる福音書15章37、38節(新96頁)には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と、神殿の一番奥の至聖所と聖所を隔てていた神殿の垂れ幕が、イエスの死と共に、上から下まで真っ二つに裂けたと書かれています。まさに主イエスの十字架上の死は、何重にも隔てられた神殿礼拝の終わりを告げた出来事となりました。
そして19節に、主イエスは夕方まで神殿で教えたあと、またエルサレムを出て、都の外ベタニヤに出て行かれたと書かれています。そして20節からは、主イエスがエルサレムに入られた三日目の出来事が書かれています。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。」と書かれていて、サンドイッチ構造の餡の部分の宮清めの出来事とパンの部分のいちじくの木の話がここで終わります。
3.実を結ぶいちじくの木
主イエスを信じる者は、イエスを受け入れて罪赦された者として、教会を建てあげる者となります。わたしたちは、主イエスの体とされ、わたしたち自身が、キリストを頭とした神の家を建てる者として用いられて、神の栄光を現すものとされるのです。もはや神殿で和解の捧げ物をする必要はありません。十字架で死なれ、三日目に復活された主イエスの下に人々が集められ、自分の罪を悔い改めて、本来の主人である主イエスに、自分が占有している場所を明け渡すのです。
ガラテヤの信徒への手紙3章26節に、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ているからです。」と書かれています。わたしたちが、すべての人の救いである主イエスの十字架を受け入れて、その下に集められる時、真の神殿としてのキリストの教会が建てられ、すべての人の祈りの家としていつでも多くの実りを実らせることができるのです。
ユダヤの人々は、主イエスから機会を与えられ、神の時が与えられていたのに実を結ばなかったのです。そのため、今や彼らの滅びの時が来ているという警鐘がなされていたのです。つまり、ここでは、神を礼拝する神の家を、神が支配しているのか、それとも人間が支配しているのかが問われているのです。
エルサレム神殿は、紀元70年に、ローマの軍隊によって完全に破壊されてしまうことになります。以後、地上の神殿は廃墟とされ、今に至っています。
それによって、「すべての民の祈りの家」としての教会が全世界に広がっているのです。主が来られる終わりの時を待ち望みつつ、わたしたちは、つねに、主イエス・キリストを主人とする神の家を建て続けているのです。わたしたちが、主イエスの救いの下に集められることによって、主の設計通りの主の家を建てる者の一人とさせていただくのです。
そこでは常に、神の実りの時(カイロス)があります。
主イエスが再び来られる時に、わたしたちは根元から枯れることなく、実を結び続けるいちじくの木に成長させていただいているのです。
詩編1編1節から3節をお読みします。
1:いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2:主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3:その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
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