祈りの意味(マルコ10:46-52) 20250511
- abba 杵築教会
- 5月11日
- 読了時間: 10分
更新日:5月21日
本稿は、日本基督教団杵築教会における2025年5月11日復活節第4主日礼拝の説教要旨です。
杵築教会 伝道師 金森一雄

(聖書)
歴代誌下1章7-12(旧約671頁)
マルコによる福音書10章46-52節(83頁)
1.「三つの願い」
「三つの願い」という、フランスの有名な童話をご存知ですか?
決して裕福ではないけれど真面目な暮らしをしていた老夫婦の話です。
二人の前に御使が突然現れて、「あなたがたの願いはいつも聞いている。あなたがたに、三つの願い事をかなえてあげる。ただ、願ったことの取り消しはできません。」と言いました。夫婦二人で何を願うか散々話し合いました。
夕方になってお腹が空いてきたので、奥さんが思わず、「大きなソーセージが食べたい」とつぶやきました。すると、目の前に1mものソーセジが現れました。驚いたご主人は、「なんてこった。食いしん坊のお前のせいで、大事な願い事が一つへってしまった。もったいない。こんなソーセージなんか、お前の鼻にでもぶらさげられてしまえ」と言うとその通りになりました。
そして、三つ目の老夫婦の願い事は、その大きなソーセージを奥さんの鼻から取ってもらうことにした。という話です。そして、それから二人は、お互いに二度と不満を言うことなく自分たちの生活を大切にしたというものです。
神への祈りは聞かれると信じているわたしたちですが、この童話のように、もし最後に一つだけ願い事をすることが許されるとすれば、何を願いますか。
誰も自分の「一番の願い」をすると思います。もし、その自分の「一番の願い」が叶ったならば、その後はどうなるのでしょうか。
2.何をしてほしいのか
マルコは、直前のマルコによる福音書10章32節(新82頁上段)で、三度目の受難予告を書き記しています。「死刑宣告」という一段と詳しい言葉を加えています。
それに続けて、35 節でゼベダイの子、46節ではティマイの子が願いごとをする物語を連続して並べて書いています。
35節では、ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネが、主イエスに「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言うと、36節で、主イエスが同じように「何をしてほしいのか」と言っていました。ヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言っています。
一方、48節では、ティマイの子、盲人バルティマイが主イエスに、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたと書かれています。51節で、主イエスが「何をしてほしいのか」と盲人バルティマイに声をかけます。すると、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えています。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いは、主イエスの左右、すなわちもっとも上席に座りたいというものでした。もしこの願いが叶ったら、ずっとその位置にとどまりたいと願うのでしょうか、あるいは、自分たちの待遇をもっとよくしてほしいとか、自分の身内を同じように高い地位につけて欲しいと願うのかもしれません。そのような願いは際限がなくなります。童話の老夫婦のように、二度と不満を言わず、自分たちの今の暮らしを大切にしたということにはならないでしょう。小さな子供が「一生のお願いです」と言っているのと同じです。そういう願いをする人は、不満が絶えず生じてきて、今日も明日も明後日も、来る日も来る日も「一生のお願いをする」ことが続くのです。
ゼベダイの子とティマイの子が、主イエスに願ったことの質は、まったく異なるものです。
神は、わたしたちが願いごとを口にする前からそのことはご存知です。主イエスは、どちらの場合も「何をしてほしいのか」と同じ問いかけをしています。
マルコが、35 節でゼベダイの子、46節ではティマイの子が願いごとと、二つの異なる願いごとを連続させて編集したことには、祈りの大切さについてマルコの特別な思いがあったのではないかと思います。そのようなことを思いめぐらしながら、今日の説教題を「祈りの意味」とさせていただきました。ご一緒に主の御旨を尋ねて参りましょう。
3.バルティマイの祈り
今日与えられた説教箇所のマルコによる福音書の第10章46節には、「盲人バルティマイをいやす」と小見出しが付けられています。
主イエスの向かっている目的地エルサレムに入られる直前の訪問地としてエリコの町が登場しています。エリコは海抜下△250mにある世界最古(BC8千年)の城壁で囲まれた町です。エルサレムは、この先、西に向かって、直線距離で22kmです。エルサレムはオリーブ山の頂上近く標高750mのところにあります。ですから、エリコとエルサレムの標高差は、千mもあり、険しい登り坂が続いています。
マルコ10章46節に、エリコの町に着いた。町を出た道端でイエスさまと盲人バルティマイの出会があったことが書かれています。当時のエリコは、古代エリコの行政地区の町と、2km離れた高台に広がる住居地区のエリコの町の二つの町で構成されていました。エリコの町に着いて、町を出たということは、主イエスの一行が行政地区のエリコの町を出て住居地区のエリコの町に向かう道の道端での話であることが分かります。障碍を持った人は町に入れなかった障碍者蔑視の当時の風習が表わされています。
ところで、現実のこの世界に生きるわたしたちにとって、何を願うかということ以上に大事なことがあります。それは、誰に願うかということです。わたしたちが何かを願っているとすれば、誰かにそれを願っているはずです。誰に願っているのかがよく分からないなら、ひとり言、自己満足で終わってしまいます。バルティマイは、主イエスへの異常なこだわりを見せています。
47節で、物乞いをしていたバルティマイは、「ナザレのイエス」が通られていることを聞きつけて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めています。48節では、「多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとしましたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」と書かれています。
「ダビデの子」というのは、ユダヤ人にとって「来るべき救い主(メシア)」を表す言葉です。バルティマイは、「ダビデの子」が救い主だというユダ人の知識を持っていたのです。
49節で、主イエスが立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。この49節には、「呼ぶ」という言葉が三度も出てきます。主イエスの「呼んで来なさい」という一言で、その場の雰囲気が一変します。それまでは、叫び続けているバルティマイを𠮟りつけて、何とか黙らせようとしていた人々でしたが、主イエスの「呼んで来なさい」と言う一言で、彼らの対応が打って変わりました。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」とバルティマイに声をかけるほどに変化しています。
すると50節で、バルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と書かれています。躍り上がると言う言葉は、聖書では、礼拝の喜びを表現する言葉です。大喜びをしながら、もう目が見えたかのような歩みです。
それから51節で、主イエスが「何をしてほしいのか」と言われて、バルティマイは「目が見えるようになりたい」と、躊躇せず即答しています。「目が見えるようになりたい」という言葉をギリシャ語の聖書で確認しますと、「もう一度」という接頭語を付した合成語で書かれています。直訳すると、「もう一度見えるようになりたい」と言っていますから、バルティマイが生まれながらの盲人ではなかったことが分かります。マルコ8章23節で、主イエスが盲人の手を取って・・その目に唾を付け・・と言った仕草をしたとは、書かれていません。ただ、バルティマイの信仰があなたを救ったとだけ、書かれているのです。
4.願い事が叶ったら
目が見えるようになりたいという願い事が叶ったバルティマイは、道端に座ってばかりというわけにはいかないでしょう。決して背伸びする必要はありませんが、自分の力で精一杯のことをして生きていくことが必要となります。
バルティマイが、そこまで考えていたかどうかは分かりませんが、願いごとをすること、願い事が叶うということには、大きな責任が伴うのです。
願い事が叶ったらば、叶えてくださった方への感謝を表すことが大切です。感謝することによって、わたしたちの生き方が変わるのです。
盲人バルティマイは、罪による闇の中で、真の救い主である主イエスを見い出せない状態にいましたが、主イエスにいやされ、52節で、主イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、主イエスと共にエルサレムに向かう標高差千メートルの険しい道を上り始めたのです。「行きなさい」と主イエスに言われて、自らの判断で、なお道を進まれる主イエスに従い、弟子たちの群れに加わわって自分の責任を果たす道を選んだのです。
わたしたちはすでに、「神の子」とされています。主イエスはわたしたちに、「来なさい」と招いてくださいました。イエスの招きに応答して参りましょう。そして主は、「何をしてほしいのか」とわたしたちに問いかけてくださいます。わたしたちは神の子ですから、今、願っていることを、堂々と躊躇することなく主イエスに向けてお答えする祈りを捧げましょう。遠慮する必要はありません。
そうすれば、願い事が叶うとは申しません。願い事は叶うかもしれませんし、叶わないかもしれません。わたしたちが今願っていることが変わるかもしれないし、願い続ける必要がなくなるかもしれません。迫害もあるかもしれません。
それでも主は、わたしたちの願い事を落ち着くべきところに導いてくださるのです。
わたしたちは神の御手の中にあります。主イエス・キリストが必ずよいように導いてくださると信じているのが、わたしたちの信仰です。
主がわたしたち一人ひとりに用意してくださっている道を、希望を持って歩み続けられますようにと祈ります。主の恵みを一つひとつ数えて感謝しましょう。苦しくても決してあきらめないでください。主の道が必ず開かれます。
5. ソロモンの祈り
今日与えられた旧約聖書、歴代誌下1章7節で、神から「何事でも願うがよい、あなたに与えよう。」と言われたソロモン王が、「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。」(1:19)と願ったことが書かれています。
11節には、ソロモンは、他の人が求めるように、地上での富、財宝、名誉、宿敵の命も、長寿も求めていなかったと書かれています。
そして12節には、神様から「あなたに知恵と識見が授けられる。またわたしは富と財宝、名誉もあなたに与える。あなたのような王はかつていたことがなく、またこれからもいない。」と言われています。ソロモンは祈りが聞かれたばかりでなく、それに加えて大きな祝福が与えられています。
わたしたちが、もし自分の利益や地上の豊かさだけを求め、それだけのために生きて、それだけが生きる目的になっているとすれば、神は喜ばれません。この地上で、どんなに豊かになっても、それはこの地上だけの喜びです。それは決して、永遠に続くものではありません。
新約聖書箇所から神の御心を尋ねてみましょう。
テサロニケの信徒への手紙5章3節(新378頁)には、「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」と書かれています。わたしたちが自分の利益、地上の豊かさだけに信頼を置いて奢っているなら、どこかで失望してしまうということです。
そして、マタイによる福音書6章33節(新11頁)には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と書かれています。
主なる神の知恵と知識を求め、神の御心を第一にして生きるなら、神に喜ばれ、それらの神の知恵と知識が与えられるばかりか、求めなかった地上での必要なものも与えられるのです。
さらに、マタイによる福音書11章26節には、「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」と書かれています。
主イエスが言われていることをしっかり受け止めて、感謝の祈りをさせていただきましょう。
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