top of page
検索
All Posts
完全な身代金(マルコ10:32-45) 20250504
人間の歴史を振り返ると、ダビデのように身代金を支払わなければならないような事態が延々と続いています。
人は身代金を払えたとしても、また何らかの罪を犯すのです。罪の繰り返しが行われる中で、神はどうしようもないわたしたちを憐れんでくださいました。そして、罪のない神の独り子による「完全な身代金」としてわたしたちの罪の代価を支払ってくださったのです。
わたしたちが、罪との完全な決別を行うことを主は望んでおられるのです。
現代の教会に生きるキリスト者は、「完全な身代金」を信じて御言葉に従う者です。
abba 杵築教会
2025年5月4日読了時間: 8分


故 白石玲子葬儀 20250428-29
日本基督教団杵築教会において、故 白石玲子の葬儀が、2025年4月28日(月)に[「前夜の祈りの会」、29日(火)に「葬儀・告別式」が執り行われました。 故 白石玲子 1932年2月6日誕生、2015年4月27日召天 故 白石一郎の遺作
abba 杵築教会
2025年4月29日読了時間: 1分


神は何でもできる(マルコ10:17-31) 20250427
誰もが聖書の言葉の前に、立ちすくむ経験をします。その時、自分はそこそこ、うまくやっている、他の人よりはましだ、と思っていたのでは変われないのです。人間が変わるためには、まず自分の至らなさを思い知る必要があります。
実は、それが一番難しいことなのです。しかし、難しい、不可能と、諦める必要はありません。わたしたちが変わることができる道があります。もうお分かりだと思います。
主に従う者は、災いも重なるが、「罪に定められることがない」、「神は何でもできる」と言われる主イエスを信じ切って、復活祭を終えて聖霊降臨日に向かうこの復活節の日々を、主の手にひかれて共に歩み続けさせていただきましょう。
abba 杵築教会
2025年4月27日読了時間: 10分
神は何でもできる(マルコ10:17-31) 20250427
誰もが聖書の言葉の前に、立ちすくむ経験をします。その時、自分はそこそこ、うまくやっている、他の人よりはましだ、と思っていたのでは変われないのです。人間が変わるためには、まず自分の至らなさを思い知る必要があります。
実は、それが一番難しいことなのです。しかし、難しい、不可能と、諦める必要はありません。わたしたちが変わることができる道があります。もうお分かりだと思います。
主に従う者は、災いも重なるが、「罪に定められることがない」、「神は何でもできる」と言われる主イエスを信じ切って、復活祭を終えて聖霊降臨日に向かうこの復活節の日々を、主の手にひかれて共に歩み続けさせていただきましょう。
abba 杵築教会
2025年4月27日読了時間: 10分


竹井真斉牧師:新たなスタート(マルコ16:1-8) 20250420
復活のイエス様は、ペトロを始め弟子たちの一切の罪を赦し、再び御自分の弟子として召し出し、お遣わしくださいました。私たちの信仰の歩みはそれこそ浮き沈みが激しいものかもしれない。しかしガリラヤがあるのです。何度でもイエス様は私たちを見捨てず、召し出してくださるのです。私たちがイエス様によって神様の子であるが故に、どこまでも私たちを愛し導いて下さる。私たちが必要だと言って下さる。わたしと一緒に生きてほしいと言って下さる。だから、どれほど私たちが挫折するようなことになるとしても何度でもやり直せるのです。
abba 杵築教会
2025年4月20日読了時間: 10分


幼子のような信仰(マルコ10:1-16) 20250413
13節には、弟子たちが「(人々を)叱った」と書かれています。たしなめるとも訳すことができて、それほど強い感情を表す言葉ではありません。しかし14節の、主イエスが弟子たちを「(見て)憤り」という言葉は、憤慨する、怒り狂うという厳しいものです。
主イエスが弟子たちを見て激怒したのですから、弟子たちもびっくりしたでしょう。弟子たちは主イエスに一番近い存在でしたから、神の国は自分たちのものだという特権意識があったのでしょう。そのことを主イエスは厳しく憤られているのです。
主イエスは、子供を人格を持つ一人の人間として見つめること、そして親と子が共に生きることを強く求めています。そして主イエスは、14節bで、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。
そして15節で、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と仰って、16節で「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」と書かれているのです。
abba 杵築教会
2025年4月13日読了時間: 9分


幼な子のような信仰(マルコ10:1-16) 20250413
主イエスは、子供を人格を持つ一人の人間として見つめること、そして親と子が共に生きることを強く求めています。そして主イエスは、14節bで、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。
そして15節で、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と仰って、16節で「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」と書かれています。
今日も皆さんは、礼拝に出席してみ言葉に耳を傾けています。これから先、晩年に至るまで、主に背負われ、生かされていくということをわたしたちが受けいれることこそが、主の喜ばれることなのです。主イエスによって赦された者として、神に抱かれている幼子のような信仰を持つ者でありたいと願います。
abba 杵築教会
2025年4月13日読了時間: 9分
平和に過ごしなさい(マルコ9:41-50) 20250406
最後の50節の終わりに、「そして、互いに平和に過ごしなさい。」と書かれています。この今日の聖書箇所の総括となる言葉で、「平和に過ごしなさい」を説教題とさせていただきました。
わたしたちは、神の独り子イエス・キリストの恵みに、既にあずかっていて、キリストのいのちの血潮を注がれているのです。わたしたちは、その恵みの中で、他の人を慰め、励まし、生かし、他の人の良い味を引き出し、他の人にいのちのことばを語る者へと変えられていくのです。わたしたちは、互いに平和に過ごし、平和を作り出す、平和につながる、歩みをさせていただくのです。
主イエスは、「一杯の水」を飲ませる者は、必ずその報いを受ける、と約束してくださいました。そして、自分の手、足、目で他の人をつまずかせることなく、塩で味付けされた言葉を人々に告げ知らせ、自らもその言葉を聞いて歩み、「平和に過ごしなさい」と、わたしたちに仰っているのです。
今日の聖書箇所で、「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と激しい言葉で語られた、主イエスの熱い思
abba 杵築教会
2025年4月6日読了時間: 8分


キリストの名(マルコ9:38-40) 20250330
40節に、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と、主イエスがヨハネに言われた言葉が続きます。「味方」とは「そばに(同じ側に)立つ」という意味です。ここで、主イエスは、「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」という大原則を示されました。
主イエスはここで、ヨハネに対して、キリストの名を使っていることで、自分たちの気に食わない用い方に思えるかもしれない、気に食わない相手かもしれないが、本当に敵なのか、「キリストの名」という共通点があるではないか、それなら「味方」、同じ側に立つ者ではないか、と言われたのです。ローマの信徒への手紙8章31節(新約285頁)で、パウロが、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と語っています。神さまが「味方」でいてくださるならば、わたしたちにはもはや敵がいないも同然になるというのです。
abba 杵築教会
2025年3月30日読了時間: 9分
すべての人に仕える者(マルコ9:33-37) 20250323
35節に、「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」」と書かれています。
ここで主イエスが言われたかったことは、「すべての人に仕える者になりなさい」ということです。
「仕える」という、もともとの意味は、食事の世話をする、給仕をするということです。そこから、食事だけでなく生活全体の世話をするという意味に拡がっていきました。ここで「仕える」というのは、人のために気配りすること、人のお世話をすることを意味します。
主がすべての人に仕える人になりなさいと言って、私たちを招いておられることが分かると、人と自分を比較をして競い合う愚かさに気が付きます。世界が違って見えてきます。共に仕え合い、共に歩み、共に生きる世界が見えてきます。そして、自分たちの心から、自分が偉くならなければならない、重んじられなければならない、軽く見られたくない、といった思いから解放されるのです。人と一緒に歩む道が大切に見えてきて、主イエスの愛が分かってくるのです。
abba 杵築教会
2025年3月23日読了時間: 9分
新しい契約(マルコ9:30-32) 20250316
かつて罪の問題は、本来自己責任でした。ところが人間の自己責任では、いつまでも罪の問題が解決されることはありません。人間は、また罪を犯してしまう。また自己責任で罪の赦しを得るという、負の連鎖がいつまでも続くのです。しかし神の子が犠牲を払ってくださる。それが「新しい契約」です。人間の罪の赦しのための犠牲を主イエス・キリストの十字架によって、果たしてくださいました。主イエスが罪の赦しを成し遂げてくださり、私たちはその主イエスを救い主として信じる、それが新しい契約です。
abba 杵築教会
2025年3月16日読了時間: 10分


一筋の光を(マルコ9:14-29) 20250309
7節には、「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。」と神への信頼に生きる祈りの言葉が書かれています。
そして11節では、「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っています。
私たちの心はとても裂けやすい繊細なものです。
「できれば、信じたい」と私たちは思うのですが、でも、同時に駄目かな、と思ってしまいます。ところが、ここでダビデは、そんな揺れ動く心ではなく、「一筋の心をわたしにお与えください。」と祈っているのです。
この聖書箇所から、今日の説教題を「一筋の心を」とさせていただきました。
abba 杵築教会
2025年3月9日読了時間: 10分
主イエスの変容(マルコ9:2-13)20250302
8節には、モーセとエリヤは消えて、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」と書かれています。
ここで、主イエスが真っ白く光り輝いたことは、イエスが本物のイスラエルの救世主、メシアであることが示された、確かな証しの出来事であることが強調されているのです。
しかもモーセとエリヤが共に現れたということですから、イエスがそれほど偉大な方である何よりの証拠となる出来事です。三人の会談を終えて、モーセもエリヤも消えていなくなりました。残されたのは主イエスだけです。モーセとエリヤが消え、これからは、主イエスお一人がすべてを担ってくださるということです。私たちの救いの完成に向けて、主イエスが必要なすべてのことをしてくださるのです。
abba 杵築教会
2025年3月2日読了時間: 10分
自分の十字架(マタイ8:31-9:1) 20250216
主イエスは、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白したことを受け止めましたが、弟子たちが周囲にその証をするのは時期早尚で、主イエスの弟子としてさらに彼らを教育しなければならないと思われたようです。
そのため31節に、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」と書かれているのです。
この中で主イエスは、自分のことを「人の子」だと言っています。「人の子」とは、イザヤ書53章で預言されていた「苦難の僕」を指しています。すなわち、ご自身が世の人々の罪を担い、多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると、ご自身の十字架の死と復活の予告をしたのです。
abba 杵築教会
2025年2月16日読了時間: 9分
ペトロの信仰告白(マルコ8:22-30) 20250209
30節で、主イエスは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と書かれています。
主イエスは、「だれにも話さないように」という同じ言葉を、悪霊に対しても、病をいやされた人にも、さらに弟子たちにも用いられて、「沈黙」を要求されています。ところが、皆、主の言いつけを無視して、いや、黙っていられないで、盛んに主イエスのことを証ししています。
それが、教会の今日につながっているのです。私も不完全、未熟者と告白せざるを得ない者です。主イエスの愛と恵みをいただき続ける必要がある者で、キリスト者として工事中の身です。キリスト者とは、常に主に導かれながら完成を目指して工事中の人々を言うのです。
abba 杵築教会
2025年2月9日読了時間: 8分
遠くから来ている者(マルコ8:1-21) 20250202
シリア・フェニキア生まれの女性の話の後に、今日の四千人への給食物語が書かれていますので、「中には遠くから来ている者もいる」と、異邦人がいたことをわざわざ書くことになったのは、この時点では、シリア・フェニキアなどからの異邦人が加わっていたと考えても良いと思います。
ここに至って、主イエスの福音宣教が異邦人に広がり始めていたことを指し示す御言葉として、「遠くから来ている者」と書かれたのだと思います。
abba 杵築教会
2025年2月2日読了時間: 9分
この人だけを(マルコ7:31-37) 20250126
「この人だけを群衆の中から連れ出した」と書かれていることです。今日の説教題はここから選びました。
「この人だけを」とあるように、主イエスは私たちに接するときに、いつもとてもやさしい配慮を個人個人にしてくださっているということが分かります。主イエスは、私たち一人ひとりの実情をすべて知って、私たちを大切に扱ってくださる方だということなのです。
詩編145編14節に「主は倒れようとする人を一人ひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。」と書かれていることを、人々が主イエスによって目の当たりにすることになるのです。
耳の聞こえない人は、話しかけられても聞こえないので、自分に接してくる人がいると、緊張とおびえでどうしたらよいか分からなくなることを主イエスはよくご存じなのです。そして、その人に温かな思いやりを示されて、その人だけを連れ出したのです。
abba 杵築教会
2025年1月26日読了時間: 7分
パンくず(マルコ7:24-30) 20250119
25節に、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」と書かれています。そして、26節には、「女はギリシャ人でシリア・フェ二キアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」と書かれています。
ここで、「来て」と書かれていますが、聖書のキーワードの一つです。
神のもとに来たという意味です。私たちが今朝のこの礼拝に参加していることに例えれば、あなたがたは教会に来て、主の言葉を聞き、主を賛美した、と神が仰っているのです。教会に行って礼拝したという表現は、礼拝に出席していない外側から語る言葉です。
さらに、その後の「ひれ伏した」というのは、信仰者の謙遜な姿を表わしたものです。ギリシャ人でシリア生まれのこの女性とは、一体何者なのだろうかと思わされます。
abba 杵築教会
2025年1月19日読了時間: 9分
福音とは何か(マルコ7:14-23) 20250112
主イエス・キリストの十字架の死は、本来死ななければならない私たちの身代わりとなってくださったものなのです。まったく罪汚れのない主イエスが私たちの身代わりになってくださったことによって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去って清めて下さったのです。それが福音であり、「喜ばしい良い知らせ」という意味なのです。
そして主イエスは、罪ある私たちがキリストに結ばれて救われ、新しい信仰の生活に入ることが赦される恵みの印として、洗礼を定めて下さいました。そしてさらに、その神様からいただいた恵みを自らの身体をもって味わいながら生きるために、この後与る聖餐を備えて下さったのです。
神があなたの人生に現れてくださったその福音の原点を大切にすること、そしてあなたが人の優しさに支えられたその原点を大切にすることこそが、私たちキリスト者の交わりを深めるエネルギーになります。そして普通とは違った形で、神を愛し、人を愛する、それこそが聖なるもの、清いものにされるという意味なのです。
abba 杵築教会
2025年1月12日読了時間: 7分


神の掟と人の言い伝え(マルコ7:1-13) 20250105
当時のファリサイ派の人々は、「俗」とか「汚れ」の意味を細かく規定して、「清め」の手続きを明確にしていました。
自分たちユダヤ人は神に選ばれた選民であり、自分は清い、そして自分は清さを保てると考えていたことがその背景にあります。
自分は清いからこそ、外からの汚れによって自分の清さを損なわないようにしている、と考えているのです。 自分たちのつくった口伝律法の規定に従っていれば、神の教えに反することにはならない、という安心感を自分たちに与えていたのです。ファリサイ派の人々の自分は選民であり、すでに清いと考え、手洗いの規定は清さを保つためだと考えていることに、彼らの虚栄心の強さとうぬぼれが現れているのです。
彼らのそうした選民意識にこそ、問題があります。「清さ」とか「聖」というものは、神に属するものです。この世で聖なるものは、神だけです。だからこそ神は、人々に「死を招くことのないため」にと、「(手足を)洗い清める」ことを求めておられてことを知らなければなりません。
abba 杵築教会
2025年1月5日読了時間: 8分
bottom of page